32.鏡映描写と美影の手紙

 それから数日後――

 三人に求められたのは「鏡映描写」だった。

 これは、直接手元を見ることなく、鏡越しに手元を見ながら図形を正しく書くというものだった。


 こんなマジックの真似事が何の役に立つんですの? とはゲシュヴィッツの弁だが、これは宇宙空間における船外活動時に大いに発揮される才能に繋がる。


 分厚い宇宙服を着た状態では、手元を見ることが非常に困難なのだ。

 何しろ首は気密ヘルメットで固定されているので、見下ろすという動作ができない。そのため、船外作業員は必ず手首に取り付けられた鏡を使い、そこに映ったものを見てさまざまな調節などを行う。宇宙服の代謝維持装置にある機器操作のための記載が、鏡文字で刻印されているのはそういう理由だ。そんなことを美影は説明してみせた。


「よく知っているな。私はそんなことにまで気が回らなかった」


 稲村が素直に美影を褒め称える。いいえ、こんなことは常識ですよ――と言いかけてとどまる。こういう時は素直に受け取るのが一番だ。いらぬ謙遜けんそんは相手の矜持きようじを傷つけることにもなるのだから……。




 美影の無事を知らせる手紙が、千鶴子のもとに届いたのはそれから数日後のことだった。夏の雲をしたがえ、夕暮れ時の風が神社の境内を吹き抜ける。社務所のなかで懐からそれを取り出すと、彼女は丁寧にそれを開封するのだった。


『お久しぶりです。美影です。なかなか連絡をせずにすみません。私は元気でやっています。おばあさまもご健勝でいらっしゃることかと思います。

 ANALの訓練は厳しいものですが、それでも毎日なんとか楽しくやっています。友達と呼べる方もできました。ああ、そういえば私がおばあさまに手紙を書くなんて初めてのことでした。どう書いていいものやら、ちょっと迷いながらの文面です。だから、ご近所の方々にもお伝えください、私は元気ですと。

 少し気になるのは神社の境内です。もうそろそろ落ち葉が降り積もる季節ではありませんか。おばあさまだけにお掃除をお任せするのは申し訳ない気持ちでいっぱいです……。あれから色々と考えていました。私は何のために宇宙へ行きたいのか。なんのために招かれたのか。

 実のところ答えはまだ出ていません。ひょっとすると、宇宙へ行くということが最終目標なのではなく、これはまだ見えない私自身を探すための、過程のようなものなのかもしれません。そう考えると、なんだか壮大な夢が広がりますね。

 訓練がひと段落したら島に帰ってもいいことになっています。そのときは、ぜひまた一緒に神社のお仕事をしたいです。きちんと戻りますから、待っていてください。お元気で、比山千鶴子様』



 封筒には一度開封された形跡があった。おそらく情報漏洩を防ぐために、一度確認が行われたのであろう。細かくて小奇麗な美影の文字で、それはつづられていた。


「そうかい、あの子は元気でやっているのかい……」


 千鶴子は何度も手紙を読み返しては、嬉しそうに目を細めた。

 しかし、それとは裏腹に表情はどこか浮かない。何かを躊躇ためらうような、憂うような陰りをのぞかせる。


 義理の子とは言え、やはり心配なのだろうか。

 あれだけ長い推薦文を書いたのも、その心配の表れだった。できることならば行ってほしくなどない……そう思うのは親心としては当然の者なのかもしれない。


「美影……」


 夕陽が傾き、辺りが薄暗くなった。〈比山神社〉の境内から人の気配が消える。ややあって千鶴子は何かを決意したような表情で立ち上がり、社務所を後にした。

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