3.知性の娘

 美影が目覚めたのは学校の教室だった。

 ああ、授業中に眠ってしまったのか。或いは発作でも起こしていたか……。

 そう思って辺りを見回すともう誰もいない。

 当たり前だ。もう放課後じゃないか……なんで誰も、先生すらも起こしてくれないのだろうと、不良少女ぶりながら立ち上がり、伸びをした。


 こんなのは周囲に誰もいないからできる、一種の発散行為だ。

 同級生の目があったとしたら、下を向いてそそくさと逃げる事しかできないだろう。美影はそういう内向的な少女だった。そして、そのことが最大のコンプレックスであることを自覚している……。


 すり鉢状の階段教室には疑似夕陽がさしている。

 いや、そもそもあれは夕陽なのか。朝日のように見えなくもないが。時計は五時を指している。これも午前なのか、それとも午後のそれなのか分からない。午後なら十七時と示して欲しいと思う。そんな時計はないものか。

 分からない、分からない。

 長い夢を見ていたような気もするし、そうではない気もした。

 そもそも夢なんてものは覚めてしまえば消えてしまう被膜でしかない。一種の虚像だ。考えるだけ無駄。そう、私はもっとドライに生きるべきなのだ……。


 そんな美影の中にはもう一人の自分が眠っている――と心中で独り言ちる。

 いや、誤解しないでほしい。別に多重人格とかそういうのではないし、中二病にかまけている年齢としでもない。あと一年半もすれば高校生だからだ。言うなれば高二病の前触れだろうか。どちらでもいい。


 もう一人の自分というのは普段押し殺している本来の自分のはずだ。

 いつも私という檻に抑圧された本来の自分だ。

 もっとドライであって、もっと強気に出られる理想の自分……。

 誰にも負けはしない、他人を踏み台にしてでも上に上がり前へ出ていける勝者としての自分……。そんな自分が本当のおのれだと思い込んでいる。


 でも、ならばそんな己れを押し込めている今の自分とは何だ。

 そんな強がりな自分を閉じ込めておける自分は、理想の自分より強いのではないのか……。


 思考は堂々巡り。

 私は誰だ。私が抑圧している私は誰だ。

 そもそも私はどこから来たのか。

 そんなことを考えると酷い頭痛に悩まされる。だからこういう時は別のことを考えるといい。素数を数えるとか、そういうの。


 しかし、素数とはなんだろう。そこからして知らないのも私の業だ。

 知性の娘と呼ばれていたのを思い出す。

 ソフィア。ソフィア=ピスティス――。そう呼ばれていた。

 呼んでいたのは誰であろう。

 ああ、幸いなるかな魂よ。なんじは今、この世界を立ち去れり。滅びと、妬みと、苦しみと不和、悪しき者たちの住まい。もろもろの罪にあふれたのこの場所を。


 でもそれができない。

 無能だから。未熟だから。勇気がないから。

 目覚めていないから。

 だからいつも苦痛に負ける。負け続ける私も私なのだと自覚する……。


 頭痛に耐えていると、えてくるのは大宇宙の声だ。

 聴こえてくるのは世界の色彩だ。


 なんだこれ。

 普通、聴こえてくるのは音で、見えるのは情景ではないのか。

 矛盾。

 だが、その感覚に身をゆだねている時だけ私は解放される気がする。

 苦痛からの解放。

 だからもう一人の私とは、きっとどこか別の次元にいて、今の私を操っている。この苦境に苦しむ私を楽しんでいるのだとも思う。


 私は私を操れていない。しかし、もう一人の私を抑圧するのも私だ。抑圧されたもう一人の私もまた同じように苦しんでいるというのだろうか。

 だとするならばこれは永遠に続く入れ子構造の内面宇宙にほかならず、終わることのない輪廻が繰り返されているとでも言うのか。


 目を閉じれば赤い光が広がってゆく。この教室を満たす夕陽と同じ色だ。

 その光の中に十二人の乙女が立っている。

 彼女らが見ているのは私自身だ。

 そうだ、彼女たちに神子さまと呼ばれていたのを私は知っている。

 そして私は、そこに所属していた。

 この世界とは摂理を異にする世界で、私はやはり私であり、今の私を操り続けているのか……。



「やあやあ、ちょっと質問いいかな」


 と言って近づいてきたのは高橋たかはしという男だった。

 場所は校門。肛門ではない。いや、出口であることに変わりはないのだけれど。


 高橋は無精ひげを生やした大男で、眼鏡をかけていた。

 くしゃくしゃの頭髪に大きな耳が特徴でもある。

 差し出された名刺には、なにやら横文字で「株式会社コンキスタドール」と会社名が書き込まれていた。なんでもそこのプロデューサーだという。

 スカウトにでも来たのだろうか。

 でも何故?

 こんな冴えない、同級生からも無視されているようなすれっからしの私に何の魅力があるというのか――いやいや、これは美影の先走った思考だ。


 思考は自由だ、と少女は思う。口にさえ出さなければおかしく思われることは、まぁあるまい。想像の中でどのようにあろうとも……いずれ着地するのは現実であろう。


 空想と思考の翼をはためかせて高く舞い上がれば舞い上がるほどに、着地する現実は乖離してゆくものだ。

 いっそのこと飛び上がったその先に、全く別の新天地があればいいのに……。そんなことを想う。


 もしかして、これがそうなのだろうか。新大陸へ踏み出す第一歩。

 でも勇気がない。

 これまでの安穏たる日常を捨てて、新世界へ踏み出すのに必要なのは捨てる勇気だ。踏み出す勇気とはまずそこから生まれ出る。ああ、大いなる父よ。神よ。どうか私に勇気を与えたまえ――。疑似夕陽はますます濃い。

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