2.自宅にて目覚める

 美影が目を覚ましたのは自宅の自室だった。

 心配そうにのぞき込んでいるのは一人の壮年女性、そして近所のおばさんだった。


「おや、気がついたかい」


 素っ気ないが穏やかな物言い。祖母の声だ。それに続いて近所のおばさんも安堵したような声を上げる。ああ、そうか。またいつもの発作が起きたのだな――と美影は眉間にしわを寄せた。


 幸いなことに文字はもう見えない。

 あれは、美影にだけ訪れる文字通りの発作のようなもので、彼女が日常生活を送るうえで多大な妨げとなっている。あれが起これば頭痛はする。目は腫れたようにパンパンになるし、吐き気を催す場合もあった。

 視たくないのに「視えてしまう」のだ。超感覚体質――そう名付けられた美影の特性は、本土で暮らすにはあまりにも過酷なものだった。


「まぁ、また何かのご神託でもあったんじゃないのかね?」


 そういうのは近所のおばさんだ。彼女らは美影のこの体質のことを、そういうものだと理解している。早い話が神様が憑依ひよういしたという、土着の信仰だ。


 憑依――という言葉を美影は今ひとたび噛みしめている。

 辞書によれば、霊が憑くこと、乗り移ることとある。それは、古くから言われる神おろしであり、憑りつく例によっては悪魔憑き、狐憑きともいわれる一種のトランス状態の事だ。


 民俗学的に見れば、憑依とは行動を支配されている証拠ともいう。

 意思とは無関係に操られるのだ。

 宗教学では信念に分類され、医学では精神疾患の一種とされる……。

 要は見る角度によって姿形を変える不定形の概念だ。

 これが今も根強く残っているのが、沖縄地方に伝わる「カミダーリ」であり、恐山のイタコによる「口寄せ」であるとされる。


 もともと西洋医学の見地からすれば精神疾患の一つに過ぎないこれらが今なお生き残っているのも、こういった多彩な側面を持つ概念だったことが大きく影響している。人々から神聖視された狂気――とでもいうべきか、少なくとも西洋的思考によって駆逐されることは免れたわけである。学問に感謝すべきかもしれない。


「いずれにせよ、大切な島の巫女さまに何かあったらことだと思ってね。道で倒れているのを慌てて旦那と担いできたってわけさ。でも、いつもどおりのようでまずは何よりだよ」


 おばさんはそう言って臥せったままの美影を拝み倒して帰っていった。

 巫女さま、ですか……。

 そう、天満美影は今、この南裏界島に唯一存在する〈比山ひやま神社〉の巫女でもある。本土で暮らすことのできない彼女を引き取ったのが、先代の巫女でもある現在の祖母といういきさつだった。


 もっとも、祖母と言っても血がつながっているわけではない。

 千鶴子という名の彼女が美影を引き取った理由はよく分からないままだが、その背後に国から相応の資金が出ていることを、少女はそれとなく悟っている。

 養育費、援助費というやつだろうか。

 いや、そんなことはどうでもいい。〈比山神社〉は古い神社だ。立て直すためにはお金がいるのだろう。それに、たとえ金銭目的で自分が引き取られたのだとしても――今こうして静かな生活ができていることに感謝すべきだ。だから、そのようなことに感づいていると悟られてはならないし、何かを言うつもりも美影にはなかった。


「最近は落ち着いていたと思ったんだけどねぇ」


 とは祖母である千鶴子の弁だ。心配そうに首を傾げている。

 大丈夫よ、と美影は力なく笑った。こんなのでへこたれていちゃ、宇宙へはいけないわ。それに……。


「それに? なんだい?」

「たまにでも発作が起きれば、島の人たちからは、少しでも巫女らしいと思ってもらえるんじゃないかしら……」

「馬鹿を言ってるんじゃないよ」


 祖母による叱責。

 それはそうだ、と少女は理解している。

 少しばかりひねくれたところがあることもよく自覚している。だが、そうでも思わなければ直視できない現実であるのも確かなことなのだった。なので祖母はそれ以上何も言わない。


「私は、お前が静かに暮らしてくれればそれで充分なんだよ。ましてや軌道地鎮祭なんて……」

「……」


 返す言葉を美影はもたない。ここまで心配されているのに、金銭目的で自分を引き取ったのかと、そんなことを想えるはずはなかった。


 こんな事ばかり考えて駄目だな、と思う。

 この島にやって来てもう二年近くが経過しているが、美影は自身の内に刻まれてしまった深淵が、時折大きく口を開けるのを分かっている。この南の楽園での生活が、仮初かりそめの平和でしかないことを誰よりも分かっている。なぜなら――

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