軌道地鎮祭
文明参画
第一章 召命
1.電波少女、美影
●
南国の花を思わせる色をした長髪が、腰のあたりで揺れている。一定のリズムをもって風になびき、オーケストラの指揮棒を思わせるかのように躍動していた。
髪をまとめているのは白いハチマキだ。その下には日焼けとは程遠い、やはり白い柔肌をした少女が上気した顔を覗かせていた。
少女は
(少しでも体力をつけなくては)
これが少女の日課であり、日々の目標である。走り始めてまだ数か月程度だが、少しのことでは息切れすることもなくなってきた。最初の頃、自宅を出て数百メートル程度でギブアップしていたことを想えば、見違えるような進歩と言えた。まだ年若い少女ゆえに、使えば使うだけ体力も伸びていくのかもしれない。そう思っている。
なぜ走るのか――と問われれば、宇宙へ行くためだと即答する。
そのために自分はこの島へやってきたのだから……。
『
美影のもとに、こんな通達文が届いたのは今から半月ほど前の事だった。差出人は〈モナルキア〉という団体。場所は日本近海の南裏界島という離れ小島にある
そこには宇宙往還機打ち上げ施設が建設された巨大な海上都市メガフロートが存在している。そういう場所であった。
軌道地鎮祭……。何のことかさっぱりわからない。衛星軌道上で地鎮祭を行うとでも言うのだろうか。地鎮祭というからには神職が必要なのであろうということは、なんとなく想像がついた。
神職? 巫女でしかない私が……。
いいや、そうではない。巫女、みこ、神子……。
鼻の奥がつんとする感覚がした。なぜならあの頃、私は確かに「
思い出すのは〈教団〉と呼ばれる団体での生活だった。「神の子」として崇められ、信徒たちに神託を授けていたのだと、あとから教えられた。
そう――私の記憶はおぼろげだ、と美影は思っている。日に日に霞んでゆくその記憶の中に、何か引っかかるものを残している気がする。今回の召集令状は、そのことを思い出させるきっかけとなった。だからこそ、よく分からないまま、半年後に控えた訓練開始日のために、こうして体力作りに励んでいるのだった。
美影が走るのは決まって海岸沿いのコースだ。自宅から石畳の坂道を駆けおりて、木立を抜けた先にはもう海岸が広がっている。そう、ここは島なのだ。
それもそのはずで――
「ああ、今日もまた宇宙へ出ていくんだ……」
美影が見つめる海の先には、巨大な
南裏界島からは、それなりの距離があるはずなのに、打ち上げ時には相応の轟音が轟く。島にやって来て、最初にこの光景を目にした時は驚いたものだった。天を目指す光……。
その先は広大な宇宙空間だ。
なににも縛られることのない、絶対零度にして真空の支配する極限の世界。
そこへ出ていく飛行士たちの姿にもまた、ある種の憧憬の念を抱く。その畏怖すら覚えるありさまは神々しく、あの宇宙港から軌道上へと出ることは、いつしか美影にとっての夢になっていった。
(そのためにはまず体力をつけなくちゃね)
そう、人類が宇宙へ安全に出られるようになったこんにちとはいえ、その適格者に選ばれるには相応の資質がいる。民間人による旅行者も増えつつはあるが、それでも一部の富裕層や学会関係者に限られているのが現状であった。そして、そういったかれらでも共通して求められるのが――
「健康な身体に十分な体力。堪能な語学」
そんなことを口の中で呟きながら、美影は今日もかけてゆく。
いずれは島を一周することも考えている。それぐらいこなせなければ、宇宙に出るという夢など到底叶いはしないだろう……。
「ああ、それにしても
木立の間を吹き抜ける南風は爽やかだ。どこか熟れた果実の香りを孕んで、一種の清涼剤にも感ぜられる。耳に届くのは潮騒の音だ。海岸に打ち寄せる波はいつも穏やかで、荒れることは滅多にない。今の美影の精神状態にも似て、静かなものなのだった。
打ち上げられた往還機は、美影が走って行く彼方の上空に消えていく。打ち上げから数分で大気圏外に達するのだ。そのまま周回軌道に乗り高度を上げながら、約二日後後に衛星軌道上に鎮座するISS――新世代型国際宇宙ステーションへとランデブーすることになっている。
南裏界島には、その関係者も多く在住しているため、テレビ番組にはそれ専用の報道チャンネルがあったりもする。打ち上げのあった日のそれを見るのは、美影にとっての楽しみの一つだった。
(私のあれも、だいぶ落ち着いてきた頃合いだろうか……)
そんなことを想った直後だった。
ソフィアよ――。父なる者の声が
大いなる天使エレレート、すなわち「理性」が美影に告げる。終わりなきアイオーンには「不滅性」が潜む。ソフィア=ピスティス、
水平線に目を向ければ、そこには「雲」「空」「青」「海」「水」「砂」といった文字が並び、世界を埋め尽くしている。いずれも風景を意味する文言であり文字だ。漢字や平仮名カタカナ入り混じって世界を構成している。そこに景観というものは存在していない。認知の暴走だった。
まずい、と今来た道を振り返る――そこにあったのは、「緑」「木」「石」……息苦しさに耐え兼ねてうずくまってしまう。この感覚から逃れるには目を閉じるしかない。いや、目を閉じても脳裏に視えてくるのは「闇」という文字群だった。これが業なのか。
潮風が吹きつければ「風」という文言が瞼の裏に焼き付いた。ありとあらゆる世界の光景が、音が、声が、色彩が、在り方が……文字となって美影に襲い掛かってくる。それらを一つ一つ処理するにはあまりにも過多な情報だ。脳が焼き切れそうだと感じる。やがて、少女の意識はぷつりと途絶えた。
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