第66話 ロキ

夕方になって王立図書館を出たウィルジアが向かった先は、騎士団の本部である。

 外の訓練場では待っていたのか兄が立っていた。


「よーっ、ウィル。本当に来たな! えらいえらい!」


 兄は丹精な顔立ちにいい笑顔を浮かべてウィルジアを歓迎する。


「はい、じゃあ素振りから。今日は三百回でいいぜ! その代わり丁寧にな」


 兄から模造刀を受け取ったウィルジアは、指示に従い黙々と素振りをする。

 三百回とはいえ昨日の疲れが残っている状態だとかなりきついが、それでも自分で言い出したことなのでウィルジアはもう弱音は吐かなかった。

 素振りを終えると、休む間もなく兄との手合わせである。相変わらず上着を羽織ったまま手合わせするエドモンドの表情は余裕に満ちており、ウィルジアだけが苦戦している状態だった。

 エドモンドの動きは素早く、一手一手は非常に重い。パァンとウィルジアの持っている模造刀を弾き飛ばし、足をかけて転ばせてきた。バランスを失い倒れてもすぐさま立ち上がるウィルジアを見て、兄は心底嬉しそうな顔をする。

 結局またも一時間ほどの手合わせの後、昨日よりさらにボロボロになって地面に沈没しているウィルジアを見下ろしながら、兄は言う。


「お疲れ、ウィル」

「……うん……ありがとう」


 すると兄はウィルジアの礼が意外だったのか、赤い瞳を丸くした。ウィルジアはその場に腰を下ろしたまま言葉を続ける。


「兄上だって忙しいのに、付き合ってもらってるから。兄上の言う通り、もっと鍛えておけばよかったって、今更後悔してる」

「ウィル、お前……そんなこと言えるようになったのか。昔は俺から逃げ回ってばかりだったのに」


 兄は瞳を潤ませると、ガバッとウィルジアに抱きついてきた。


「泣き虫だったウィルが成長して、おにーさまは嬉しいよ!」

「いっ、痛いっ! 兄上、締まってる締まってる!」


 ギリギリギリと兄に締め上げられるように抱きつかれ、ウィルジアは地面をバンバン叩いた。


「なんだよ、愛情表現だろうが」

「兄上の愛情表現は過激すぎると思う」


 至極真っ当なウィルジアの意見は、膨れた顔の兄に却下された。

 渋々ウィルジアを離してくれたエドモンドは、立ち上がりつつ懐中時計を見る。


「あぁ、もうこんな時間か。ウィル、お前今日どうやって帰るつもり?」

「辻馬車でも拾って行こうかなと」


 終わりが何時になるかわからないので、リリカに迎えは頼んでいない。そもそももう二度とエドモンドにリリカを会わせたくなかったので、騎士団に来させるつもりはなかった。

 通りに出れば辻馬車の一台や二台停まっているだろうから、それに乗って帰ろうかと思っていたところだ。


「もっといい方法があるぜ」


 兄はそう言って口の端をにーっと持ち上げた。

 ウィルジアは、兄がこの表情で何か提案をする時は、絶対にロクなものではないということをよく知っている。

 知っているが、逆らう選択肢など存在していないということも、また知っていた。

 騎士団の訓練場を出た二人は、裏手にある馬小屋に向かった。

 そこにいる一頭を引き出したエドモンドがにこにこしながら説明する。


「紹介するな、黒馬のロキ! 俺の替えの馬にしようと思ってたんだけど、臆病で全然言うこと聞かないから困ってたんだ。しばらく貸してやるよ」

「貸してやるって……」


 ウィルジアは頬が引き攣った。

 兄が手綱を握っている黒馬は、どう考えても素人のウィルジアに御せる馬ではない。

 耳が頭につきそうなほど後ろに倒れており、目元は険しく、歯を食いしばり、地面を仕切りに蹄で引っ掻いている。明らかにイラついていた。

 兄はそんなロキの首をぽんぽんと叩くと、なだめるように言い聞かせた。


「よーし、ロキ。今日からお前のご主人様はこいつ、ウィルだ」


 すると馬のロキは、今しがた存在に気が付いたかのようにウィルジアを見る。

 ロキは瞬きすらせずに黒いつぶらな瞳でウィルジアのことをじーっと見つめる。ウィルジアはとりあえず、ロキに笑いかけてみた。


「どうも、よろしく?」


 ロキはウィルジアとエドモンドを交互に見比べる。


「しばらく俺のところから離れて、ウィルの屋敷の世話になるよーに。ちゃんとウィルに言うこと聞けよ」


 それを聞いたロキは、顔をパッと喜びに輝かせた。よほど兄と離れたかったようだ。


「じゃ、乗って。俺、隣ついてってやるから」


 兄は親切なんだか不親切なんだかよくわからない。さっさと自分の白馬に乗ったエドモンドは、ロキを見てどうしようかなと尻込みするウィルジアに眉根を吊り上げて声をかけた。


「早く乗れって」


 覚悟を決めたウィルジアは、おおよそ六年ぶりに馬にまたがった。

 ウィルジアを乗せたロキは、なんだかご機嫌な様子だった。だが乗馬が久々なウィルジアは、果たして無事に屋敷まで辿り着けるだろうかと心配な気持ちを抱えていた。

 しかしともかくロキにまたがったウィルジアを見て、エドモンドは満足したようだった。


「よーし、じゃ、行くか!」

「もう行くの!? 練習とかさせてくれないの!?」

「行くに決まってるだろ! ウィルの屋敷に向かって出発! ロキ、しっかりウィルを乗せたまま俺についてくるよーに!」

「えっ、ちょっと、うわっ!」


 兄はウィルジアではなくロキにそう声をかけると、先導するべく自身の白馬を駆けさせた。

 ロキはご機嫌な嗎を発してから前脚を上げ、それから前を行くエドモンド目がけて爆走を開始した。


「げっ!」


 なんとか手綱を握るウィルジアであったが、操るどころではない。振り落とされないようにするだけで精一杯である。

 アシュベル王国の王子たちを乗せた二頭の馬は、大通りをかなりの速度で駆け抜けた。

 兄は道ゆく馬車を器用に避けながら疾走していたが、ウィルジアにそんな余裕はない。どうか誰にもぶつかりませんようにと、半ば祈るような気持ちでロキにしがみついているだけである。

 しかしロキは、自らきちんと往来を通る人も馬車も避けて、まるでスキップするかのように軽快な足取りで兄の後をしっかりとついていった。

 一陣の風のように駆け抜ける二人の姿を、王都に住む人々は呆気に取られて見送った。

 奇跡的に事故を起こさずに王都の郊外まで出ると、今にも閉まろうとする城門までたどり着いた。門兵たちはウィルジアとエドモンドの姿を見てギョッとした。


「エドモンド様!?」

「おらーっ、王子様たちのお通りだぜ! 跳ね飛ばされたくなかったらどいてな!」


 横暴な兄の一声に、馬に蹴られてはたまらないと門兵たちが左右に避ける。

 直後、ウィルジアとエドモンドを乗せた馬が門を駆け抜けた。

 街道を土埃を巻き上げながら走り、森の中へと突っ込んで、そのままウィルジアの屋敷の前まで全速力で駆けて行く。

 果たして王都の中心街から自邸までの移動時間の最速記録を打ち立てたウィルジアは、リリカが開けてくれた鉄扉をくぐって屋敷の敷地に入り込むと、手綱を思いっきり引いた。

 ロキが急停止し、屋敷にぶつかる寸前のところでぴたりと蹄が止まる。

 あまりにも心臓に悪すぎる帰路の旅を終えたウィルジアに向かって、リリカが恭しく頭を下げる。


「ウィルジア様、おかえりなさいませ」


 そしてエドモンドは屈託のない笑みを浮かべながら言った。


「ウィル、よく振り落とされなかったな! おにーさまが褒めてやる!」


 ウィルジアは生きていることを実感しながら、ロキの上で脱力した。


◆◇◆


「この馬は一体どうしたのですか?」

「騎士団で飼ってるロキ(♂)。性格が戦闘向きじゃないから、ウィルの移動手段用に貸すことにした」


 リリカの質問に答えたのは、エドモンドだった。

 リリカに手綱を握られたロキは、首を振り振りしきりにエドモンドを威嚇している。ものすごく早く帰って欲しそうだった。


「アウレウスと仲良くできるといいんですけど……」


 リリカは心配そうな面持ちでロキを見上げた後、エドモンドの方を向いた。


「エドモンド様は本日、どうなさいますか?」

「え、何何、お邪魔してもいいの?」

「ダメに決まってるだろ。帰ってくれ」


 リリカの問いに乗ろうとする兄に、ウィルジアは速攻で帰宅を促した。兄は肩をすくめてから、自身の白馬にまたがる。


「じゃ、大人しく帰るよ。ウィル、明日から三日くらいは付き合えないけど、鍛錬を怠らずにまた来いよ!」


 ゴネずに帰る兄を意外に思いながらも、ウィルジアは去りゆく兄を見送った。

 兄がいなくなるとロキは落ち着きを取り戻し、ウィルジアの体に頭をすりすりと擦り付けた。


「わっ」

「ウィルジア様、気に入られたようですね」


 ウィルジアがロキを撫でてやると、ロキは非常に嬉しそうに鼻から息を吐き出した。そんな機嫌良さげなロキを見て、ウィルジアは思った。


「エド兄上に……随分苦労させられたんだろうなぁ」 


 一体あの兄は、馬にどういう仕打ちをしたのだろうか。想像するのも恐ろしい。

 ウィルジアはロキに同情した。


「ひとまず、馬小屋に連れて行きますね」


 リリカはロキの手綱を握りながら、馬小屋へと促す。ウィルジアもなんとなく隣を歩いてついて行った。


「ウィルジア様、大丈夫でしたか?」

「うん。嵐みたいな兄のせいで、騒がしくてごめん」

「いいえ、ウィルジア様がご無事で何よりです。よくこの子に乗って帰ってこられましたね」

「どうして振り落とされなかったのか、自分で自分が不思議だよ……」


 何せ疾走するロキは尋常ではない速さだった。前日の筋肉痛の影響もあって体が万全ではなかったのに、無事にここまで辿り着けたのは奇跡である。

 馬小屋に行くと、アウレウスが首をもたげる。新たな馬の出現に若干興味を示したが、気性がおとなしくリリカによってよく躾けられているアウレウスはロキに絡んだり威嚇したりしなかった。

 リリカは鞍を外すと丁寧にロキの艶やかな黒い毛にブラシを当ててブラッシングをし、空いている馬房にロキを入れ、桶に飼い葉を入れる。

 ロキは大人しくリリカが用意した飼い葉を喰み始めた。

 リリカは馬の世話を一通り終えると、ウィルジアへと向き直る。


「ウィルジア様がご無事で何よりでした。明日からこの子に乗ってご出勤されるんですか?」

「えっ? そうだなぁ……乗ってどこかに行く前に、乗馬の練習した方がいいよなぁ」


 ロキはいい子そうだが、それにしたってウィルジアの乗馬の腕前はひどいものなので、街中に出る前に練習した方がいいだろう。


「でしたら練習がてら私と一緒に森の中を散策いたしますか?」

「いいのかい?」

「はい。ウィルジア様と馬でお散歩するのは、楽しそうですし。お屋敷の周辺や王都の街道沿いでしたら、熊に遭う心配もありません」

「じゃあ、お願いするよ」

「はい!」


 リリカが笑ったので、ウィルジアもつられて笑顔になった。

 なおその様子を見ていたアウレウスは目を細め、ロキはふんすと鼻から息を吐き出していた。

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