第61話 おにーさまの特訓

 兄に出くわしたウィルジアは、くるっと踵を返して逃げようとしたが、無駄だった。

 馬から降りた兄がウィルジアの肩に腕を回し、思いっきり引き寄せてきたのだ。

 エドモンドは逃げたがるウィルジアの気持ちなどにはお構いなしに、母譲りの美貌にいい笑顔を浮かべて喋り出した。


「会いたいと思ってたんだよなー、何せお前、この間の夜会で見違えるように変わった癖に、理由を何も話さないで帰って行っただろ。それっぽい奴がいたから早駆けしてきたら、やっぱウィルだったじゃん。見違えたな、見た目だけは」

「エド兄上、放してくれっ」

「やーだーね」


 エドモンドはウィルジアの首をギリギリと締め付けた。

 おそらくエドモンドは手加減しているのであろうが、現役騎士であるエドモンドの腕力は並ではない。エドモンドはじゃれているつもりでも、ウィルジアの細い首は冗談抜きで折れそうになった。


「兄上っ、苦しいっ」

「あ、そう?」


 兄はそう言うと、ぱっと手を離した。逃げ出そうと前のめりになっていたウィルジアはバランスを崩して芝生の上に膝をつく。手にしていたバスケットが放り出された。


「ははは、よわっ」

 見上げた兄は、良い笑顔である。相変わらず魔王のような男だった。

 魔王のような兄はしゃがみ込むと、笑顔を浮かべ続けたままウィルジアの胸元にぴたりと長い指を突きつけた。


「お前さー、相変わらず引きこもって本ばっか読んでんの? ハリー兄上だってイライアスだって少しは鍛えてるっつーのに、こんなんで転んじゃうとか大丈夫? 好きな女ができたらどうやって守るつもり?」

「うっ」


 出会って数秒での的を射た発言に、ウィルジアの心がえぐられる。

 エドモンドの発言は容赦がないが、真実だ。

 ウィルジアは弱い。びっくりするほど弱い。

 今までは、別にそれでもいいと思っていた。ウィルジアには守りたい人も大切な人もいなかったし、これから先もそんな人物が出来るとは思っていなかったから。

 しかし今はどうだろう。

 脳裏に浮かぶのは、亜麻色の髪をまとめ、瑠璃色の大きな瞳を持つリリカの姿。

 ウィルジアがキュッと眉根を寄せると、表情が変わったのを見たエドモンドが口の端を吊り上げて意地悪く笑った。


「へえ、図星? お前、好きなやつできたんだ」

「兄上には関係ない」


 ふいと横を向くと、エドモンドはバシバシと肩を叩いてきた。


「おにーさまに向かってそんなつれないこと言うなよ!」

「痛い痛いっ。兄上、いちいち力が強すぎる!」


 騎士をやっている兄は、見た目はさほどムキムキしているわけではないのだが、剛腕だ。普通にしているつもりなのだろうが痛い。

 エドモンドはウィルジアの苦言に取り合わず、赤い瞳を見開いて、人差し指を立てた。


「そうだ、俺が鍛えてやるよ!」

「は!?」


 突然すぎる兄の発言にウィルジアは我が耳を疑った。


「いいよ、自分でやるから……!」

「いいからいいから、おにーさまに任せておけって! よし、早速騎士団本部に行くぞ」

「ちょ、エド兄上! 僕まだ仕事が残ってて……!」

「あ? 今日はもう切り上げろ」


 有無を言わせぬ口調で兄は言うと、ウィルジアの襟首を掴んで強制的に立たせた。

 ウィルジアより十センチほど身長が高いエドモンドは、ウィルジアの首根っこを掴んだままに言い放つ。


「馬一頭しかいないから、ウィルは走って行けよ」

「は……!?」

「ほら、ゆっくり走ってやるから行くぞ。逃げ出したら承知しねえからな」


 言うが早いがひらりと馬にまたがったエドモンドは、上着とキャラメルブロンドの髪を靡かせながら馬を走らせた。先ほどまでより確かに遅いが、明らかにウィルジアの体力を考えたスピードではない。普通に速い。


「兄上っ、待って!」

「おらー、あんま遅いと後ろから追いかけるぞ」


 馬上から容赦ない声を浴びせかけつつ、兄は先を行く。

 ウィルジアは知っていた。

 例えばここでウィルジアが逃げたら、この兄はウィルジアの住む屋敷まで追いかけてきて「ウィールー逃げんなって言ったよな?」と言いながら笑顔で抜剣するのだ。

 そうなるともはやウィルジアに逃げ場などないし、剣でボッコボコにやられる様をリリカに見られることになる。それだけは絶対に避けたい。 

 兄に見つかってしまった時点で選択肢など存在していないことをよく理解しているウィルジアは、バスケットをその場に放り出し、兎にも角にも必死で馬上の兄に追い縋ったのだった。


◆◇◆


「……死ぬ……」


 どうにかエドモンドに置き去りにされずに騎士団の本部まで辿り着いたウィルジアは、息も絶え絶えにそう言った。既に体力が削られていた。


「おーし、じゃあ早速鍛えるとするか。ほら」


 馬から降りたエドモンドが、ウィルジアの体調などお構いなしに一本の模造刀を放って寄越す。


「素振り五百回な」

「は!?」

「そこに新米の騎士たちがいるから、一緒にやること」


 ビシッとエドモンドが指差した方角には、確かに一心不乱に素振りをする青年たちがいた。


「おーいお前ら、注目」


 エドモンドは青年たちに向かって声をかける。そしてウィルジアを問答無用で引っ張って行くと、ばしばし肩を叩きながら紹介した。


「こいつ、俺の弟のウィルジア。今日から一緒に訓練するから、よろしくな!」

「はっ?」

「「はっ!」」


 エドモンドに指差された青年たちは異口同音に言葉を発し、より素振りに励む。どれほど兄が恐れられているのかが一発でわかる瞬間だった。


「じゃー頑張れよウィル!」


 連れて来た張本人であるエドモンドは、笑顔で片手を上げると仁王立ちで素振りをする騎士たちを見張る。

 ウィルジアは、右手に握った模造刀を見て、しばし迷った。

 かつて王宮にいた時に嫌々握らされていたそれを、再び手にする日が来ようなど思ってもいなかった。

 横暴な兄により一方的に叩きのめされ続けていた幼い日の思い出は、忘れようにも忘れられない。本棚の隙間から、廊下の柱の影から、あるいは真正面から堂々とやって来てはウィルジアの首根っこを掴んで引きずって行く兄の姿はトラウマである。

 けれど。

 リリカの姿が頭の中を駆け巡る。

 無茶をするリリカを止めるためには、ウィルジアにも武芸の腕前が必要だった。

 このままではリリカを守るどころか、リリカに守られる日々が続くだろう。

 それはあまりにも情けないし、本意ではないなぁと思ってしまうほどに、ウィルジアはリリカが大切だった。


「…………」

 ウィルジアは剣を両手で握りしめると、高く振り上げ振り下ろし、素振りを開始した。

「ウィル、ストップ」


 瞬間に、兄からの待ったがかかった。


「剣の持ち方が違う。ただ握ればいいってもんじゃないって、昔教えただろーが? こうだよこう」


 エドモンドが近づいてきて、剣の握り方を修正する。


「それから腰が引けてる。あと足な。もっと開いて踏ん張って。ほら、これでもう一回やってみ」


 エドモンドに言われた通りにしてウィルジアは素振りを再開したのだが、大体十回に一回くらいのペースで叱咤が飛んできた。

「ウィールー! 腕上がり切ってないぞ、もっと上まで振り上げろ!」

 とか、

「おいウィル、お前脇開きすぎ! もっと閉じろよ!」

 とか、

「ペース落ちてんぞ!」

 とか、容赦ない指摘がされた。

 そして五年は剣を握っていないどころかろくに体を動かしていないウィルジアは、素振り五百回どころか百回にも満たずに音を上げて倒れ伏した。他の騎士たちは黙々と素振りを続けている。


「もうギブアップ?」


 倒れたウィルジアをエドモンドは容赦なく足蹴にした。

 ウィルジアは全身から汗を滝のように流し、会話もままならなかった。


「しょーがねえ弟だなー。おら、とりあえず水でも飲んどけよ」


 しゃがみ込んだエドモンドは、ウィルジアの頬に瓶を当てる。言葉にならない「ありがとう」を口にしてから瓶を受け取り、流し込むと、ひんやりした水が喉を流れていって生き返るようだった。

 水をがぶ飲みするウィルジアを見て、エドモンドがおもむろに口を開く。


「で、どうすんだ?」

「どうするって?」

「もうやめるか? 昔みたいに泣きながら、『あにうえっ、もうやだよぉ』って言えば、帰してやらないこともないけど」


 エドモンドは実に意地の悪い顔で、昔のウィルジアの口癖を真似て見せた。

 羞恥で顔が赤くなった。今のウィルジアは、昔とは違う。


「馬鹿にしないでくれよ。まだやれる」


 瓶を突き返しながらそう言うと、エドモンドはキョトンとした顔をし、それから口の端を吊り上げた。


「おーっ、いいじゃん。前より根性出たみたいだな!」

「うるさいなぁ」


 兄の言葉に耳を貸さず、ウィルジアは剣を再び握って素振りをする。

 一朝一夕で身につくものではないとはわかっているけど。

 それでも何かせずにはいられないほど、ウィルジアは焦燥感に駆られていた。

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