第60話 おにーさま登場
「はぁ……」
「どうしたウィルジア。今日はやけにため息が多いな」
「そうだった?」
「ああ。聞いていて鬱陶しい。どうした」
ウィルジアは王立図書館の地下書庫にてジェラールに問われ、羽根ペンを置いた。出勤してから遅々として仕事は進んでおらず、同じページをもう五回くらい読み直しているところだった。今日はありえないくらい集中力を欠いている。
リリカに相談する気は全く起きなかったのだが、ジェラールにならばいいかという気持ちになり、ウィルジアはここ数日胸の内を支配していた悩みを打ち明ける。
「実は……」
「実は?」
「ちょっと……体を鍛えた方がいいかなと思って」
「は?」
ジェラールは思いっきり顔を歪めた。「何言ってるんだこいつ」という表情だった。
「頭でも打ったか?」
「いや、そうじゃなくって。この前僕の屋敷に兄の一家が遊びに来たんだけど、その時双子の子供が森で迷子になってさ。どうしようってなった時、リリカが一人馬に乗って助けに行ったんだ。弓矢を持って」
「リリカさんどうなってるんだ?」
「で、無事に双子を連れて、無傷で帰ってきた。途中で熊を退治したらしくて返り血がすごかったけど」
「本当にどうなってるんだ?」
ウィルジアの話を聞いたジェラールの表情は、ドン引きである。
「まあそんなわけで、このままだとリリカが無茶をしすぎていつか取り返しのつかないことが起こるんじゃないかと。だから僕も鍛えようかなって」
「お前が鍛えたところで、戦力になると思うのか」
「うっ」
図星である。
「じゃ、どうしろって言うんだい」
「護衛を雇えばいいんじゃないか」
ジェラールの発言は至極もっともだ。腕の立つ護衛を雇えば、万事解決だ。
ただ、この案を認める気にはならなかった。
「護衛を四六時中張りつけておくほど、危険な目に遭うわけじゃないからなぁ……この間だって、護衛はいたんだよ。でも迷子の双子を最終的に見つけたのはリリカだった」
リリカはウィルジアが仕事に行っている間、森の奥で熊を狩っていた時期があったらしいので、土地勘が働いたのだろうか。ともあれ、兄が連れてきた護衛よりリリカの方が役に立ったのは確かだ。
「あの時、僕は全然役に立たなかったから。もしもリリカに何かあっても、助けてあげられなかった」
森での一件を思い出す度に、ウィルジアの背筋にヒヤリとしたものが伝う。
リリカに何かあったら。もう二度と戻って来なかったら。
リリカがいなくなってしまったらと思うと、ウィルジアはいてもたってもいられなくなる。
「せめて僕に剣術の腕前でもあったら……いや、乗馬からかな……」
かつて王宮で乗馬は教わっていたが、もう五年ほど乗っていない。乗りこなす自信がなかった。
うだうだ悩むウィルジアを見て、ジェラールは心底意外そうだった。
「ウィルジア、お前、変わったな。対人関係で悩むような奴じゃなかったのに」
「変かな」
「いいや、今のお前の方がいいと思う」
そう言ってからジェラールは、彼にしては非常に珍しい、優しい表情を浮かべた。
「本当にリリカさんが好きなんだな」
「…………」
ウィルジアは何も答えなかった。もう「好きじゃない」と簡単に否定できるほど、自分の気持ちに嘘はつけない。リリカの存在はいつの間にかウィルジアの中で大きくなり、膨れ上がっていた。
自分が誰かを想って仕事が手につかなくなる日が来るなんて想像すらしていなかった。
この感情に戸惑いを感じるのも確かだ。
けれど、嫌かと聞かれたら嫌ではない。
本に向き合っている時以外でもこんなに楽しい日々を過ごせるなんて、思っていなかった。
だからこそリリカを失いたくなかったし、無茶をするリリカを支えるためにどうするべきかを考えている。
リリカに料理を教わるのは良いのだが、乗馬や弓矢を教えてくれと言う気にはとてもではないがならなかった。それはもう、自分の中にあるわずかなプライドがボッキリとへし折れてしまう行為である。
なので自分でなんとかするしかない。
「気持ちはわかる。リリカさんは素敵な女性だからな。まあ、ウィルジアが納得できるようにすればいいんじゃないか?」
「うん、そうしてみる」
ウィルジアはジェラールに、素直にこくりと頷いてみせた。
結局あまり仕事が捗らないままに昼となり、ウィルジアは気分転換でもしようかと昼食のバスケットを片手に外へ出る。
王立図書館の表側は馬車が停まるために石造りの広場となっているが、裏は芝生や木立が並んでいる。
ベンチの一角に腰を下ろすと、バスケットをぱかりと開けた。
リリカが作ってくれる昼食は大体がサンドイッチであるが、具材が毎日変わるので飽きがこない。本日は香草焼きにしたチキンとキャロットラペ、紫キャベツが挟んであり彩が良い。バスケットの中には、果実水の瓶も入っている。
今頃リリカは何をしているんだろうなぁと考えながらサンドイッチを食べる。
もしやまた森の奥で熊を倒しているのではないだろうか。
狩をするのは止めるようにとは言ってあるし、リリカは主人であるウィルジアの言いつけを守るだろうが、それでも嫌な妄想は止まらない。
何かのはずみで屋敷に熊が入り込んできて、リリカがばったり出くわしたら。
屋敷に帰ったら、血まみれのリリカが倒れていたら。
根がネガティブなウィルジアはマイナス思考な想像を加速させ、そしていてもたってもいられなくなった。
「こんなことなら、王宮にいる時にもっと真面目に剣の稽古をしておけばよかった」
なんとか昼食を終えたウィルジアはバスケットのケースを閉じるとがっくりうなだれた。
「兄上たちなら、きっとこんなことでくよくよ悩んだりしないんだろうな……」
そう、例えば、二番目の兄であるエドモンドなら、自ら馬を駆り熊など訳もなく倒すであろう。リリカに無茶をさせることなどあるまい。
何せ幼い頃から血の気が多かったエドモンドは、今や大隊を指揮する中佐の地位に就いていて、一目置かれていると言う噂だった。
平和なアシュベル王国においては功績を立てるというのは難しいが、方々の領地に出向いて獰猛な獣を倒したり、盗賊団を壊滅させたり鎮圧したりしているらしい。
剣を手に嬉々として駆け回る兄の姿が容易に想像でき、ウィルジアは身震いした。
ウィルジアがバスケットに肘をついてぼんやりと景色を眺めていると、突如土埃が巻き上がり、馬を疾駆させる人物が目に飛び込んできた。
街中で非常識な速度で馬を駆るその人物を遠目に眺めながら、そういえば兄もあんな感じでよく王宮内で馬を爆走させていたなぁと考える。
体を動かしていないと死んでしまうような性格の兄は、ウィルジアとは真逆のタイプであった。
座り込んだままぼーっとしていると、白馬がどんどん近づいてくる。
あの白馬に乗った人物は、一体どこからやってきてどこまで行くのだろうか。何をそんなに急いでいるのだろうか。
近づくにつれ、騎乗している人物の顔がウィルジアにも見えるようになってきた。
その人物は、騎士の証である上着をはためかせ、キャラメルブロンドの髪を風に靡かせながら、一直線にウィルジアめがけて突進してきていた。
(…………あれ)
目の前の光景を見ながら思考が遠くに飛んでいたウィルジアは、ここでようやく我に返った。
あれこそ二番目の兄そのものではないだろうか。
え、なぜ、兄が王立図書館の庭を馬で疾走しているのだろうか。
そしてなぜこちらに向かってきているのだろうか。
久々にリリカ以外のことで頭を混乱させたウィルジアは、本能に従って逃げようとバスケットを片手に立ち上がった。
しかし、相手は馬に乗っている。
万年運動不足のウィルジアがどれほど走ろうと、逃げ切れるはずもなかった。
果たしてウィルジアが十メートルも走らないうちにあっという間に距離は詰められ、行く手を遮るように白馬に乗った人物が立ち塞がった。
ウィルジアが見上げた先、騎乗していたのは、肩口まで伸ばしたキャラメルブロンドをハーフアップにし、騎士の上着を羽織った美丈夫である。
切れ長の赤い瞳でウィルジアを睥睨したその人物は、直後に相好を崩した。
「よーっ、やっぱりウィルじゃん! ひっさびさだなぁ!」
「エ、エド兄上……」
ウィルジアが最も会いたくなかった人物、二番目の兄であるエドモンドの登場である。
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