第38話 ウィルジアの決意
「やあ、おはようリリカさん」
「おはようございます、ジェラール様」
本日もウィルジアを見送った後のタイミングで現れたジェラールにリリカは挨拶を返した。
ジェラールはいつものように他愛もない雑談を交わした後、こんなことを聞いてきた。
「リリカさん、今度図書館の中を案内しようか?」
普段のリリカであれば、こうした誘いには乗らない。しかし図書館の案内というのはリリカにとって非常に魅力的な提案だった。
図書館。すなわちウィルジアの仕事場。
許可証がない者は立ち入りが禁じられている図書館に、リリカは実は一度入ってみたいなと思っていた。
何せ敬愛するご主人様の職場だ。気にならないはずがない。ウィルジアが働いているのはどんな場所なのだろうかと常々思っていた。
しかし流石にウィルジアに「図書館の中に入ってみたいです」などとは図々しすぎて言い出せない。
けれど、ウィルジアの友人であり同僚である方から提案されたとあれば、リリカの気持ちはぐらつかずにいられなかった。
おずおずとジェラールの顔色を伺いながら、問いかけてみる。
「……よろしいんですか?」
「勿論」
にこりと微笑むジェラールに、リリカはパァっと顔を輝かせた。
「では、ぜひお願いします!」
***
「ヤァ、おはよう!」
図書館地下の書庫に元気な挨拶と共に入ってきたのは、ジェラールだ。
顔色の悪いウィルジアとは対照的に、ジェラールはつややかな肌をしていた。恋というのはここまで人を変えるものなのかと少し恐ろしくなる。
「ジェラール……いつにも増して機嫌がいいな」
「わかるか。なぜだか聞きたいか?」
「聞きたくない」
「まあそう言うな。俺は今度、リリカさんとデートすることになった」
「デート!?」
ウィルジアは耳を疑った。
地下室を横切り、室長のジェイコブにお辞儀をしたジェラールが隣の席に勝手に座る。彼の喋りは止まらない。
「リリカさん、二つ返事で了承してくれた。結構彼女も俺を気に入ってるんじゃないか? おいウィルジア、新しい使用人を雇う準備をしておいた方がいいぞ」
ジェラールはウィルジアの背中をばしばし叩きながらそんな風に言ってきた。
ウィルジアは途方に暮れる。ジェラールはこんなタチの悪い冗談を言う人間ではないので、事実なのだろう。しかし事実ということは、リリカがジェラールとのデートを了承したということになる。
一体なぜ? どうしてそんな状況になった? どういう風に誘ったら、あの使用人としての仕事以外に興味がなさそうなリリカの気を惹けるというのか。昨日の感じでは、リリカはジェラールよりも馬の方に興味がありそうだった。リリカの口からジェラールに関する話題が出たことなど、一度もない。それが突然のデートだ。
自分と同じくらい女性経験がないだろう友人の唐突な押しの強さに、ウィルジアは困惑せざるを得ない。
しかしウィルジアは、リリカとのデートについて嬉々として語るジェラールの姿を見て、思うところもあった。
ジェラールはウィルジアの友人だ。
根暗で地味で王宮の煌びやかな世界とは無縁な自分と趣味が合う、唯一の人物である。
王立図書館で初めてジェラールと出会った時のことは今でも鮮明に思い出せる。
落ちこぼれ王子のウィルジアのことを蔑みも残念な顔もせずに接してくれる人物というのは非常に珍しい。
基本的に王宮では浮いた存在だったウィルジアは、この時、やっと心を許せる人物に出会ったのだった。
図書館の地下にある書庫で、明かりを頼りに本に向き合うひとときは至福だ。
ここには無理やり剣術指南をしたり、社交ダンスを教えようとする家庭教師はいない。三人の兄に比べて、明らかに能力面で見劣りするウィルジアを後ろ指差すような人間もいない。
わからない箇所をジェラールと話し合い、時に夜通し論議を重ね、時に意見がぶつかり合う時もあったが、対等に話せる人間が今までにいなかったウィルジアからしたら、それすら新鮮で楽しかった。ジェイコブは二人をあたたかく見守ってくれていた。
心置きなく話ができるたった一人の友人。
そんなウィルジアにとって大切な友人であるジェラールが、ウィルジアにとって大切な使用人であるリリカに恋をした。
リリカはとてもいい子なので、ジェラールが好きになる気持ちはよくわかる。
きっとジェラールならばリリカを大切にしてくれるだろう。
ならば恋の行く末を大人しく見守るのがウィルジアの務めなのではないだろうか。
ウィルジアに出来ることなんて、きっともうそれしかないのだ。
そう考えたら、ここ数日の胸がざわめくような気持ちが徐々に落ち着いていき、嘘のように心が凪いだ。
一切内容は耳に入ってこなかったが、未だデートについて喋り続ける友人に、ウィルジアは話しかけた。
「ジェラール」
「ん、なんだ?」
「うまくいくといいな」
すると友人は、まるで難解な書物を読み解いた時のようにいい笑顔を浮かべる。
「あぁ!」
きっと、これでいい。
ウィルジアは、自分の胸に針が刺されたような僅かな痛みが走ったことに、気がつかないフリをした。
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