第37話 名前をつけてください
最近リリカは、ウィルジアを職場に送り届けた後によくとある人物に話しかけられる。
「リリカさん、おはよう。今日も御者?」
「おはようございます、ジェラール様」
主人であるウィルジア様の同僚にして友人であるという、ジェラール・フィッツロイ様だ。どうやら先日、本が崩れ落ちるのを防いだ後、リリカがウィルジアの使用人であるとウィルジアから聞いたらしく、何かと気にかけてくれている。さすがご主人様のご友人、良い人なのねとリリカは心の中でウィルジアの人柄を褒め称えた。
話しかけられると言っても、大した話はしない。
「今日はいい天気だね」とか「馬の操作は大変じゃないか?」とか、そんな内容だ。
そして一言二言、会話を交わすと満足そうに去っていく。
ご主人様のご友人と交流が持てるのは使用人であるリリカとしても嬉しい出来事なので、リリカは朝の会話が非常に好きだった。
しかし肝心の主人であるウィルジアは、この数日明らかに元気がなかった。
ぼんやりしていて心ここに在らずといったウィルジアを見て、リリカは思う。
きっと、仕事で何か難しい問題に直面したのだろうと。
リリカはウィルジアの仕事を手伝ったことが一度だけあったが、古い文献にびっしりと古代の言語で文字が書き連ねてあり、おまけに癖の強い筆致で読み取りづらく解読にはとても難儀しそうだった。
アシュベル王国の識字率は低く、現代語ですら覚えるのは一定の教養を必要とする貴族のみ。昔の言葉ともなれば、それこそあの図書館で働くごくわずかな人にしか読めないだろう。
きっとウィルジア様は、複雑な文献を解読していて苦労なさっているに違いない。
実際のウィルジアは別に仕事上の苦労など特に無く、リリカとジェラールの仲が急接近していることにどうして良いやらわからず煩悶としており夜もろくに眠れない有様なのだが、リリカにはウィルジアの心情など知る由もない。
リリカは思った。
ご主人様は気分転換に、仕事以外の別のことを考えた方が良いと。
というわけで夕食の給仕の合間に、こんな話をウィルジアに切り出した。
「ウィルジア様、実は前々からお願いしたかったことがあるのですけど」
「ん……なんだろう」
ウィルジアは精彩の欠いた顔をリリカに向けながら尋ねてくる。
リリカはそっと目を伏せ、これから言うことに若干の恥ずかしさを覚えながらも、思い切って口にした。
「はい、実は……名前をつけていただきたくて」
「っ!?」
ウィルジアの驚きようは半端ではなかった。
緑色の瞳をこれでもかと見開き全身がびくりと動き、つい今しがたリリカがサーブした熱々のスープを袖口に引っ掛けてこぼしそうになった。リリカが危険を察知してスープ皿をさっと避けたのでことなきを得たのだが、ウィルジアは自分がスープをこぼしそうになっていたことにすら気が付いていない様子で、明らかに動転した声を出した。
「な、名前!?」
リリカはウィルジアが何故そんなにも動揺しているのかわからないまま、理由を話す。
「色々と考えたのですが、やはりウィルジア様につけていただくのが一番かなと思いまして。ご主人様ですし、勝手に私がつけるわけにもいかないかと……それにきっと、博識なウィルジア様なら私が考えるよりも素敵な名前を考えてくださると思いますし」
話を聞いたウィルジアの表情がみるみるうちに青ざめてゆく。
「名前……もしかして、君とジェラールの子供!? そこまで関係が進んでいたなんて、全然気が付かなかった……なんでもっと早くに教えてくれなかったんだ……!」
「はい?」
「いや、こうしちゃいられない。リリカ、僕の世話なんてどうだっていいから部屋で休んでいてくれ。というかあいつは一体、何やってるんだ。すぐに手紙を送ろう。待て、そもそも合意の上なのか? リリカはそれでいいのか?」
急に焦ってリリカの体調を気遣い出したウィルジアの意図がわからず、リリカは首を傾げた。
「あの、一体何をおっしゃっているのでしょうか」
「だから、君に、こ……子供ができたんだろう!?」
ウィルジアがどもり、赤面しながら言いにくそうに言った言葉に、今度はリリカが驚く番だった。
「えっ、子供ですか!? いいえ、身に覚えがございません!」
「なら、名前って一体誰の名前なんだ? 他に僕には思い浮かぶようなことがないんだけど」
「あ、そういうことですか」
どうやら先のリリカの発言を、「子供ができたから名前をつけて欲しい」と解釈したようだった。それであんなにも動揺していたのか。それはそうだ。誰だって急にそんなことを言われたら、驚くだろう。
「紛らわしい言い方をして申し訳ありません。あの、名前というのは馬の名前のことです」
「馬?」
「はい。お屋敷に来てから結構時間が経っていますし、いつまでも名前がないのも呼びにくいので、ぜひウィルジア様に名前をつけていただけないかなと……」
「なんだ……馬のことか……」
「誤解を招いてしまって申し訳ありません。最近ウィルジア様が何か悩んでいらっしゃるようでしたので、気晴らしにでもなればいいかと……」
ウィルジアは馬の名前だと聞くと安心し、落ち着きを取り戻した。
「そうだなぁ。リリカはどんな名前を考えた?」
「例えば、『羽根ペン』『インク壺』『羊皮紙』」
「……なんでそれを馬の名前にしようと思ったんだい」
「昔おばあちゃんに、生き物には自分の好きなものや好きな語感をつければいいと言われたことがありまして……やはりウィルジア様が購入した馬ですし、ウィルジア様にちなんだ名前にしようかなと」
「それにしても、もう少し何かあるような気もするけど……」
「センスがなくて、すみません……」
使用人としてなすべきことはおばあちゃんに色々と教わって懸命に覚えたリリカであったが、こうした名付けなどのアドリブが求められると困ってしまう。考えたところで出てくるのが先ほどのものなのだから、リリカのネーミングセンスは壊滅的だった。
「うーん、馬の名前か。結構難しいな。考えたこともなかったよ。リリカが世話をしているんだから、リリカにちなんだ名前にすればいいんじゃないか」
「自分にちなんだ名前をつけるのは、ちょっと呼ぶ時に恥ずかしいです。やはりここは、ご主人様に関連している名前にしたいです」
「僕に関連した名前って、なんだろう」
ウィルジアは食事の手を完全に止め、腕を組んで真剣に考え出した。
金色の髪が食堂の照明を受けて煌めき、サラリと流れる。その様を見てリリカは「あ」と言葉をこぼした。
「何だい、いい名前思いついたかい?」
「はい。あの馬のたてがみ、西日を受けるとウィルジア様の髪と同じように金色に輝くんです。なので、『金色』はどうでしょうか!」
「発想はいいけどもう一工夫ほしいな。……アウレウスはどうだろう。古代語の『金色』って意味だけど」
このウィルジアの提案にリリカは飛びついた。
「いい名前ですね、古代語で言い表すなんてさすがはウィルジア様! 私には思いつきもしませんでした。相談してよかったです。今日からはアウレウスと呼ぶことにいたします!」
「気に入ってもらえたんならよかったよ」
ウィルジアが数日ぶりの笑顔を浮かべたのを見て、リリカは安堵した。
「よかったです、ウィルジア様が笑ってくださって。ずっと思い詰めていらっしゃったようなので」
「心配かけてごめん」
「ウィルジア様の不安を取り除いて差し上げたいのですが、何か私にお役に立てることはあるでしょうか」
するとウィルジアはリリカの顔をじっと見て、それからゆっくり首を横に振った。
「ありがとう。けど、大丈夫だ。これは僕の心の問題だから」
「左様ですか」
リリカは少し残念な気持ちになったが、食事を再開したウィルジアに合わせて給仕を続けた。
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