第35話 ウィルジア困惑する

 ウィルジアは困惑した。

 唯一の友人であり同じ職場を共にするジェラールが唐突に錯乱したからだ。

 地下の書庫に入ってくるなり大声を出したかと思うと、今日出会ったという天使について語り出した。誰のことを話し出すのかと思ったが、なんとリリカについてだった。間違いない。外見的特徴がリリカそのものだったし、行動もリリカがやりそうなことだった。御者をやる使用人などリリカ以外にいないだろうし、十中八九リリカであろう。

 そう思って思わず名前を呼んでしまったのが、いけなかった。

 ジェラールはかつてないほどの喜色満面でウィルジアに向かって叫んだ。


「紹介してくれっ!!!」

「嫌だ!!!」


 脊髄反射で拒否してしまった。

 ところでこの場所にはもう一人、歴史編纂家が存在している。三十年前から「ワシは今年で九十一歳になるんだがのう」と言い続けているらしい、室長のジェイコブだ。実年齢はもはや誰にもわからない。耳の遠いジェイコブは二人のやり取りに全く気がつかず、ひたすら書物に向き合っていた。天井から雪のようにはらはらと舞い落ちる埃が禿げた頭に積もってもお構いなしだった。

 秒で紹介を拒否したウィルジアのローブを掴み、ジェラールはなおも叫ぶ。


「なんで嫌なんだよ! お前、なんであんなにも可愛い天使のようなリリカさんに御者なんてさせてるんだ!? 御者を雇え!」

「リリカの名前を気安く呼ぶな! 仕方ないだろう、御者をやらせないと、森の奥で熊を退治するんだから!」

「意味がわからん!」

「僕にだってよくわからないよ!」


 ウィルジアはリリカに御者をやらせたいなどと微塵も思っていない。しかし放っておくと彼女は馬の散歩のついでに野生の熊と戦い、捌いたり毛皮を売ったりするのだから、御者をやらせるしかなかったのだ。こんなことを説明したってきっとジェラールは一ミリも理解してくれないだろう。何せ当の雇用主であるウィルジアにだってよくわからない。

 ジェラールは掴みかかっていたウィルジアのローブを手放すと、少し距離を取った。やや冷静になったらしく、声のボリュームが落ちる。


「まあ、紹介してくれないなら、明日自分で話しかけるからいい」

「どうして話しかけるんだ」

「決まってるだろう。俺は彼女に恋をした」

「はっ!?」

「恋をした。好きになった。一目惚れだ」

「はぁ!?」


 断言するジェラールにウィルジアは二度聞したが、ジェラールは聞いちゃいなかった。


「俺は彼女と仲良くなりたい。だから彼女に話しかける」


 ウィルジアは耳を疑った。

 ウィルジアの知るジェラールは、こんなことを言う人物ではない。

 男爵家の三男であるジェラールはウィルジアと同い年の二十歳であり、ウィルジアと同じくらい本以外に興味のない人物だった。

 間違っても「恋をした」とか「一目惚れだ」なんて言うはずがない。

 しかもリリカに話しかける、だと。

 なんだかウィルジアは腹が立ってきて、思わず友人に胡乱な目を向けた。


「僕の家の使用人に手を出すなよ」

「どうしてだ」

「どうしてって……リリカが困るかもしれないだろ」

「嫌そうだったら手を引く。それとも何だ、お前は使用人のプライベートにまで口を出すつもりか」


 ジェラールが青い瞳でウィルジアを見る。友人は目つきが鋭いので、そうやって見られると背筋がヒヤリとした。


「お前の母である王妃様は、さぞかし王宮の使用人の間で評判が悪いらしいな。王宮で働く妹に聞いたんだが、なんでも気に入った使用人に結婚さえ許さず、年寄りになるまでお側付きを命じたとか。お前もリリカさんにそういう人生を歩ませるつもりなのか?」

「別にそんなつもりじゃ」

「ならいいだろ。リリカさんが幸せになるのを止める権利はお前にはないはずだ」

「…………」


 ウィルジアは何も言い返せなくなった。

 確かに、リリカが仕事以外の時間にどこで何をしていようが、それはリリカの自由だ。リリカがジェラールとどうこうなるかはともかくとして、いずれは誰かと恋をして結婚してウィルジアの元を去る日が来るかもしれない。


(……リリカが、いなくなる?)


 しかし、考えただけでウィルジアは耐え難い苦痛に襲われた。胸がざわめき落ち着かなくなる。リリカがいない生活はもはやウィルジアには考えられなかった。

 だからと言って、母のようにリリカを生涯独身で自分の屋敷に縛り付けておくことはしたくない。ウィルジアのわがままでリリカの人生を変えたくはなかった。

 ウィルジアが黙りこくったのを見てジェラールは満足したのか、先ほど机に置いた本を持って少し離れた席につき、さっさと仕事に取り掛かった。

 すっかり集中力を乱されたウィルジアは呆然とし、リリカがいなくなった後のことを考え続ける。

 毎年九十一歳の誕生日を迎える生きた化石のような室長のジェイコブは、そんなウィルジアに目もくれず、埃を頭に積もらせたままただただ書物に視線を落とし続けていた。



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