第34話 ジェラール・フィッツロイは天使と出会う

 リリカがウィルジアを見送り、まだいくらも馬を走らせていない時。

 前方から本が歩いてきた。

 正確に言えば本を抱えた人間が歩いてきているのだが、うずたかく積み上がった本の山で抱えた人物の腰から上は全く見えず、もはや本がひとりでに歩いてきているかのように見えた。

 運搬している人間は本の重みとバランス取りに苦労しているらしく、あっちへふらふらこっちへふらふらと危なっかしい足取りである。

 リリカは危機を察知していた。

 このまま歩いていては、本を取り落とすこと必至。

 本とは大変貴重なもので、万が一にも破損があれば大変である。

 ウィルジアの下で働いているリリカには、本を落としたり汚したり破ったりしてはならぬという絶対的な信条があった。

 リリカは馬車を脇に停めて馬の手綱を木にくくりつけると、素早く本を運ぶ人物の元へと歩いて行く。

 同時に本を持っている人物がとうとうバランスを崩して積み上がっている本がぐらりと揺れた。平衡感覚を無くした本たちが、重力に逆らえずに地面へと落下していく。


「……あああっ、しまったっ!」


 本を持っていた人物が悲痛な声を上げる。リリカは地を蹴った。

 本が地面に落ちる前に、右手で本をつかみ左の掌に積み上げてゆく。素早い動きと正確な積み上げ方により、リリカの手に収まった本は完璧なバランスを保った。

 半分ほど本をリリカが持ったおかげで、先ほどまで本に隠れていた人物の顔が見える。

 ウィルジアとそう変わらない年頃の青年だった。

 長い銀髪をきっちり束ね、四角い銀縁の眼鏡をかけ、ウィルジアと同じ黒いローブを羽織っている。

 青年は安堵した表情でリリカを見る。


「どうもありがとう、助かった」

「いえ、よろしければ半分、図書館までお運びしましょうか」

「いいのか? 実はここまで持ってくるのも苦労したから、助かる」

「はい。参りましょう」


 リリカは踵を返して青年と一緒に図書館まで本を運んだ。階段を登って入り口まで来ると、本を返す。


「助かったよ、ありがとう」

「お安い御用です。では、私はこれにて」


 リリカは一礼してから身を翻し、馬車に向かって歩き出す。

 本が無事でよかったわ、と思いながら木に縛ってあった手綱を解くと、御者台に乗り込んで馬を走らせた。

 パカパカ馬を走らせて去っていくリリカの後ろ姿を青年が見つめていることにも、その青年の頬が若干紅潮していることにも、気がつかなかった。



「ウィルジアッ、聞いてくれ!!」


 歴史編纂家ジェラール・フィッツロイは、王立図書館地下に存在している書庫に入るなり大声を出した。手にした本を手近な机に置くと、常にきっちりまとめている長い銀髪を振り乱し、先に書庫にいた同僚にして友人であるウィルジアに大股に近づいていく。 

 話しかけられたウィルジアは集中を乱されたことを嫌がるより、ジェラールが大声を出したことに驚いているようだった。最近めっきり垢抜けた友人は首を巡らせて、短くなった金髪の間から緑色の目をジェラールに向けている。


「君がそんなに大声を出すなんて、珍しいな。何かあったのかい」

「そうなんだよ。聞いてくれるか」


 ウィルジアの返事を待たずして、ジェラールは勝手にウィルジアの隣の席に腰掛けると、前のめりになって話し始めた。


「今日、俺は、天使に会った」

「急に何を言い出すんだ」

「いいから聞いてくれ。その天使は、亜麻色の髪をまとめ、瑠璃色の大きな瞳を持つ、どこかの家の使用人だった。その天使な使用人は、俺が運んでいる本をバランス崩して落としそうになった時、さっと駆けつけてくれたんだ。見事な動きのおかげで一冊も地面に落とさずに済んだ。さらに彼女は嫌な顔ひとつせずに重たい本を半分持ち、図書館の入り口まで一緒に運んでくれたんだ! すごくないか!? 本を落とすまいとする気遣い! しかも笑顔が可愛かった!」


 ジェラールは先ほど出会った使用人の姿を思い出し、さらに言葉を続ける。


「彼女は一体どこの家の使用人なんだろう。ものすごい気が利いて、ものすごい可愛い子だった。最後は、自分で馬車を操って帰って行っていた。あんなに可愛い天使みたいな使用人に御者をさせる主人って、一体何を考えてるんだろうな。きっと凄まじく横暴なやつに違いない。顔が見てみたいものだ。名前くらい聞いておくべきだったな……もう一度会いたい。思い出すだけでドキドキする。あぁーもう一度会いたいなぁ! おいウィルジア、なんとか言ったらどうだ」


 同僚にして友人のウィルジアはジェラールの言葉を聞き、戸惑っているようだった。紙の上に置かれたままの羽ペンの先からインクが滲み出て、黒いシミを作っている。紙に穴が開きそうだ。ウィルジアは紙の状態など全く構っておらず、緑色の目を見開いてジェラールを見つめていた。そして動いた唇が、かすかに人の名前を呼んだ。


「……リリカ?」

「リリカ? あの天使な使用人は、リリカという名前なのか? 知り合いか?」

「知り合いっていうか……僕の家の使用人だよ」

「なんだって!? ほんとかっ!?」


 ジェラールは本日二度目の大声を出した。

 名前を聞きそびれて後悔していたのだが、まさか友人の家で働く使用人だとは思ってもみなかった。こういうのを運命というのだろう。

 ジェラールはウィルジアに覆いかぶさるように詰め寄ると、銀縁メガネの奥の海のように深い青色の目を輝かせて言った。


「紹介してくれっ!!!」


 本日三度目の大声により、天井から埃が舞い落ちてきた。

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