第30話 部屋替え
ウィルジアが屋敷に戻ってきてしばらくした日のこと。
仕事が休みであるウィルジアはいつもより遅くに起きて、ブランチを食べながら、リリカに言った。
「リリカの部屋を変えよう」
リリカは水差しから果実水を注ぎながら、瑠璃色の目をパチパチさせた。
「私の部屋……でございますか。何か不自由ございましたか? あ、もっと一分一秒でも早くにご主人様の元に馳せ参じて欲しいということでしょうか。気がつかなくて、申し訳ありません。今後はもっと全力で、素早くおそばに参ります」
「そうじゃなくて、あの部屋、日当たり悪過ぎだ。屋敷の一番隅にあるから薄暗いし寒いし狭いし、あんな部屋使わなくたっていいだろう」
「そうでしょうか。私はあの部屋で満足しておりますが」
「僕が気になる。なんで屋敷を綺麗にしてくれている君が、一番ジメジメした北向きの暗くて狭苦しい部屋を使っているんだ。というわけでリリカの部屋を変えたい」
リリカの部屋に家具らしきものはほぼない。
私物もほぼない。
だから部屋を変えるのは非常に簡単だ。
問題はどの部屋を使うかという点である。
この屋敷の構造は割と単純だ。
一階は玄関ホールを入って屋敷の前面部分に食堂、サロン。裏部分には厨房、洗濯室や使用人用の私室がある。
二階は全て客間になっていて、三階にウィルジアの書斎と寝室がある。
「二階の南側の部屋はどうだろう? あそこなら広いし陽も当たるし、リリカが手入れした庭もよく見える」
「あのお部屋は一番いい客間ですので、使用人である私が使うべきではありません」
「この屋敷に客が泊まることなんてないんだから、リリカが使ったって構わないよ」
「もしかしたら王妃様がいらっしゃるかもしれないじゃないですか」
「泊まりで? 嫌だなぁ」
ウィルジアは非常に嫌そうな顔をした。
「ならその隣の部屋ならいいんじゃないか。広いからゆっくりできる」
「そちらは最も広い客間ですので、ウィルジア様の一番目のお兄様が五人のお子様を連れて泊まるのに最適なお部屋だと思い、毎日掃除をしております」
「あの兄が僕の屋敷に泊まりにくるなんて天地がひっくり返ってもありえないよ。というか、あの人、五人も子供がいたのか……」
ウィルジアは自分の兄が子沢山であると知り、若干衝撃を受けていた。
その後もウィルジアは、リリカに居心地の良い客間をあてがおうとし、リリカを大いに困らせた。
「ウィルジア様のお気持ちはとても嬉しいのですが、あの……私は使用人ですので……使用人が客間を使っていては屋敷を訪れるお客様も変に思うでしょうし……」
「ほとんど来ない客人を気遣うより、住んでいるリリカが快適に過ごせる方が重要だと僕は思う」
リリカの主人であるウィルジアは優しい。
だが主人の優しさに甘え過ぎてはいけない。
ウィルジアは主人であり、リリカは使用人だ。
この線引きが曖昧になってはいけないとリリカは己を戒める。
今だってウィルジアが自分の朝ごはんに卵料理を作ったり皿を洗ったりと微妙な状態なのだ。これ以上はダメである。
リリカは静かに首を横に振った。
「客間を頂いても、逆に落ち着きません」
リリカの頑なな意志を感じ取ったウィルジアは、客間を使わせるのを諦めてくれた。
代わりに一階の洗濯に使っている部屋の隣の空き部屋をあてがってもらった。
ここならば屋敷の仕事もやりやすいし、南東なので日も当たるし、今の部屋よりも格段に条件がいい。
ウィルジアも「ここなら、まあ」と言ってくれる。
屋敷はどこもかしこも綺麗なので今すぐにでも使用できる状態にあり、よってリリカのクローゼットにかけてあった複数着とトランクひとつ持って移動するだけで終わってしまった。
「なぜ君は使用人服を五着も持っているのに、私服は一着しかないんだい」
「あまり私服が必要と感じなかったので」
「お給金渡しているんだから、もっと買えばいいのに。そういえばお金は何に使ってる?」
「半分はおばあちゃんに送っていて、残りは……エレーヌ様が好みそうな本を買ったり、一番目のお兄様のお子様が好みそうなおもちゃを買ったりしています」
「それ必要経費だから僕に請求して!?」
「あとは、紙とインクと羽根ペンを買いました」
リリカがウィルジアに教わってできるようになった読み書き。主人に教わったというのはとても光栄なことであり、忘れないようにとリリカは一式購入したのだった。
ウィルジアは一瞬面食らった顔をしたが、「そうか」と口元を綻ばせた。
新しい部屋のクローゼットに服をかけ、トランクから一枚の紙を取り出してテーブルに広げ、飛ばされないよう重石を置いた。
「それ、なんだい?」
「名前です」
リリカがおばあちゃんの家で書いた紙だ。ウィルジアに教わってから、リリカは文字を書くという行為がとても気に入っている。書くのも読むのもどちらも好きだ。おかげさまでエレーヌ様が好む本も購入できるし、非常に喜ばしい。
ウィルジアは名前を見つめ、リリカの名字を指でなぞった。
「これは『アーシュヴィルトン』?」
「『アシュバートン』らしいんですけど、綴りがわからなくて……」
「なら、こうじゃないかな。ペンはある?」
リリカはトランクから、お給金で買った唯一の私物であるインク壺と羽ペンを取り出してウィルジアに渡した。
ウィルジアはリリカの書いた文字の下に丁寧に字を書いていく。
細く流麗なウィルジアの文字が、リリカの名字を正しく綴る。
ウィルジアの字はとても綺麗だ。本屋で売っているどの本よりも美しい形に生み出される。ウィルジアの手が自分の名字を綴ってくれたというのが、たまらなく嬉しかった。文字を教えてくれたときにウィルジアが書いてくれた一覧表とリリカの名前を書いた紙も、トランクに大切にしまってあった。
リリカはつい今しがた書かれた名字を見て、パッと顔を輝かせた。
「わぁ、すごい……ありがとうございます! 私の宝物にします!」
「そんなに喜んでもらえたなら、よかった」
「ウィルジア様は、どうして綴りを知っていらっしゃったんでしょうか?」
「どこかで見たことがあって。どこだったかな……割と最近のような気がするんだけど」
ウィルジアは首を傾げてリリカの名字をどこで見たか思い出そうとしていたが、数分考えても思い出せず頭をかきむしった。
「だめだ思い出せない。ちょっと図書館に行った時に調べてくる。いや、もしかしたら書斎にあるかも」
「あの、いいんです。綴りがわかっただけでも嬉しいので。きっとどこかの地名か、村の名前か何かです」
「そうだったっけなぁ」
額に人差し指を当てて苦悶の顔をするウィルジアに、リリカはくすりと笑う。
あっという間に部屋変えが済んだのを見て、ウィルジアがポツリとこぼした。
「今まで働いてくれた使用人たちには、申し訳ないことをしたな」
「?」
「全然気にかけていなかったから。君たちが屋敷のどの部屋でどう暮らしていたのか、僕には興味がなかったんだ。彼らだってきっと体調を崩していた時もあっただろうに、僕はそれに全く気づけなかった」
「ウィルジア様……」
「こんな主人の下での住み込みの仕事なんて、そりゃ、辞めたくもなるだろうね」
自嘲めいた笑いを浮かべたウィルジアは、リリカを見る。
「君には愛想を尽かされないよう、いい主人でいられるように頑張るよ」
「ウィルジア様は、もう今でもとっても素敵なご主人様です」
リリカが力を込めて言うと、ウィルジアは「ありがとう」と礼を言った。
+++
お読みいただきありがとうございます。
これにて第二部はおしまいです。
次からは第三部に入ります。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます