第26話 リリカの風邪ーウィルジア視点ー

 リリカが風邪を引いたというのはウィルジアに結構な衝撃をもたらした。

 朝起こしにきたリリカの顔を見ると、明らかに普通ではなかった。

 本人は平静を装っているつもりなのだろうが、頬は上気していたし、瑠璃色の大きな瞳は薄い涙の膜を張って潤んでいる。息遣いは若干苦しそうだし、むしろ朝の仕事をこなしてここに立っているのが不思議なくらいだった。

 僕のことなんて放っておいて寝ていてくれて構わないのに、職務に忠実なリリカはそうしなかったらしい。朝の支度を手伝うと言っていた。

 ふらつくリリカを支えてなんとか部屋に連れ戻し、寝るように言いつける。

 病人に必要なものは何だったけと考え、とりあえず飲み物と、おでこを冷やすための水かなと、厨房に行った。

 自分の屋敷であるが厨房に入ったのは初めてだ。

 リリカの手により清潔に保たれている厨房には、ウィルジアのために用意したであろう水差しやパン、果物、鍋に入ったスープなどが存在していた。

 リリカ何か食べるかなぁと少し悩み、今は眠ったほうがいいだろうと結論づけると、水差しとコップを持つ。

 浴室に向かって積んであったタオルと洗面器をつかむと、リリカの部屋に戻った。おとなしく着替えてベッドに入っていたのでホッとする。


 コップに水を入れて差し出すと、ウィルジアのために用意したものを飲んでしまったと言って謝られた。

「すみましぇん」と言われた時はやばかった。

 熱で紅潮した頬と上目遣いでうるうるした瞳で見つめられ、いつもと違い舌っ足らずな喋り方をし、使用人服ではなく夜着で完全に無防備なリリカを見ていると変な気持ちになりそうで、思わず目を逸らした。相手は病人でめちゃめちゃ苦しんでいるのに、自分は一体何考えているんだと凄まじい罪悪感に襲われた。

 とりあえず横になった彼女のおでこに水で濡らして冷やしたタオルを乗せる。

 目を瞑るとすぐに眠ってしまった。が、熱が高いせいで寝苦しそうである。

 顔色が悪いし、時々うなされているしで、もはやそばで見ているしかないウィルジアは気が気ではなかった。

 このまま容体が悪化したらどうしようか、医者を呼ぶべきなのだろうか、薬はどうしよう、寝ているんだからそっとしておいた方がいいのかと一人悶々と思い悩む。


 もはや仕事どころではない。

 ウィルジアの仕事は基本的に一人で書物に向き合っているため、別に今日ウィルジアが行かなくても困る人なんていない。こんな具合が悪そうなリリカを一人置き去りにしてどこかに行くなんて、ウィルジアには到底できなかった。

 そんな風にウィルジアがリリカのベッドのそばで右往左往していると、リリカが苦しげな声を漏らす。

 耳をそば立てて見ると、「お父さんお母さん」と言っている。閉じた瞳から涙を一筋流すと、今度は「おばあちゃん」と呟き始めた。

 戸惑った。

 いつも明るく元気でポジティブなリリカが弱っている姿は痛々しい。

 寝返りを打ってベッドの脇にリリカの左手が投げ出される。相変わらずおばあちゃんとうわ言を繰り返す彼女に向かって声をかけた。


「リリカ」

 

リリカは反応しない。


「泣かないで。僕がここにいるから」


 投げ出された左手を、そっと握る。  

 頬を伝う涙も拭った。

 やがてリリカの寝息が穏やかになり、眠りが深くなったのがわかりホッとする。

 何もできないウィルジアなので、せめてそばにいようと思った。

 寝顔を見ながら、そういえば彼女はこの屋敷に来るまで、どんな生活を送っていたんだろうかと疑問が湧き出てくる。

 こんなにさまざまな能力を持っているならば、仕事など選び放題だろう。

 一体どうしてこんな自分の元へ来ることになったのだろうか。

 リリカの部屋を見回してみてもヒントになりそうなものは何もない。

 屋敷の隅の使用人用の部屋は狭い上に日当たりが悪くて薄暗く、必要最低限のものしか置かれていなかった。照明とベッドと小さなテーブルセットだけ。

 とりあえず椅子を拝借してベッドサイドに移動させるとそこに座る。

 いつもいつもリリカに世話になっているのに、自分はリリカについて何も知らないんだなとその時初めて気がつき、何だか無性にやるせなくなった。


 結局リリカは丸一日眠っていた。

 ウィルジアは途中、そーっと自分の書斎に戻ると本を一冊手に取って、再び全速力でリリカの部屋へと戻る。リリカはすやすや眠っていた。

 だらっと垂れた左手が寒そうだったので、ベッドの中に戻してやったのだが、うめき声が漏れたのでまた握るとすぐに静かになった。

 ウィルジアは右手はリリカの左手と繋いだままに足を組んで読書する。静かだった。

 目が覚めたリリカは随分スッキリした顔をしており、呂律も確かに戻っていた。

 ずっと手を繋いでいたのに気づかれて声を出された時は慌てた。

 下心はない。断じてない。絶対にない。 

 しかしリリカは別にウィルジアの下心を疑っていたわけではなく、つきっきりで側にいたことが嬉しかったらしい。


「ウィルジア様」

「なんだろう」

「ありがとうございます」

「……うん」


 顔色が良くなったリリカを見て安心したウィルジアは、しきりに「うん」と言いながら首を縦に振った。



 二人でリリカが今朝用意してくれたパンとスープを食べる。リリカがいないとスープの温め方すら知らないウィルジアである。リリカを厨房まで行かせなければならないことに申し訳ない気持ちになった。


「ごめん、僕が何もできないばかりに、リリカを寝かせておくこともできない」

「いいんです。使用人の仕事ですので当然です。それより、ご迷惑をおかけしてすみません。ウィルジア様、お食事、してなかったんですよね……」


 しょんぼりするリリカにウィルジアは言った。


「一食くらい抜いたってなんてことないよ。そもそも図書館にいるとき、昼はいつも食べてないし」

「……え」

「夢中になると食べることを忘れるから、泊まり込みの時は一日一食食べるか食べないかの生活をしていたし」

「え……」

「だから気にしないでくれ」


 心の底からの本音である。どうか気にしないで欲しい。だがリリカは何を思ったのか、こんなことを口にした。


「ウィルジア様……私、今度からお昼にお弁当をお作りします」

「えぇ」

「ちゃんと三食召し上がりましょう。お作りします」


 リリカの決意は固そうだった。しまった、ただでさえ仕事が多いのにさらに負担をかけさせてしまう。と思いつつ、口元が緩んでしまった。

 リリカが作ったお弁当を持って仕事に行くのは、何だか非常に楽しいことのように思えた。

 だがしかし、とにかく今は体調優先だ。


「ありがとう。でもとりあえず今は、体調を戻すことに集中すること。後のことはそれからだ」

「はぁい」


 リリカは空いた食器を回収しようとしてきたので、さっと遠ざけ、逆にリリカが持っていた器を取り上げる。いつもより動きが鈍いリリカから取り上げるのは簡単だった。


「僕が洗うから、リリカは寝ていること」


 リリカが何か言う前に立ち上がり、扉の方に歩いていく。ドアノブに手をかけ、出ていく前に振り向いた。瑠璃色の瞳と目があった。


「……また戻ってくるから」

「はい」


 格好つけて厨房に戻ったウィルジアであったが、皿の洗い方を知らず途方に暮れたのは内緒である。

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