第8話 楽しい楽しい読み書きの時間
「まずは一文字ずつ覚えていこう。はい、これが文字の一覧表」
ウィルジアはリリカのために、わざわざ手書きの文字の一覧表を作ってくれ、表に沿って一文字ずつ発音してくれた。
「これが『アー』、次が『ベィ』、『セィ』、『ディ』……全部で二十六文字。大文字と小文字がある。書いてみよう」
「はい」
「この文字を組み合わせて、いろいろな単語を作るんだ。リリカの名前はこうだね」
言いながらウィルジアは新しい紙に「リリカ」と書いてくれた。生まれて初めてみる文字に記した自分の名前に、「わぁ」と顔が綻ぶ。こうして文字にしてみると、なんだか自分の名前がとても神聖で厳かで、特別であるように感じられた。何しろ下町では、文字を書いたり読んだりできる人なんて稀なのだ。
「ウィルジア様の名前はどのように書くのですか?」
「僕の名前はこう」
リリカの名前の隣に流麗な文字で綴られたウィルジア・ルクレールという名前。
「素敵……流れるような文字で、でも優しげで、ご主人様にぴったりのお名前です」
「そうかな。自分の名前をそんなふうに言われたことがないから、ちょっと照れるな」
「私も、ウィルジア様のお名前をかけるように頑張ります」
リリカはウィルジア監修の元、文字の読み書きに励んだ。リリカの集中力は凄まじい。幼少期からのおばあちゃんとの訓練により、一度見聞きしたことは忘れないという特技を身に付けたリリカは、初めて触れる文字も苦もなく覚えていく。知らないことを知るというのは純粋に楽しいし、今まで耳で聞いて覚えていたものが形になるというのも楽しかった。
あっという間に文字を覚えたリリカは、身近なものの単語を覚え、文法を習い、文章を書いていく。
三日で簡単な本なら読めるようになったリリカを見て、ウィルジアは感嘆の息を漏らした。
「リリカはすごいな。もう本を読めるようになったなんて」
「ウィルジア様の教え方が上手なおかげです」
もう書斎整理を手伝えるレベルに文字を覚えたリリカは、ウィルジアの指示のもとに本を本棚へと並べながらそう答えた。
「いいや、ここまで物覚えがいい人はそうはいないよ。僕はいい使用人に巡り合った」
ボサボサの金髪の下でウィルジアが目を細め、微笑んでくれる。
「私の方こそ、いいご主人様に巡り会えてよかったです。読み書きを使用人に教えてくれる方なんてそうそういないでしょうから」
いつもおばあちゃんが言っていた言葉を思い出す。
「いいかねリリカ。使用人を人とも思わないご主人様も世にはたくさんいる。ボロ雑巾のようにこきつかったり、慰み者にしたりね。そうならないように、圧倒的な力を身につけるんだよ。他から一目置かれる技量を身につければ、誰もそうそう迂闊には手出しができないんだ」
そうした言葉を聞くにつけ、リリカは肝に銘じたものだ。誰よりも仕事ができるようになろうと。
しかしウィルジアはリリカに無体を働いたりしないし、メチャクチャな命令もしてこない。良いご主人様だなと心の底から思っていた。
ウィルジアは今研究中だという、アヴェール王朝時代についての翻訳した紙の束を整えて紐で束ねていた。分厚い紙の束は、ウィルジアの研究の結晶だろう。まだこの歴史書の内容を読み解くには至らないが、そのうちに読んでみたいなと思う。
「このアヴェール王朝は今から約二五十年前に栄えた王朝なんだけど、動乱の時代でね。各地は飢饉に見舞われ、中央の王朝は権力が失墜してほぼ未機能、領主たちは各々の裁量で自領を経営しなければならない大変な時代だったんだ」
ウィルジアは少し黄色味がかった紙の束を慈しむように撫でながら言う。
「そんな時代を経て今に繋がっているわけだけど、この頃の危機を切り抜けた人々が今の中央を担う大貴族になっている」
「へぇ……」
二百五十年前。そんな大昔の出来事さえも、書物から読み解いてしまうのか。
全く文字が読めなかったリリカにとって、ウィルジアが見ている世界というのは非常に新鮮だった。
きっとウィルジアは、こうして過去と向き合って、埋もれてしまった歴史を掬いあげてきたに違いない。それってすごいことだなぁと思う。
「……どうしたんだい?」
「いえ、ご主人様はすごい方なんですね」
「えっ」
びっくりした顔をするウィルジアは、持っていた本をどさどさと取り落としていた。リリカは構わずに、黙々と本をしまう作業を続けた。
書斎はウィルジアにとってどこよりも神聖で大切な場所だ。
忘れ去られた歴史を紐解いて、現代語に訳し、書物に編纂する。この国の歩んだ足跡が決して置き去りにされないように、未来に受け継がれるように蘇らせるのだ。
王子のやるべきような仕事ではないことはわかっている。
王位継承権を持つ者は、もっと華やかな職歴が必要だ。
各国との外交における実績。軍の中に身を置き華々しい功績を上げる。政においては貴族諸侯も民衆もあっと驚く政策を打ち立て、結果を残す。
さまざまな事案を積み上げ、そうして我こそは次なる国王にふさわしいと知らしめるべきであると周囲の大人たちは言った。事実、それが正しい王子としての在り方であるとはウィルジアも重々承知している。
一番上の兄は、外交官。
二番目の兄は、軍部に在籍。
三番目の兄は、政策に長けている。
ならばウィルジアが立ち入る隙などどこにもないのではないだろうか。
何せどれにつけても兄たちに劣るわけだし、やる気もないのだ。得意な人間が得意なことをするべきだろうとウィルジアは考える。
古語より外国語に、文章を読むなら歴史書ではなく政策文章を。などと言われたところで興味が持てないのだから仕方がない。
結果として呆れ返った母親と周囲の人間により、傀儡政権を目論む連中に担ぎ上げられて余計な政治的火種になる前にと、王位継承権を放棄させられた。別に構わなかったので、ウィルジアも二つ返事で了承した。
以来ずっと、屋敷と王立図書館を行き来するだけの生活を送っている。
そんな日々にリリカという娘が入ってきて、ウィルジアは以前よりも生活を楽しんでいる自分に気がついた。
予想のつかないリリカの行動には驚かされっぱなしだが、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、次はどんなことをするのだろうと少しワクワクしている気持ちもある。
他人に興味が持てず、書物にかじりついているのが何よりも好きな己であったはずなのに、この心境の変化はどうしたことだろう。
この穏やかな時間が続けばいいな、とウィルジアは思い、リリカも同じ気持ちであればいいなと思った。
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