第3話 ウィルジア・ルクレールの楽しい日々
ウィルジア・ルクレールはこのアシュベル王国の四番目の王子で、世間からはあまり評判が良くない。
上の兄三人は有能だが、ウィルジアだけが不出来だった。
口下手で、人付き合いが苦手で、何事にも興味を持てないせいか人の顔を覚えるのすら苦痛だった。おかげさまで万が一にも国王になったら大変だということで、十五歳の時に早々に王位継承権を放棄させられてしまった。
別に王位を継ぐ気はさらさらないので、全く構わない。おかげさまで王族が名乗れる「アシュベル」の姓を名乗ることが許されず、とってつけたように「ルクレール公爵」という肩書きが与えられた。公爵と言っても与えられたのは一軒の屋敷だけだ。
そんなウィルジアが唯一得意とするのは、歴史を紐解き古くなった書物を現代語に訳す、歴史編纂だった。なので王立図書館所属の歴史編纂家という地味で人気のない役職についている。
おかげ様で王族出身だというのに、煌びやかな世界にはまるで無縁な、引退した老人のような生活を送っていた。
しかし別にウィルジアとしてはこの生活に満足していた。
社交界も爵位もどうでもいい。
彼が興味があるのはただ一つ、奥深い歴史についてのみ。
なので今日も今日とて書物にかじりつき、古の歴史研究に没頭していた。
ウィルジアは日がな一日を研究に明け暮れて過ごしている。
古代の書物を読み漁り、失われた歴史をすくいあげ、現代語に訳して書物に記す。
没頭しすぎて寝食を忘れることもあるが、まあ生きているので別にいいだろう。
そんなわけでウィルジアは二十日間ぶっ続けで王都に存在している巨大な王立図書館に入り浸り、今向き合っている年代の書物の翻訳があらかた終わり、あとは清書して書物にしたためるだけという段階になってようやく家に帰ろうと思い至った。
「くあ……腰が痛い」
流石に二十日間ほぼ座りっぱなしは体にこたえる。
よろよろと立ち上がり、したためた紙の束を掴むと図書館の地下に存在している書庫から出る。途中にすれ違う、図書館利用の貴族たちは幽鬼のようなウィルジアを見てギョッとするのだが、ウィルジアは気がつきもしなかった。
「帰ったらこれをもう一度読み直して、それから編纂中の歴史書に書き込んで……」
俯きながらブツブツとつぶやくウィルジアを誰もが避けて通った。それもそのはずである。
ウィルジアは長年整えていないボサボサの金髪のせいで顔は全く見えないし、ずっと着続けている黒いローブはくたびれ果ててよれよれだし、栄養状態の悪い体は骸骨のように細く、歩き方はふらついている。おまけに二十日間風呂に入っていないので、異臭がした。
研究以外に興味を持たないウィルジアは外見に気を使うことがなく、また他人からどう思われていようが知ったこっちゃないと考えていた。王族としては元より、人として終わっている。
王立図書館の外に止まっている客待ちの辻馬車に乗り込むと、行き先を告げた。その行き先が変わり者で有名な「ウィルジア・ルクレールの屋敷」であると聞くや御者はギョッとしたのだが、手に銀貨を握らされれば向かう他なかった。
ガラガラと進む馬車の外の景色には目もくれず、ウィルジアは久しぶりに屋敷に帰る馬車の中でもずっと今しがた終えた研究について考え続けていた。
ウィルジアが家族から賜った、たった一つのもの。
それがこの郊外の森に佇む屋敷である。
元々は王家の別荘のような使い方をしていたそうなのだが、鬱蒼としげる針葉樹の森に嫌気がさして今では訪れる人は誰もいない。
しかしその静けさと、王都の貴族街近くにある王立図書館に通いやすい距離感で、人嫌いなウィルジアにとっては安らぎの我が家である。
問題点があるとすれば、雇う使用人が次々に辞めてしまうことくらいか。
世間一般の常識に疎いウィルジアは、「使用人が一人では出来ることに限界がある」という意見が理解できなかった。というか、人嫌いなのであまり多くの使用人を屋敷に置きたくなかった。
一人いればいい。
たとえ屋敷の中が埃っぽくても、庭が荒れ果ててぼうぼうでも、客を招待できるような状態でなくても構わない。
埃っぽいのは図書館の地下室だって同じだし、庭など使わないし、自分を訪ねてくる奇特な人物だってそうそういない。
だからウィルジアは、最低限の「掃除洗濯料理」ができる使用人がいればよかった。
今いる使用人も辞めたがっているようだったので、代わりが見つかれば辞めていいと言ってある。さてどうなったのだろうか。
屋敷の前に馬車が着き、降りると御者は一目散に去って行った。
ギャアギャアとカラスの鳴き声を耳にしながら、鉄の門扉を押し開けて荒れ果てた庭を通り、玄関の扉を押し開けて中へ入る。
そこでウィルジアは、思いがけない光景に出会い、呆気に取られた。
「な、なんだこれは……」
玄関がかつてないほど明るく輝いている。
分厚い埃が積もっていた大理石の床は綺麗に磨き上げられ、万年締め切られているカーテンは石鹸の香りが芳しく、開け放たれている。窓は汚れが落とされ外の様子がクリアに見えた。頭上のシャンデリアには赤々と蝋燭の炎が照らされているだけではなく、隅の銀の燭台もピカピカに磨き上げられた上で全てが灯っていた。しかも全部が全部、新しい蝋燭に取り替えられていた。
呆然と立ち尽くしていると、廊下から小走りに駆けてくる音がして、一人の見慣れない娘がやって来た。
「ウィルジア様、お出迎えが遅れまして申し訳ありません。おかえりなさいませ」
「君は誰だ」
「新しくお屋敷で働かせていただくことになりました、リリカと申します」
そうして見事なお辞儀をしてみせたリリカを、ウィルジアは垂れ下がる前髪の隙間からまじまじと見つめた。
紺色の裾長の使用人服を着ているリリカは、まだ十七、八歳だろう。亜麻色の髪をきっちりと結い上げ、パリッと使用人服を着ている姿は、二十日間下着すら替えていない自分よりよほどきちんとしている。大きな瞳は吸い込まれそうな瑠璃色をしており、薄い化粧を施したその顔はいかにも仕事ができそうだった。ウィルジアは恐る恐る口を開いた。
「この玄関ホールは、君がやったのかい……?」
「はい。僭越ながら、掃除をさせていただきました」
「そうか……」
「よろしければ湯浴みをなさいますか?」
「あ、うん」
「ではローブをお預かりします」
リリカは異臭を放つウィルジアに臆することなく近づくと、ボロボロのローブを受け取る。
「湯浴みが終わりましたら、お食事にされますか?」
「ああ」
「かしこまりました」
そうしてウィルジアの後をついて浴室まで行くと、素早く入浴の支度を整えて去って行った。
ウィルジアが風呂から出ると、きっちりとアイロンのかけられた替えの衣服が置かれており、袖を通すと洗濯したての良い香りがした。
そのまま食堂へと向かったが、その道すがらもびっくりするぐらい手入れが行き届いており、まるで別の場所に来たかのようだった。自宅だというのに落ち着かない気持ちになった。
ソワソワしながら食堂の扉を開けると、暖炉には薪がこれでもかとくべられて轟々と暖かな火が燃えており、チリ一つ落ちていないカーペットはこれまた新品同然の美しさだった。
一体どうやれば、この食堂中に敷かれている巨大なカーペットがこんなにも綺麗になるのだろうかとウィルジアは訝しんだ。
「僭越ながらお食事のご用意をさせていただきます」
そういってリリカが用意した食事は、目を見張るものだった。
食前酒から始まった食事は、彩豊かで鮮やかな前菜、ふかふかでどう考えても焼きたてとしか思えないパン、舌で潰せばとろけるほどに滑らかに煮込まれたテール・スープ、ふっくらと焼き上げられた魚料理、ジューシーな鳥のローストと、まるで王宮で出るような献立であった。
食事をしながら思わずこの初対面の使用人の顔を仰ぎ見た。
「この料理は君が……?」
「はい、僭越ながら」
先ほどまでは確かに入浴の支度をしていたはずだ。いつの間にこれほどの料理を作り上げたのかと、心底不思議だった。
リリカはふと疑問を抱いたのか、給仕中ずっと浮かべていた笑みを引っ込め、デザートのタルトとコーヒーを給仕しながらこんなことを聞いてきた。
「前任者に、ウィルジア様はお食事中も本を手放さないと伺っていたのですが、本日は読書は宜しかったのでしょうか」
「えっ、ああ、うん。あらかた仕事は片付いたからね、今日はいい」
実際には屋敷の変わりように驚きすぎて、本を読むなんてことは頭から吹っ飛んでいた。そんなことはここ十五年ほど起こっていない出来事だ。ウィルジアにとっては本が何よりの友達で、かけがえのない相棒だから、一瞬たりとも忘れるなどなかったのだが、今日はそれよりも驚きの方が勝っていた。
「そうでしたか」
にこりと笑うリリカは、給仕が終わると使用人らしく部屋の隅に控える。黙って立っていればごく普通の使用人にしか見えないので、ウィルジアは本当にこの娘が一人で全ての労働をこなしているのか疑わしく思った。
「他に誰か助っ人を頼んでいるのかい」
「いえ、私しかおりません」
「でもこの仕事量を一人でやるのは無理があるんじゃないかい」
「幼少期より慣れ親しんでいる仕事ですので、さほど大変ではありません。ウィルジア様も、読書量であれば誰にも負けませんでしょう?」
「当然だ」
「であれば、同じことかと」
「なるほど」
世間知らずのウィルジアは納得した。
このリリカという娘はきっととても有能なのだ。良い使用人が入ってきたな、とウィルジアは内心で機嫌を良くする。
「ところでウィルジア様に一つ許可をいただきたいのですが」
「なんだ」
「表の針葉樹の一部を、切り倒してもいいでしょうか」
「…………」
ウィルジアはぴたりとコーヒーを持ち上げていた腕を止めた。
「今、なんて?」
「はい、木を切りたいと申しました。洗濯物を干すのに日当たりの良い場所が必要でして。薪にもなりますし、南側の一部でいいのでぜひお許しいただけないでしょうか」
「君が切るのかい?」
「はい。昔木こりに弟子入りしたことがあるので、伐採はお手のものです」
ウィルジアはまじまじとリリカを見た。良い笑顔を浮かべるリリカは細く、どちらかといえば小柄だ。こんな普通そうな娘が、木を切り倒せるのだろうか……と思いながら、「怪我のないように」と告げて許可を与えた。
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