第2話 新天地はお化け屋敷
「ーーじゃあ、おばあちゃん、今まで色々とありがとう」
「なんのことはない。お前が努力した結果だよ」
十七歳のリリカは革張りのトランクを手に、家の中でおばあちゃんに挨拶をした。
この十二年でおばあちゃんはすっかりと老け込んだ……というわけでもなく、出会った時と同じ容貌をしていた。皺々の顔に笑顔を浮かべ、白髪を後ろでまとめ、背筋を伸ばしてしゃんと立っている。気品すらも漂う風格に、リリカは安心した。一人でおばあちゃんを残してしまうのが不安だったが、これなら当分は大丈夫だろう。
「お給金の半分は仕送りするから。それから長期の休暇がもらえたら帰ってくるから」
「わしのことなど構わんでいいよ。それより粗相のないように、しっかりおやり」
「うん」
「リリカ。昔わしがお前に言ったことをちゃんと覚えているかい」
「もちろん」
リリカはトランクを持っていない方の手を胸に当てて、心の中で思い出す。
ーーあのねぇ、リリカ。この世は理不尽だらけだよ。いつ何が起こるかわからない。だから自分の足でしゃんと立って、自分の力で生きて行かなけりゃならないんだ。メソメソするのはおよし。
それが五歳のリリカにとって、どれほど励ましになったかわからない。
リリカは顔を上げ、とびきりの笑顔を浮かべると、言った。
「それじゃ、行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
おばあちゃんも笑顔で見送ってくれた。
そう。何があってもメソメソしちゃならない。
ここまで育ててくれたおばあちゃんの恩に報いるためにも、ここから先は自分の力で生きていかないといけないんだ。
ーー例えリリカの勤め先が、国中で悪名高い公爵様の屋敷だとしても。
アシュベル王国には四人の王子様がいる。
今回リリカに斡旋された勤め先は、四番目の王子様の屋敷であった。
ご主人様の名前はウィルジア・ルクレール様。現在二十歳。
しかしこのウィルジア様というのは、すこぶる評判の悪い方らしい。
政をするような確たる志はなく、剣をとらせてもまるでダメ。音楽も社交術も全く才能がなく、唯一の趣味は歴史書を読み込むことらしい。
あまりにも王族にふさわしくないということで周囲によって王位継承権を放棄させられ、今は公爵位を賜って郊外の屋敷に一人で住んでいるのだとか。
屋敷に向かうべく乗合馬車に乗り込んだリリカは、目を閉じて斡旋先で言われた言葉を思い出す。
「ウィルジア様はとかく世離れした常識のないお方でね。雇う使用人はいつもたった一人だけ。住み込みさせるその一人に屋敷の雑事をなんでもやらせようってんだから、そりゃあ皆音を上げちまうに決まっているさ。おまけにウィルジア様は根暗で、無愛想で、会話すらままならないからこちらの要望なんて全く聞き入れてくれやしない。今までに何人もの使用人を送り込んだんだけど、皆半年も経たないうちに辞めちまう。それでもいいなら紹介するけど、どうだね?」
渡りに船だわ、とリリカは思った。おばあちゃんに教わって一通りの仕事はこなせる自信もあるし、給金もべらぼうにいい。これならおばあちゃんに不自由のない生活を送らせてあげられる。屋敷の場所が微妙に辺鄙なので、住み込みというのも都合の良い条件だった。話を聞いたリリカは即座に答えた。
「私、このお仕事やります」
「いいのかい? 薄暗い屋敷に根暗な公爵様と一日中一緒にいたら、気が変になるってもっぱらの噂だよ」
「大丈夫です。やります」
かくしてリリカは、ウィルジア・ルクレール公爵様の元で住み込みで働くことになった。
「さぁってと、ここからは徒歩ね」
乗合馬車を降りて王都外れに存在しているらしい屋敷まで歩く。
「なんたって一国の王子様が、こんな辺鄙な場所に住んでいるのかしら」
周りはほぼ、森であった。どこに行くにもこれじゃあ不便だろうというような場所だ。リリカは革張りのトランクを手にサクサクと歩いた。
鬱蒼としげる森の中をしばらくゆくと、開かれた土地に出て、屋敷が見える。
「ここがウィルジア様のお屋敷ね。なるほど、陰気な雰囲気だわ」
針葉樹のトゲトゲした背の高い木々に囲まれた屋敷は昼だというのに暗く、冬晴れの青空すら届かない陰鬱とした雰囲気が漂っている。まるでお化け屋敷だ。
鉄製の門扉には見張りの兵もいなく、鍵もかかっていないので、リリカはそのまま中に入って玄関のノッカーを握って軽くノックした。
しばしののちに出てきたのは、先輩メイドだ。
「はい、どちら様……って、あぁ、私の代わりに新しく来た子ね!」
「はい。リリカと申します」
「良かったわ、助かった! これで私はこのお屋敷から解放されるのね!」
そばかすの目立つ栗毛の先輩メイドは、大袈裟に喜びながらリリカの手を握り、目に涙を浮かべる。
「私はアンナ。この半年間、代わりの人が来ますようにって祈りながら待っていたの。本当によかった! じゃ、詳しいことを説明するから入ってちょうだい」
アンナはリリカの手をしっかりと握りしめたまま屋敷の中に引き摺り込むと、玄関の扉を閉める。
埃っぽい玄関ホールは薄暗く、湿っぽい空気が蔓延していた。
「じゃ、荷物を置きましょうか。こっちよ」
使用人用の部屋に荷物を置くと、アンナは足早に移動して説明を開始する。
なお、いついかなる瞬間もリリカの手を離してくれる気配はなく、「絶対に逃すものですか」という意気込みを感じた。
「まずはウィルジア様にご挨拶を……」
「今いらっしゃらないの。王立図書館に行ったっきりもう十日は帰っていないから、いつお帰りになるのかはわからない。この隙にやるべきことを教えておくから、頭に叩き込んで」
「はい」
「いい? このお屋敷でやらなければいけないことは、三つだけよ。掃除洗濯料理。あとは三階にあるウィルジア様の書斎には、絶対に立ち入らないこと。これだけ守っていれば他には何も要求されないわ」
「楽勝ですね」
「私も最初はそう思っていたわ。でもね、一週間も経つうちにわかるようになる。いくら給金が良くたって、この屋敷で働くくらいなら、下町の定食屋で日がな一日芋の皮剥きでもしていた方がマシって思えるようになるわよ。……っと、でもあなたは今からここで働くのだから、こんなネガティブなことを言っちゃダメね」
アンナは口元を押さえ、「さ、こっちこっち」と厨房にリリカを案内した。
「食材を届ける業者はいないから、自分で買いに行くこと。洗濯は反対の扉から外に出たら洗い場があるわ。どんな時でも陽の光が届かないから、なかなか乾かなくて大変なのよ……冬場は特にね。それから掃除道具は厨房の隣にある倉庫の中。あとは何か質問ある?」
「ウィルジア様の食べ物のお好みはありますか?」
「ないわね。なんでも食べるわよ。美味しいともまずいとも言わず、黙々と食事する。あぁ、食事の時にも本を片時も手放さず、ずっと読書していらっしゃるから、邪魔しないようにね」
「ウィルジア様の一日のスケジュールは?」
「朝は告げ鳥のコーエルが鳴く頃に起きて朝食。それから仕事場の王立図書館に行って、陽が落ちてからのご帰宅。帰宅後に食事をする時もあるし、しない時もある。日によってまちまちだから聞くしかないわね。今みたいに帰ってこない時もあるわ。それも一週間とか無断で留守にするの。帰ってきた時にはボロボロで、幽霊みたいになっているから覚悟しておいて」
「屋敷にお客様はいらっしゃいますか?」
「一人だけ、仕事仲間だというジェラール様がたまーに。その方以外は誰も訪ねていらっしゃらない。とはいえ、お見えになったのは一度だけだし、あの方もウィルジア様に負けず劣らずの本の虫だったわ。さ、説明は以上よ。私はとっとといなくなるから、後のことは任せたわ!」
じゃ!と手を上げて、アンナはあらかじめ用意していたのであろう、自分の荷物を引っつかんで屋敷から出て行ってしまった。その速さたるやまるで馬のようだった。
「……さて」
リリカは時計を見る。時刻は、昼過ぎ。
今の説明だと、ウィルジア様が帰るまでにはたっぷりと時間がある。
リリカはシーンと静まり返る屋敷を見回した。
玄関ホールは窓が閉められており、陽の光を絶対に入れるまいとするようにぴっちりと厚手のカーテンがかけられている。そして埃っぽく、湿っぽい。
「まずは掃除からかしら」
リリカは腕まくりをし、先ほどアンナに教えてもらった掃除道具の在処まで歩いた。
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