23.
手ぶらで、学食の中を歩く。いつものテーブルには、ホツエとシズエがもう座っていて、なにか談笑しているようだった。わたしは二人の向かいに腰をおろす。二人の前にはそれぞれトレイがあり、その上に空っぽになった皿が数枚ずつ、乗っていた。改めて、食欲がない、と声には出さずに呟く。ホツエが怪訝そうにこちらを向いた。
「あの……、他の席、空いてますけど……?」
なにか叫んで——あるいは、なにも叫ばずに——わたしはその場から走って逃げた。途中で振りかえって、誰も追いかけてこないことに安堵し、そして落胆した。
キャンパスを出て、駅から電車に乗る。家の最寄り駅で降りて、家に向かう。
「ただいま」
わたしは家の玄関を開けてそう言った。ばたばたと足音がして、母が玄関まで出てきた。
「どちらさまですか?」
「え……?」
母は険しい顔でこちらを睨みつけている。
「お母さん、なに言ってるの……」
「私に子どもはいません!」
半ば叫ぶようにして、母ぱぴしゃりとそう言った。
「いたずら? 警察呼びますよ」
「ご、ごめんなさい……!」
わたしは思わずそう謝って、玄関から飛びだした。背中から、玄関の扉の閉まる重い音が聞こえた。
カナメさん……!
わたしはまた駅に向かいながら、携帯電話を取りだし、カナメさんに電話をかけた。
「もしもし?」
「わたしです、東雲アリカです……!」
「わ、わかってるよ? どうしたの、落ちついて……」
電話口から聞こえるカナメさんの優しい声に、わたしはいくらか落ちつきを取りもどす。
「あの、今晩、泊めてもらえませんか?」
「僕は構わないけど……」
「ありがとうございます。これから向かいます」
「うん、気をつけてね」
わたしはまた大学の最寄駅まで電車に揺られ、それから駅のすぐ近くにあるカナメさんの住むマンションへと向かった。カナメさんはマンションの外で佇んでいた。
「まさか、外で待っててくれたんですか?」
「まあ、夕涼み、だよ」
カナメさんはそう言って微笑む。夕涼みをするような気温ではなかったけれど、わたしはそれ以上なにも訊かなかった。カナメさんは、ゆっくりと階段を昇っていく。わたしはその後ろを着いていって、カナメさんが押さえてくれた扉をくぐった。
「でも、どうしたの、突然」
わたしは靴を脱いで揃え、狭いキッチンに足を踏みいれた。カナメさんはわたしの横を通りぬけてベッドに腰かけ、その隣を右手でぽんぽんと叩く。
「嫌じゃなかったら、ここに座って。話ならいくらでも聞くよ?」
招かれるままにカナメさんの隣へ腰かける。急に涙が溢れだした。
「アリカちゃん……?」
「母が……、母まで、わたしのこと……、忘れちゃったんです……。おかしいんです、みんな、わたしのこと忘れちゃった……。三谷先生も、川口さんも、林さんも、佐々木さんも……、ホツエも、シズエも……。母も……。そんなこと、ありえますか? ねえカナメさん、カナメさんは、わたしのこと、忘れたりしませんか? ずっと覚えててくれますか?」
泣きながらわけのわからないこと——自分でも、それがどれだけ「わけのわからないこと」なのかだけは、よくわかっていた——を、まくしたてるわたしの肩に、カナメさんはその左腕を優しく乗せた。そのままゆっくりと引きよせられる。それから右手で頭を撫でられた。
「忘れるわけないよ。だって……」
カナメさんはそこで一度言葉を区切って、ふっと息をついた。
「こんなに、好きなんだから」
わたしは泣きつづけながら、ひたすらカナメさんの胸に身を預けていた。
「おはよう」
肩を叩かれて、わたしは目を覚ました。いつの間にか、わたしはベッドに横たわっていた。
「泣きつかれたのか眠っちゃったから、そっとしといたよ。あ、僕は床で寝てたから、なにもしてないから安心して?」
「ありがとうございます……」
わたしは身を起こして、とりあえずベッドに腰かける。隣にカナメさんも座った。
「君が水曜日の一限に講義を取ってるかどうか、わからなかったから、起こしちゃったけど……。もし取ってるなら、そろそろ準備したほうがいいんじゃないかと思って」
「ああ……」
思わずうめいてしまう。カナメさんが心配そうにこちらを見た。
「三谷先生の講義なんですよね……」
「昨日、言ってたね。君のことを忘れてしまったって……」
「そうです。三谷先生、ものすごく記憶力がよくて……、一度見たものや聞いたものを絶対に忘れない、って言ってました。学生の顔も名前も、講義に何回きて何回遅刻したかも、全部覚えてて……」
「それはすごいなあ」
カナメさんが呟く。
「それなのに、それなのにわたしのこと、忘れちゃってたんです。絶対におかしいんです」
「うーん……」
困ったようにカナメさんは首を傾げる。
「三谷先生だけじゃないです。ホツエとシズエとは小学校からのつきあいなんですよ? それに、川口さんも林さんも佐々木さんも、ついこの間までわたしと普通に喋ってたのに……」
カナメさんはまた、うーん、と唸る。
「とりあえず、学校は休む?」
「はい……」
カナメさんに訊かれて、わたしは小さく頷いた。
「そっか。じゃあ僕もサボっちゃおうかな」
「えっ、いや、そんな……。わたしはカフェかどっかで時間つぶしますから……」
「いいんだよ。これまでけっこう真面目に講義受けてきたし、ちょっとくらいサボってもバチは当たらないよ」
どこか楽しそうにそう言うカナメさんにわたしは、はあ、と曖昧に頷く。
「朝ご飯作るよ。それとも、もう一回寝る?」
「えっと、朝ご飯、食べたいです」
「わかった。大したものじゃないから、期待はしないでね」
カナメさんはそう言って、キッチンに立った。
「たとえ世界が君を忘れても、僕はずっと君の傍にいるから……」
まな板を置いて抽斗から包丁を取りだしながら、カナメさんが歌うように呟いた。
「僕の大好きな曲のサビ、こういう歌詞なんだ」
「『デクレッシェンド』ですか?」
「そうそう。よく覚えてたね」
カナメさんはこちらを見て、にっこり笑う。
わたしはまた泣きそうになるのをなんとか堪えて、机の上に視線を走らせた。
いつまでもカナメさんの部屋に居候しているわけにもいかない……。かと言って、実家にも帰れない。ひょっとしたら、大学の籍なんてとっくの昔に消えてなくなっているのかもしれない。いったいどうしたらいいのだろう。
なにも考えたくなかった。
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