22.

 部屋の扉がノックされたので、はい、と答える。扉が開いて、父が半歩部屋の中へ踏みだす。

「お前、大丈夫か?」

 ベッドの上で上半身だけを起こしてぼんやりしているわたしに、父はそう訊ねた。父と土曜日に顔をあわせたのなんて、どれくらいぶりだろうか。

「お父さん、今日休みなの? 珍しいね」

 言ってからわたしは、言わないほうがよかっただろうか、と考える。でも、もう言ってしまった。

「母さんから聞いた……。俺が働きすぎだって、お前が言ったんだろ?」

 わたしは、ああ……、と頷く。

「大学でなにかあったのか? なんでも相談してくれていいんだぞ」

 なにを今更……。そう思ったけれど、さすがにそれは口にしなかった。父とはほとんど顔をあわせないが、それが不満というわけでもなかった。正直、どうでもよかった。

 ——みんなが、わたしのこと、どんどん忘れていくの。

 頭の中でそんな文章を組みたてて、思わず溜息をついてしまった。父はわたしの部屋と廊下の間で佇んでいる。部屋に完全に足を踏みいれていいものか、わからないのだろう。

「なにもない……。ちょっと、疲れてるだけ」

「最近、帰りが遅いって母さんが言ってたけど、その……、俺が悪かった。お前を追いつめるために、勉強しろ、って言ってたわけじゃないんだ」

 はあ……。わたしはかぶりを振って、口を開く。

「べつに勉強してるわけじゃないよ。サークルに入ったの。サークルの活動に参加してるだけだから」

「サークル? なんのサークルだ?」

「美術サークル。絵を描いてるの」

 父は不思議そうな顔をした。

「お前、絵を描くのが好きなのか?」

「うん、まあ……」

 そうか、と父は呟いて、しばらく目を伏せた。

 ——もういいからほっといてよ。

 もしもわたしがそう言ったら、父はどんな顔をするだろうか。父は顔をあげた。

「明日、母さんも一緒に、三人でどこか行くか?」

「なんで」

 父はまた目を伏せて、いや……、と小さく呟く。

「仕事が好きなら仕事に行けば?」

「悪かった、ほんとうに。お前に心配かけてるなんて、思ってなかったんだ」

 ——べつに心配なんてしてないけど。

 また声には出さずに、わたしは父に向かって言葉を投げる。もちろん、声に出さないから、伝わらないだろうけれど。

「わたし、明日は友達と遊びに行く予定だから」

「そうか……」

 その場しのぎで適当についた嘘を、父はあっさりと信じる。言ってしまったからには仕方ない、明日は一人で図書館にでも行こうか、それともホツエやシズエに声をかけて、ほんとうに「友達と遊びに行く」のもいいかもしれない。

「その……、なにかあったらいつでも相談してくれ」

 ——相談しようにも、ほとんど家にいないじゃん。

 そんなことを言うかわりにわたしは、うん、ありがとう、と呟いた。父は少しだけほっとしたように頷く。そして、身を向こうへと退いて扉を静かに閉めた。


 林さんに忘れられてから、しばらく部室には来ていなかった。わたしは部室の扉の前で立ちどまり、ふっと息をつく。扉を開くと、部室にはカナメさんと佐々木さんがいた。林さんがいないことに、わたしは少し安堵する。

「こんにちは」

 わたしが二人に向かってそう声をかけると、佐々木さんがこちらを振りかえって目を輝かせた。

「おお、見ない顔だ。もしかして入部希望者さん?」

 どうして……。

「佐々木さんまで、忘れちゃったんですか、わたしのこと……」

「え?」

 わたしがもはや力を失った声で問いかけると、佐々木さんは立ちどまって首を傾げた。

「わたしです、一回生の東雲アリカですよ……」

「そうだよ、今年の夏に入部した子だし、佐々木さんはアリカちゃんのことかわいがってたじゃないか」

 カナメさんが佐々木さんに向かってそう言った。

「え、あれ……。ご、ごめんね……!」

 佐々木さんは、わけがわからない、というような顔をしながらも、わたしに向かって慌てて軽く頭を下げる。

「ご、ごめん、私帰るね……!」

 カナメさんへと、半ば叫ぶようにそう言って、佐々木さんはばたばたと画材を片付けはじめた。カナメさんは不安そうにわたしの顔を見る。わたしは小さく首を左右に振った。佐々木さんは一刻もはやく、というように部室を出ていった。

「どういうことなんでしょうか……。この前は……、川口さんにも、林さんにも、わたし、忘れられてた……」

「え?」

 カナメさんは目をみはる。わたしはよっぽど、三谷先生のことも話そうかと思った。けれど、思いなおす。言ってもますます困らせてしまうだけだろうから。窓際に並ぶキャンバスに目を走らせて、ある、と胸の中で呟く。描きかけの「ゲシュタルト崩壊」は、ちゃんと、ある。わたしはそのキャンバスの前へ歩いていった。

「これ、わたしの絵ですよね……」

 そう訊ねるわたしの声は、震えていた。

「そ、そうだよ? どうしたの……?」

「いえ……」

 わたしは小さく首を左右に振った。どうしたの……? どうしたの、どうしたの、どうしたの……?

 ——どうかしている。

「アリカちゃん……」

 なんだか痛そうな声で、カナメさんがわたしを呼ぶ。どうかしているのは、三谷先生や川口さん、そして林さんや佐々木さんだろうか。それとも、カナメさんやわたしだろうか。

「ごめんなさい」

 なぜかわたしの口をついて出たのは、謝罪の言葉だった。

「なにを謝ってるのさ」

 わからない。

「わたしが、おかしいのかもしれなくて。そうだったら、全部説明がつくし……」

「もしそうだったら、僕もおかしい、ってこと?」

 わたしは力なく首を振った。

「ごめんなさい……、そんな、つもりじゃ」

「わかってるよ。僕こそ、ごめんね」

 わたしたちはしばらく黙ったまま、お互いの視線を絡ませていた。いつもよりずっとはやく日が落ちていくような気がした。なにを言えばいいのか、あるいは言わなければいいのか、まったくわからなかった。

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