21.

 部室の扉を開けると、林さんと佐々木さんがそれぞれキャンバスに向かって筆を走らせていた。

「こんにちは」

「やっほー」

 二人に向かって挨拶しながら部屋へ入ると、佐々木さんが明るく声をかけてくれた。

「ん? 新入部員?」

「え?」

 こちらを向いた林さんの言葉に、わたしの声は裏返った。

「林くんがジョーク言うなんて珍しい」

 佐々木さんがそう言って、ほんとうにおかしそうに笑い声をあげた。わたしは一瞬ほっとしたけれど、林さんの怪訝そうな表情を見て、また不安になる。

「いや……、え、誰……?」

「ちょっと、ほんとに言ってるの? アリカちゃんじゃん、東雲アリカちゃん!」

 佐々木さんは笑うのをやめて、真剣な顔つきで林さんに詰めよる。林さんは困ったような顔でこちらを見ていた。

「そ、そうだっけ……。悪い、俺、人の顔覚えるの苦手で」

「ええ……」

 佐々木さんも困り顔になって、こちらを向いた。わたしは思わず、首を傾げてみせた。

「じゃあ、あんたは俺のこと知ってんの?」

「林ユウさん、ですよね……」

「ああ……、そうだけど……」

 林さんはますます困ったような顔をした。

「と、とりあえず、もう忘れちゃダメだよ!」

 場を取りなすように佐々木さんが言った。林さんは低い声で、ああ、と答える。

 嘘だ。

 けれど目の前にいるのは、ただただ心の底から困ったような顔をしている林さんだった。三谷先生に忘れられ、川口さんに忘れられ、林さんにまで忘れられた。そんなこと……。

 わたしは窓際に並ぶキャンバスに目をやる。ある。わたしの描きなおしている「ゲシュタルト崩壊」は、ちゃんとある。ある、ある、ある……。ふらふらとそのキャンバスの前へ歩く。そしてじっとその絵を見つめる。これはわたしが描いたものだ。

「これは、誰の絵ですか?」

 わたしは林さんに向かって声を投げる。

「いや、知らねえけど……」

「わたしの絵です」

 歯切れ悪く答える林さんに、わたしはぴしゃりとそう言った。

「このサークルの部員、そんなに多くないですよね。甲斐ケントさん、晴野カナメさん、林ユウさん、佐々木カンナさん、川口ヤエさん、そしてホツエとシズエ、それからわたし。まともに活動してるのはそれだけのはずです。あってますか」

 わたしは自分のキャンバスに顔を向けたまま、淡々と喋った。

「そ、そうだよ……」

 佐々木さんが少し怖気づいているような声で答える。

 川口さん。そうだ、川口さんと林さんは接点がある……。

「林さん、もしかして川口さんと口裏でもあわせてるんですか」

「はあ……?」

 わたしの問いに林さんが間抜けな声をあげる。わたしはまだキャンバスを見ながら、口を開いた。

「この間、川口さんに、忘れられてたんですよ、わたし。ついこの間……。そんなこと、ありえます?」

「知らねえよ、俺はあの子のこと正直苦手だし……。そもそも二人であんたを忘れたフリなんかして、なんの得があるんだよ」

 苛立ちを隠せていない声で林さんがそう訊ねる。

 ——俺はお前が好きなんだよ、カナメ。

 わたしはいつか林さんがカナメさんに言った台詞を思いだした。そして、その林さんが言っていたもう一つの台詞も。

 ——川口さんもカナメのことが好きなんだよ。

 そうだ……。二人ともカナメさんのことを好きで、そしてカナメさんはわたしのことを好きだと言っていた。

「嫉妬ですか。カナメさんがわたしを好きだから、嫉妬してるんですか」

 キャンバスから目を離し、林さんの顔を見ながらわたしはそう言った。なにを言っているんだわたしは。心のどこかでそう思いながら、それでも言わずにはいられなかった。

「佐々木さんは、覚えてますよね。わたしのキャンバスがなくなって、林さんが言ってたこと……。川口さんが隠したんじゃないかって」

 林さんに顔を向けたまま佐々木さんに向かって問いかける。

「覚えてる……。でもそれは、川口さんが晴野君のこと好きだからだよね……?」

 佐々木さんはおずおずとそう口にした。

「林さんも、カナメさんのこと好きなんです。そうですよね?」

 わたしの言葉に、林さんはかぶりを振る。

「わけわかんねえこと……」

「わたしは、林さんから直接、聞いたんですよ」

「初対面なのにそんなことあるわけないだろ!」

 林さんの言葉を遮ってわたしがそう言うと、林さんは声を荒げてわたしを睨みつけた。視界の端で、佐々木さんがあたふたと、林さんへわたしへ交互に視線をさまよわせている。

「お前らこそ、俺をからかってるんじゃねえのか?」

 今度は林さんが、佐々木さんへと疑いの目を向けた。

「ち、違うよ……! それこそ私になんの得もないじゃん!」

 佐々木さんは慌てて反論する。けれど、その声は弱々しかった。林さんは大きく舌打ちをした。

 おかしい。おかしいのは、誰なのだろう。わたしがおかしいことにすれば、合点がいかないわけではない。わたしが偽の記憶をでっちあげて、一人で騒いでいる……。

 いや、それはない。現に佐々木さんはわたしのことをちゃんと知っているし、この間わたしのキャンバスがなくなったことも知っている。それともわたしは以前に佐々木さんと口裏をあわせていて、そのことを忘れている?

 わけがわからない……。

「あんた、なにがしたいんだよ」

 いっそう低い声で林さんが言った。林さんこそなにがしたいんですか、と言おうかと思ったけれど、やめた。わたしは頭の中で、落ちつけ、と何度か呟く。林さんはまた大きく舌打ちをした。そして机に歩みより、画材を箱の中へ乱雑に投げいれる。

「ふざけんなよ」

 小さくそう吐きすてて、林さんは部屋を出ていった。扉が大きな音を立てて閉まる。残された佐々木さんとわたしは、しばらく黙っていた。

「どうなってるの……?」

 佐々木さんが沈黙に耐えきれない、とでもいうようにぼんやり呟く。わたしは、それはこっちの台詞です、と言ってやりたかった。けれどただ黙って、目を閉じる。

「アリカちゃん……?」

 不安そうに佐々木さんがわたしを呼ぶ。わたしは目を開いて、佐々木さんの顔を見る。そしてなるべく自然に見えるようにと意識しながら、微笑んでみせる。

「大丈夫です、佐々木さんは気にしないでください」

 自分で言いながら、いったいなにが大丈夫なんだ、と思う。きっと佐々木さんも思っただろう。けれど、佐々木さんはなにも言わずにわたしの顔から目をそらす。

「すみません。わたし、帰ります。お疲れさまです」

 わたしはそう呟いて、佐々木さんを部屋に残して扉の外へ出ていった。

 廊下を歩きながら、おかしい、と何度も胸の中で呟く。おかしい、おかしい、おかしい。こんなこと、ありえない。けれど、現にわたしは三人もの人間の記憶から消えている。わたしの脳裏にカナメさんの優しい微笑みが浮かびあがる。

 カナメさん。

 胸がざわついて仕方なかった。思わずポケットから携帯電話を取りだして、連絡先の一覧を画面に表示させる。連絡をとる相手がほとんどいないから、スクロールしなくても「晴野カナメ」という名前が下のほうに表示されている。その名前に触れようとして、やっぱりやめた。

 改めて連絡先を上から眺めていく。

 ——覚えている。この人を、わたしは覚えている。じゃあ、この人はわたしを覚えている?

 一人一人の名前を心の中で読みあげながら、わたしはそんなことをぶつぶつと、声には出さずに繰りかえした。父と母。ホツエとシズエ。高校生のときに連絡先を交換したものの、一度も連絡を取っていない数人の知りあい。それから、カナメさん。

 ふと、わたしは一番上に表示されている「上島スズナ」という名前に触れてみた。そして、電話をかけてみた。

「はい……?」

 数コール鳴ってから通話が始まり、電話の向こうから不審そうな声が聞こえてきた。

「急にごめん。わたしのこと、覚えてる? 高校のときに同じクラスだった、東雲アリカだけど」

 なるべく静かに、けれどはっきり……、そんなことを考えながらわたしは問いかけた。

「あの……、人違いじゃないですか……?」

  ̶̶あなたは上島スズナさんですよね。わたしはあなたのことを覚えているんですよ。

 わたしが頭にぱっと浮かんだことを口にするよりも、通話が途切れるほうが早かった。

 ——いや、わたしは目立つ生徒じゃなかったから……。

 自分に、あるいは上島さんに、はたまたそれ以外の誰かに、言い訳でもしているような気持ちになった。

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