18.

「なんで私たち、こんなに左に寄ってるんだろう?」

 食堂のテーブルの上に、ホツエとシズエが並んで写った写真がある。それは、ホツエの傷心旅行と銘打って紅葉を見にいったときに、通りがかりの見知らぬ人に撮ってもらった写真だった。確かに二人は左のほうに寄って写っていた。

「というかさ、これアリカも一緒に、三人で並んで撮ってもらったよね?」

「でもアリカ写ってないよ?」

 シズエの言葉に、ホツエは不思議そうに首を傾げる。

「わたしも、一緒に撮ってもらった記憶があるけど……」

 おずおずとそう言っては見たものの、写真にはやっぱりホツエとシズエしか写っていない。ホツエは、うーん、と困った顔で唸る。

「なんなんだろうねえ」

 シズエはそう言って、コップを口につけた。わたしは二人が写っている写真を眺めているうちに、なんだか胸がざわざわしてきた。食器の乗ったトレイを手に、立ちあがる。

「わたし、行くね。次の時間は講義ないから、部室に顔出してみる」

 ホツエが、行ってらっしゃい、と言うのを背に聞きながら、わたしは部室へと向かった。


 部室にはカナメさんと川口さんがいた。それぞれ自分のキャンバスに向かって、筆を走らせている。わたしが、こんにちは、と声をかけると、カナメさんがそれに答えてくれた。けれど、川口さんはこちらを見ようともしない。

「コンテストの絵、もうだいぶできたかな?」

「そうですね、そろそろ完成にしようと思います。細かいところはいろいろと気になるけど、気にしすぎると終わりそうにないですし」

 カナメさんの問いに答えて、わたしは部屋の後ろにある棚から箱をひとつ取りだす。そして机の上に画材を並べた。絵の具のチューブの箱を開けてみると、やはり青い絵の具はなく、しかも白い絵の具までなくなっていた。

「あの、カナメさん、青い絵の具と白い絵の具、貸してもらえませんか?」

「いいよ。でも、どうしたの?」

 わたしは問われて、一瞬言葉に詰まる。

「えっと、使い切っちゃったので……」

「そんなに青と白が好きなんですか」

 適当な嘘をつくわたしに、川口さんがどこか馬鹿にするようにそう言った。そういえば川口さんは、いまだにわたしに敬語を使っている。

「はい、どうぞ」

 カナメさんが差しだした青と白の絵の具のチューブを受けとり、パレットの上に絞りだす。そして二つの色を混ぜて、筆ですくいとった。既に青く塗った空に、また少しだけ色味の違う空の色を重ねていく。

 ふと川口さんのほうへ目をやると、どこか乱暴な手つきで筆を走らせていた。

「なんですか」

 キャンバスのほうを向いたまま、川口さんが声を発する。

「いや……、綺麗な絵だなって思って」

「お世辞とかいりません」

 わたしの言葉に、川口さんはぴしゃりと言った。

「お世辞のつもりじゃ、ないんだけど……」

 川口さんはわたしの言葉を無視して、筆でときどきパレットから絵の具をすくいとり、またキャンバスに走らせる。わたしは自分のキャンバスに向きなおり、ぼんやりと自分の描いてきた「ゲシュタルト崩壊」を眺める。青い空に、崩れてゆくビル群。まだ手直ししたいところはあったけれど、ひとまずこれで完成ということにしよう。わたしは青い絵の具と白い絵の具をカナメさんに渡した。

「ありがとうございました。わたし、今日は帰りますね」

「うん、お疲れ。気をつけて帰ってね」

 わたしは頷いて、荷物をまとめ、部室を後にした。


 教室の後ろのほうの席について、鞄を開ける。ノートとペンケースを取りだして、解析入門のテキストが見当たらないことに気づいた。

「おはよ」

 振りかえるとホツエがにこにこしながら、わたしの後ろの席に座るところだった。

「どうしよう、テキストがない」

「じゃあ私の見せようか?」

 ホツエはそう言って立ちあがり、わたしの隣の席へと移動する。

「ありがとう。でも、絶対に鞄に入れてきたんだけどな……」

「寝ぼけてたんじゃない?」

 そう言ってホツエは笑い、解析入門のテキストをわたしにも見えるように開いて置いた。

「うーん……。それにしても今日は遅刻しなかったんだね、珍しい」

「最近はちゃんと遅刻しないように来てるよ」

「三谷先生が好きだから?」

 わたしがそう問いかけると、ホツエは少し顔を赤らめた。

「いやいや、振られちゃったもん」

 そう言いながらもホツエは、どことなく嬉しそうに見えた。

「そのテキストって、どこで買えるかな?」

 わたしはテキストを指さして訊ねる。

「さあ……? 三谷先生に訊いてみたら?」

「そうだね。後で行ってみる」

 ホツエは、うんうん、と頷く。

 少しして、三谷先生が教室に入ってきた。そして、おはようございます、と言ってから、わたしのほうを見て怪訝そうな顔をした。けれどそれ以上なにを言うわけでもなく、チョークを手にとって黒板に数式を書きはじめた。

「前回やったことはさすがに覚えているでしょう」

 黒板にチョークを滑らせながら、三谷先生が言う。この人は前回やったことどころか、これまで見聞きしたものすべてを覚えているのだ、と思うと、やっぱり不思議に思えた。忘れることができない……。それはいったい、どんな感じなのだろう。

 そしてわたしは、これまでにどれだけのことを、忘れてきたのだろう。きっと忘れたほうがいいことも、その中にはたくさんあったのだろうけれど、忘れたことすらも忘れているのだと思うと、少しぞっとした。


「どうぞ」

 扉をノックすると、向こう側から三谷先生のくぐもった声が聞こえてきた。わたしは扉を開けて、研究室へと足を踏みだす。

「どちらさまかな。今日の僕の解析入門の講義にも、いましたよね」

「え?」

 三谷先生が眉をひそめてそう言ったので、わたしは思わず裏返った声を出してしまった。

「あの……、解析入門の講義を取っている東雲アリカですが……。テキストをなくしてしまったので、そのことで……」

「あなたの顔は初めて見ましたよ。今更、あの講義に初めて来たんですか?」

 しどろもどろに言葉を紡ぐわたしを、三谷先生は睨みつけるようにして咎める。

「ちょっと待ってください。今までもずっと講義には出ていました」

「そんなわけありません」

「どうして、そんなこと……、言いきれるんですか? まさか……、まさか、講義に来ている学生全員の顔を覚えている、とでも……、仰るんですか」

 それを言っていいのか悪いのか、わからないながらも言わずにいられなかった。つっかえながらもなんとか言葉を搾りだす。三谷先生は眉を少しだけしかめて、わたしの目をじっと見た。負けじとその目を見返す。むしろ睨みつけるような心持ちで。

 沈黙。お互いにただ見つめあって、何も喋らない。さすがにもう、耐えられなくなってなんとか口を開いた。

「先生は……、一度見たものや聞いたものは、決して……、忘れないんですよね?」

 三谷先生が目を見ひらく。

「なぜそれを知っているんですか……?」

 心底びっくりしたように、そしてどこか恐ろしげな表情で、そう問いかけられた。

「先生が教えてくれたからですよ。わたしと……、白崎ホツエっていう子に」

「白崎さんは知っています。でも、あなたの顔は今日初めて見ましたよ」

 そんなわけ、そんなわけない……。いったい、どういうことだろう。わたしはわけがわからず、途方に暮れた。三谷先生の顔がだんだんと、冷たい真顔へと変わっていった。

「ああ……、なるほど……」

 独り言のように呟いて、頷く。

「僕をからかいに来たんですね。確かに白崎さんには、僕が一度見たものや聞いたものを決して忘れない、ということを話しました。あなたは白崎さんからそれを聞いて、僕をからかいに来た。……違いますか?」

 三谷先生は語気を強めながら、そう言い、こちらを睨みつけた。

「先生こそわたしをからかってるんじゃないんですか? だって、わたしもホツエと一緒にここに来て、先生が一度見たものや聞いたものを決して忘れない、ってことを聞いたんですから。絶対に、聞きました。絶対に……!」

 わたしは声を張りあげて、まくしたてるように言い返す。けれど三谷先生はやっぱりわたしを睨みつけている。

「僕の記憶が間違っているはずがないんですよ。それに、いい大人が学生をからかって、どうするっていうんですか」

 ……そうだ。三谷先生の記憶が間違っているはずはない。それなら、わたしの記憶が間違っているのだろうか。わたしは決して記憶力がいいわけではない。

 だんだんと自分の記憶に自信がなくなっていく。ホツエがこの部屋へ来たとき、わたしも一緒にいた……、それはわたしが作りだした偽の記憶なのだろうか。そしてわたしは、さっき三谷先生が言ったように、ホツエからその話を聞いただけなのだろうか。

 いや……、そんなわけ、ない。けれど三谷先生は現に、わたしのことを覚えていない。

「先生は……、ほんとうに、絶対に……、忘れないんですか?」

 そう訊ねるわたしの声は、もはや力を失っていた。

「そうですよ。白崎さんに聞いたんでしょう」

 ――違う、あなたから直接聞いたのだ。

 そう言いたかったけれど、わたしの口は動いてくれなかった。

「東雲さんと言いましたね。くだらないことはやめて、帰ってくれませんか。テキストなら、学内の書店に……」

「あの、ほんとうに申し訳ありませんでした……!」

 三谷先生が言いおえないうちに、わたしは叫ぶようにそう言って、研究室から飛びだした。

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