19.

 わたしの絵がない。ほぼ完成していた、あの「ゲシュタルト崩壊」が、ない。わたしのキャンバスがあったところにはなにもなく、ぽっかりとただ空白がある。

「あの……、わたしのキャンバスが、ないです……」

 キャンバスに筆を走らせるカナメさんに向かって、わたしは呟くようにそう訴えた。

「昨日までそこにあったよね?」

「はい。持って帰ったりは、してないんですけど……」

 カナメさんは首を傾げる。

「誰も、他人のキャンバスを勝手に動かしたりは、しないと思うんだけど……」

「そうですよね……」

 わたしはそう答えたけれど、現にわたしのキャンバスは、見当たらない。

「どうせ自分で隠したんでしょ? かまってちゃんって、ほんとイヤ」

 川口さんが刺々しい声でそう言った。

「やめなよ、川口さん……、そういうこと言うのは……」

「先輩ってほんとに東雲さんに甘いですよね」

 たしなめるカナメさんに、川口さんはそう答えて、手に持っていた筆を机の上に放りなげる。そしてそのまま、鞄を掴んでばたばたと部屋を出ていった。

「気にしちゃダメだよ? 僕は、君が自分でキャンバスを隠したなんて、思ってないから」

 少しの気まずい沈黙を、カナメさんの柔らかい声が破った。

「私もだよ。でも、どこに行っちゃったんだろうね?」

 続いて、佐々木さんがそう言う。あんなに大きなキャンバスが、イーゼルごとどこかに行ってしまうなんて、ありうるのだろうか。美術館のコンテストに出すつもりで、もうほとんどできあがっていたのに。また最初から描きなおすのか、あるいは別の絵を描くのか。どちらにせよ、気が遠くなる話だった。

「もしかしてさあ……」

 林さんが口を開く。

「川口さんが、隠したんじゃねえの?」

「川口さんが……?」

 林さんの憶測に、カナメさんが訊きかえす。

「そう。キャンバスを『隠す』だなんて、自分がやったから、そんな言い方したんじゃねえのかな、って」

「でも、なんでそんなこと?」

「東雲さんのこと、嫌いだからだろ」

 カナメさんの問いに、林さんはにべもなく答えた。

「わたし、川口さんに嫌われてるんですか?」

 思わずわたしは、林さんに向かってそう口にした。

「自覚ねえのかよ。どう考えても嫌われてるだろ。さっきだって、かまってちゃんだとか言ってたし。今までだってあの子、よくあんたを睨みつけてたし」

 林さんは、どこか呆れたようにそう言った。

「わたし、嫌われるようなこと、しましたかね……?」

 わたしがそう呟くと、林さんは少し口ごもって、それからまた口を開いた。

「まあ、東雲さんがどうこうというよりは、カナメのせいだな」

「え、僕?」

 カナメさんはびっくりしたように、裏返った声をあげる。

「いや、カナメのせいって言うのも変か……。要するに嫉妬だろ。カナメと東雲さんが仲良いのが、気に食わないんだろ」

「そんなに違うかなあ? アリカちゃんにも川口さんにも、同じように接してるつもりだけど……」

「ほら、それだよ。まず呼び方が違うじゃねえか」

 呆れかえったように指摘する林さんに、カナメさんはバツの悪そうな顔をして黙りこんだ。

「それにな、お前は東雲さんへの、好きって気持ちを、全然隠しきれてねえんだよ」

「え、そ、そう……?」

 林さんの更なる指摘に、カナメさんは少し顔を赤くして焦ったような表情を見せる。

「じゃあ、さっき言ってた、嫉妬、って……」

 わたしはおずおずと口を挟んだ。

「川口さんもカナメのことが好きなんだよ」

 納得しかけてから、わたしは違和感に気づいて口を開いた。

「川口さん『も』って、どういうことですか」

「どういうことって……、それはあんたが一番よくわかってるだろ。あんたも、カナメが好きだ、って」

「いや、だから、好きですけど、それは人として好きということであって……」

「はいはい、わかったわかった」

 林さんはあしらうように、わたしの言葉を遮った。

「でも、いくらなんでもそこまでするかな?キャンバス動かすの大変だし、隠せるような場所もそうそうないでしょ?」

「まあ、それもそうだけど……」

 ふいに口を開いた佐々木さんに、林さんは歯切れ悪く答えた。そしてしばらく、わたしたちは黙りこんだ。林さんは自分のキャンバスに向かって筆を走らせ、佐々木さんは考えこむように首を動かしていた。カナメさんは自分のキャンバスの前で俯いている。

「描きなおします。コンテストに出すつもりでしたし」

 わたしはそう言って、部屋の後ろに並んだいくつかのイーゼルの中から一つを持ちあげて、昨日までわたしのキャンバスがあった空間へとそれを運んだ。それからまた部屋の後ろに行き、数枚積まれた新しいキャンバスから一枚を引きだして、イーゼルに立てかけた。真っ白なキャンバスを改めて眺めると、思わず溜息をついてしまう。どう考えても間にあわない。あの絵を描くのに、わたしはどれだけ時間を使っただろうか。実際に筆を動かしていた時間は計っていないけれど、今からコンテストの締切までに同じ絵を描くことなど、できるのだろうか。

「無理すんなよ。そりゃ、せっかく描いてた絵がなくなって、悔しいのはわかるが……」

「べつに、悔しいわけじゃないですけど」

 わたしを気遣うような林さんの声に、思わずそれをはねのけるような言葉を返してしまった。口をつぐんだ林さんに謝ろうかと思ったけれど、思いなおして画材を机の上に並べる。パレットに白い絵の具と黒い絵の具を出して、オイルで濡らした筆でその二つの色を混ぜた。まずは灰色のビル群。大丈夫、一度描いたものをもう一度描くだけだ。一度目よりは短い時間でできあがるはずだ。

 わたしが無心でキャンバスに向かっている間に、佐々木さんが帰り、林さんが帰り、そしてカナメさんも帰ってしまった。カナメさんは、鍵を事務所に預けるのを忘れないでね、と言って名残惜しそうに部屋を出ていった。窓の外には夜が広がっていて、部屋の中まで少し寒くなっている。


 わたしは手をとめて、わたしのことを「かまってちゃん」と言った、川口さんの刺々しい声を思いかえした。そして、くだらない、と頭の中で呟く。もう一度、くだらない、と呟く。

 くだらない。くだらない。くだらない。

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