17.
部室へ入ると、ホツエとシズエがそれぞれのキャンバスに向かって筆を走らせていた。わたしは自分のキャンバスの前に立ち、それをよく見てみる。大丈夫、空の色は消えたりしていない。ただ、もう少し深みのある色にしたいと思って、部屋の後ろの棚から箱を取り、机の上に画材を並べる。絵の具のチューブの入った箱を開けて、思わず首を傾げた。なぜだろうか、青い絵の具のチューブだけ入っていない。わたしはしばらく、青い絵の具のチューブが入っていたはずの空間を見つめて、静止していた。
「どうしたの?」
こちらを振りかえって、ホツエが訊ねる。
「青い絵の具がない……。持って帰ったりとか、してないんだけど……」
「えー、誰かが間違えて持っていっちゃったとか?」
シズエもこちらを向いて、不思議そうに言った。
「間違えるかなあ……。しかも青い絵の具だけ、ないんだよ?」
わたしはそう言いながら、とりあえずパレットの上に白い絵の具と黒い絵の具を絞りだした。
「ひょっとしてイタズラだったりして。とりあえず私の貸すよ」
ホツエがそう言いながら机の前にやってくる。そして青い絵の具のチューブをわたしのほうへと差しだした。
「ありがとう」
いたずら……。こんなくだらないいたずらを、いったい誰がするというのだろう。しかも、青い絵の具だけだなんて。
わたしは青い絵の具のチューブを受けとり、パレットの上に青い絵の具を絞りだした。
「なんだろうねえ?でも、ヤエちゃんならしそうかも、とか思っちゃう」
「川口さんが?」
ホツエの言葉にわたしは訊きかえした。
「まあ、いたずらなら青だけじゃなくて全部持っていっちゃう気もするけど」
シズエがそう言うとホツエが、まあ確かに、と頷く。
「なんで川口さんならしそう、って思うの?」
わたしは二人に向かって問いかけた。
「やっぱりアリカは鈍いなあ。ヤエちゃん、晴野先輩のこと好きなんだよ、どう考えてもさ」
シズエが笑いながら答える。
「そうなの……? でもそれとこれと、どう関係があるの?」
「えー、わかんない?晴野先輩はアリカのこと好きじゃん。だから嫉妬だよ、嫉妬」
今度はホツエが笑いながら言った。確かにカナメさんはわたしのことを好きだと言ったけれど、周りから見てもそれがわかるものなのだろうか。
「カナメさん、わたしのこと好きなのかな?」
好きなのかな、もなにも、わたしは本人から好きだと言われたのだけれど、そのことを二人に打ちあけようとは、どうしてか思えなかった。
「どう考えてもそうじゃん、まさか気づいてなかったの?」
「え、いや……」
シズエの言葉に、わたしは言葉を濁し、パレットと筆を持ってキャンバスに向かった。パレットの上で青い絵の具と白い絵の具を混ぜて、そこにほんの少しだけ黒い絵の具も混ぜてみる。
「ていうかさ、アリカも晴野先輩のこと好きでしょ? 前言ってた好きな人って、晴野先輩じゃないの?」
今度はホツエが口を開いた。
「え……、まあ、好きだけど……。恋愛感情かはわからないっていうか……」
「なんかじれったいなあ」
笑いながら言うシズエの言葉に、いつか林さんに言われた「曖昧な態度」という言葉を思いだす。
——好き。
わたしは筆をキャンバスに軽く叩きつけながら、何度も「好き」という言葉を頭の中で繰りかえした。繰りかえせば繰りかえすほどに、わけがわからなくなる。
とにかくこの絵を完成させよう。軽くかぶりを振って、わたしはキャンバスに空の色を広げていった。
抽斗からノート——半分くらいは使っていたはずなのに、真っ白になってしまっていたあのノート——を取りだし、机の上に開く。万年筆を取ろうと手をのばして、いつもそこに置いていた万年筆がないことに気づいた。
カナメさんにもらった青い万年筆が、ない。机から転がり落ちてしまったのだろうか。机の下を見ても、念のためにベッドの下を見ても、万年筆はなかった
なくすのが怖くて、どこにも持ちださないようにしていたのに。抽斗を開けても、手前の隅に包装された箱があるだけだ。
仕方なく、ボールペンを手にとってノートを開き、「万年筆が行方不明」と書きつけた。そして自分の書いたその文字列を見て、なんだか馬鹿馬鹿しくなった。わたしはボールペンをノートの上に置いて、椅子の背もたれに体重を預ける。それから思いっきり、わざとらしいくらいに——誰に見られているわけでもないのに——思いっきり、背伸びをした。
はあ……。
口には出さずに、溜息をつく。背もたれから背中を離して、もう一度ボールペンを手にとる。そしてノートにぐるぐると不恰好な円をいくつも描いた。
——ごめんなさい。
とてもじゃないが、プレゼントでもらった万年筆をなくしてしまいました、なんてカナメさんには言えない、言いたくない。だからせめて、とわたしは謝罪の言葉をノートに書いた。そしてしばらくぼんやりしてから、その下に「好きです」と書きくわえた。
これは、恋愛感情というものなのだろうか。
どうすればわかるのだろう。そもそも、わかる必要があるのだろうか。わたしはノートを閉じて抽斗の中に入れ、部屋の明かりを落としてベッドに身を横たえた。布団を頭まで被って、目を閉じる。なにも考えない、なにも考えない……。一所懸命にそう頭の中で呟いても、脳裏にはカナメさんの優しい微笑みが浮かんでくる。一刻もはやく意識を手放したいのに。
——僕はね、君が好きなんだ。
カナメさんの声が、わたしの耳朶によみがえる。やっぱりわたしはあのとき、なにかもっと言うべきことがあったのではないだろうか。
いや……。
なにもない、なにもない。わたしは声に出さずにそう呟く。瞼に力を込めて、とにかく眠ろうとした。どうか夢に出てこないで。そんなことを考えながら。
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