16.

 部室にはカナメさんと川口さんがいた。カナメさんは「デクレッシェンド」を描いているキャンバスの前に立っている。川口さんは椅子に座って、机の上で水彩画を描いているようだった。

 わたしは自分のキャンバスに視線を走らせて、思わず首を傾げた。「ゲシュタルト崩壊」と題した描きかけの絵の、青く塗ったはずの空が真っ白になっている。いくつもの薄い青い色で、空を塗ったはずだ。夢でも見ていたのだろうか。いや、わたしはパレットに青い絵の具と白い絵の具を出して混ぜたことも、それを少しずつキャンバスの上のほうに伸ばしたことも、はっきりと覚えている。

 キャンバスの前に立って、もう一度よく見てみる。やっぱりキャンバスの上のほうには、なにも塗られていない。

「アリカちゃん、それ描きなおしてるの?」

 わたしの傍へ来て、カナメさんがそう訊いた。

「ほとんどできかけてたよね?」

「はい、空を青く塗って……」

「そうそう、あの色、綺麗だったけどなあ」

 やっぱり夢を見ていたわけではない。わたしは確かに空を塗ったし、カナメさんもそれを見たのだ。けれど、塗ったはずの空の色が消えているんです、と言うのはなんだかはばかられた。

「えっと……、なんとなく、自分では空の色がちょっと違うなって思って、それで描きなおしてるんです」

「ずいぶんと熱心なんですね」

 川口さんがどこか刺々しい口調でそう言った。わたしは部屋の後ろの棚へと歩いていき、画材の箱を手にとる。わけがわからないけれど、消えてしまったものは仕方がない。とにかくこの絵を完成させるためには、もう一度塗りなおすしかないだろう。

 油彩用のパレットの上に、青い絵の具と白い絵の具を絞りだす。そして筆に少しオイルをつけて、二つの色をかき混ぜる。そうしてできた空色を、キャンバスに広げていく。

「そういえば、川口さんも美術館のコンテスト出す?」

 カナメさんの問いに川口さんは、はい、と小さく答える。

「晴野先輩は、その絵を出すんですか?」

 そう言って川口さんは、カナメさんの「デクレッシェンド」が描かれたキャンバスのほうへ目を向けた。

「うん、そのつもりだよ」

「なんだか、不思議な絵ですよね。素敵です」

 どこかうっとりするように、川口さんはそう言った。

「ありがとう」

 わたしは二人のやりとりをよそに、ほんの少しずつ色を変えながら「ゲシュタルト崩壊」の空を塗っていく。どうして塗ったはずの空の色が消えたのだろう、とまだ考えながら。いや、考えても仕方ない。現に消えてしまっているのだから。不思議で仕方ないけれど、とにかくわたしはこの絵を完成させて、コンテストに出したい。もちろん初心者のわたしが入賞なんてできるとは思っていないけれど、それでも描いて、コンテストに出す、そのことがとても意味のあることに思えた。


 今日はなにを書こうか、と考えながら抽斗を開ける。日記帳代わりのノートを取りだして、開いた。

 真っ白だ。

 最初のページから最後のページまで、どこにもなにも書かれていない。何度もページをめくって確かめてみたけれど、まるで買ったばかりの新品のように、真っ白で、綺麗だった。

 ——そんなわけ、ない。

 昨日までこのノートに毎日のように日記を書いていて、もう半分くらいは使ったはずだ。まさか、誰かが取りかえたのだろうか。わたしはノートを机の上に置いて、リビングへ向かった。母がソファに座って携帯電話をいじっている。

「ねえ、わたしの日記のノート、どこかにやった?」

「日記? 日記なんか書いてたの?」

「え……、うん、そうだけど……」

 母は不思議そうな声をあげて、こちらを一瞥した。どうやら母がノートを取りかえたということはないようだ。もしもわたしが訊かなければ、日記を書いていることなど知られずにすんだのか、と思うと少し恥ずかしかった。

「へえ」

 それだけ言うと、母はすっと携帯電話に目を落として、またいじりはじめた。わたしはとぼとぼと自室に向かい、もう一度机の上のノートを開いてみる。やっぱり真っ白だ。わけがわからないけれど、仕方ないので机の隅に置いていた青い万年筆を手にとる。そしていつものように思わず、キャップに刻まれたわたしのイニシャルを指でなぞった。それからキャップを外し、ノートの最初のページに今日の日付を書いた。その下に、今日の出来事を箇条書きしていく。描きかけの「ゲシュタルト崩壊」の空の色が消えたこと。使いかけのノートが真っ白になっていたこと。

 いったい、なにがどうなっているのだろう。わたしは自分でノートを買いかえて、その記憶を失ってしまったのだろうか。でも、「ゲシュタルト崩壊」の空の色は?カナメさんも確かに見ていたし、それを覚えていた。だから、わたしの記憶違いではない。それともわたしはほんとうにあの絵をイチから描きなおして、その記憶を失ったのだろうか。

 なんだか頭が痛い。わたしは万年筆のキャップを閉めて机の上に置き、ノートを抽斗の中へしまった。

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