15.

 日記帳代わりのノートを机の上に開いて、カナメさんにもらった万年筆を手にとる。キャップの端に彫られたわたしのイニシャルを指でなぞって、それからキャップを外した。わたしは林さんとのやりとりや、カナメさんに言われた「好き」という言葉を、何度も思いかえしていた。それを今日の出来事として書きとめるべきか、悩んでもいた。

 わたしはどうすればよかったのだろう。ほんとうは、カナメさんに対して言うべきことが、もっと他にあったんじゃないだろうか。

 ——恋愛感情。

 ノートにそう書きつけて、わたしはその文字列を眺める。好きだと言われて礼を述べたわたしに、カナメさんがどこか寂しそうに微笑んだことを、思いだした。

 わかりたくない。わたしはふと、そう思った。恋愛感情がいったいどういうものなのか、わたしがカナメさんに恋愛感情を抱いているのか、そんなことわかりたくない。

 ——わかりたくない。

 わたしはそれをノートに書きたして、万年筆のキャップを閉めた。


 電車の窓の外を眺めて、それからボックス席の向かいに座るホツエとシズエに目をやった。

「晴れてよかったよね」

 シズエはコンビニで買ったサンドイッチを頬張りながら、そう言った。

「うん。今日はありがとうね」

 ホツエはペットボトルのお茶を飲みながら笑う。

「傷心旅行とか言うけどさ、ホツエそんなに傷心してなくない?」

「えー、せっかくの旅行だから楽しまなくちゃ損じゃん! ほんとうはめちゃくちゃ傷ついてるんだから!」

 そう言ってホツエは少し口を尖らせたけれど、わたしの目にもそんなに傷ついているようには見えなかった。三谷先生にはきっと断られるだろうと予感していたから、あまり傷ついていないのだろうか。それとも、本人が言うように「ほんとうはめちゃくちゃ傷ついてる」のだろうか。

「まあ、旅行というほどでもないよね、これ」

 シズエが言う。わたしたちが向かっているのは、電車で三十分もかからない場所にある紅葉の名所だ。泊まる予定もなく、きっと夕方には家に戻っているだろう。

 目的の駅について、わたしたちは電車を降りた。広い通りを歩いて、寺へと向かう。あたりは人で賑わっている。おそらくその大半は、わたしたちと同じように紅葉を見にきているのだろう。

「これじゃあ、紅葉じゃなくて人を見にきたみたいだね」

 シズエがそう言って笑う。十分ほど歩いて着いた寺の周りは、人で溢れかえっていた。

「私たちも写真撮ってもらおうよ」

 ホツエがそう言って、通りがかりの人に、写真お願いできますか、と声をかける。いいですよ、と頷くその人にホツエは携帯電話を渡し、わたしたちは一本の楓の木の前に並んだ。

「お願いしまーす」

 撮影が終わり、差しだされた携帯電話を受けとるとホツエは、ありがとうございました、と元気よく言って、わたしたちはまた歩きだした。

「今度これプリントしとくね」

「よろしく」

 ホツエの言葉にシズエが答える。なかば人に流されるようにして、わたしたちは寺の周りをぐるりと回った。

「あ、そこのカフェ入ってみない?ちょっと疲れたし」

 シズエの言葉に頷いて、わたしたちはカフェに入った。賑わってはいるが空いている席もあり、すぐにテーブル席に通された。

「私はメロンソーダにする」

 メニューを開いてすぐにシズエが言う。その手からホツエがメニューを取って、どうしようかなあ、と呟きながら眺める。

「アイスコーヒーある? あるならそれで」

 わたしが言うとホツエは、あるよ、と答えた。それから少しして、口を開く。

「私もメロンソーダにしようっと」

 わたしは近くにいた店員を呼んで、メロンソーダを二つとアイスコーヒーを一つ頼んだ。

店員はにっこり笑って、かしこまりました、と言い去っていく。

「ホツエってさ、恋人が欲しいっていうより、誰かのこと好きでないといられないだけなんじゃないの」

 シズエがそう言うとホツエは、うーん、と首をひねった。

「そうかなあ? 恋人欲しいよ?」

 ふうん、とシズエはさして興味もなさそうに頷く。

「じゃあ先生なんか好きになってないで、つきあえそうな人探せばいいのに」

「誰を好きになるかなんて選べないじゃん」

 まあそれはそうだけどさあ、とシズエは呟く。

 わたしはふと、恋人がいたらどんないいことがあるのだろうか、ということを考えた。そもそもなにか「いいこと」が、あるのだろうか。

「はあ、三谷先生やっぱり好きだなあ……」

 ホツエがどこかうっとりしたように言葉を紡ぐ。

「振られたんでしょ、きっぱり諦めなよ」

 シズエの言葉にホツエは、うう、とうめく。

 誰かを好きになること——恋愛感情で好きになること——は、うっとりするほど心地よいものなのだろうか。だとしたらわたしがカナメさんに対して抱く「好き」は、恋愛感情ではないのだろうか……。

「お待たせしました」

 店員がトレイの上にグラスを三つ乗せて、テーブルの傍に立った。わたしたちはそれぞれの飲み物を受けとって、ごゆっくりどうぞ、と言って去っていく店員を見送った。

「シズエは、誰かのこと、好きになったことあるの? 恋愛感情で」

「あるよ」

 わたしの問いかけに、シズエは答えてメロンソーダをすする。

「それが恋愛感情だって、どうしてわかるの?」

「どうしてって……、そりゃわかるでしょ」

 シズエは不思議そうな顔をしてこちらを見る。

「わたし、よくわからなくて。恋愛感情っていうのが、どういうものなのか……」

 わたしはアイスコーヒーに少し口をつけて、そう言った。

「うーん、でもさ、そういうのって理屈じゃないじゃん?」

 シズエの言葉にわたしは、はあ、と曖昧に頷く。

「きっとアリカも恋すればわかるって」

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