14.
「ねえ、アリカがさっき言ってた好きな人って誰なの? 私も知ってる人?」
研究室を出るなり、ホツエは目を輝かせて訊ねてくる。三谷先生のことはもういいのだろうか、などと少し思ってしまった。
「えっと……、恋愛感情かはわからないよ?」
「誰なの?」
なんだかわたしはそれに答えたくなかった。どうしてなのかは、自分でもよくわからなかったけれど。
「秘密」
「えー、ずるいよ。私が好きなのは三谷先生だって、教えたのに」
「教えてなんて頼んでないよ?」
「そ、そうだけど……」
ホツエは少しバツが悪そうに答える。
「それよりホツエは、三谷先生を好きだっていうのが恋愛感情だって、どうしてわかるの?」
「え……、どうしてだろう?」
ホツエは立ちどまって首を傾げた。
「どうしてって言われると難しいなあ。でもわかるものは、わかるよ?」
わかるものは、わかる。それならやっぱり、わたしのこの「好き」は、恋愛感情ではないのだろうか。
「アリカは難しく考えすぎなんじゃないかな。好きなものは好きだし、なんならそれが恋愛感情かどうかって、いちいち迷う必要もないんじゃない?」
「うーん……」
たしかに言われてみれば、どうしてわたしは自分の気持ちが恋愛感情なのかどうかを、こんなに気にしているのだろう、という気もしてくる。それでも、いつか林さんに言われた「それって恋愛感情だってことな気もするけどね」という言葉を思いかえして、なんだかもやもやした気持ちにもなった。
「好きって言われて嫌な気持ちになる人なんてそうそういないでしょ。その気持ちだけでも、伝えてみれば? もしかしたら初めての恋人ができるかもしれないし!」
またホツエが目を輝かせながら、そう言った。三谷先生はホツエに好きだと伝えられて——というより伝えられることを察知して——嫌な気分……、とまではいかなくても、困っていたのではないだろうか、と思ったけれど、さすがにそれを言うのは酷な気がした。
「そう、だね……」
とりあえずそう答えてはみたけれど、わたしはきっとホツエの助言には従わないだろう、ということも、なんとなくわかっていた。
部室に入ると、窓際のキャンバスの前に立っていた林さんがこちらに顔を向けた。こんにちは、と声をかけてわたしは部屋の後ろの棚へと歩いていく。
「カナメと付きあってんの?」
「へっ?」
林さんの言葉に、わたしは素っ頓狂な声を出してしまった。
「いえ、お付きあいしているわけじゃないですけど……。どうしてですか?」
「土曜日、駅前のパスタの店にいたろ。二人で」
「ああ……。相談に乗ってほしいって言われて……」
わたしの言葉に、林さんは首を傾げる。
「相談? なに相談されたの」
そういえば、結局なにかを相談されたわけじゃない、ということを思いだす。
「えっと、なにも相談されなかったですね……」
ふうん、と林さんが呟く。
「あんたと二人で過ごすための口実ってことか」
「あ、でも、誕生日プレゼントをもらったんです」
口実、という言葉になんだかわたしはどぎまぎして、言い訳を述べているような気分になりながら、慌てて言葉を並べる。
「へえ」
林さんはどこか面白くなさそうに相槌を打った。
「で、それだけ?」
わたしはそう訊かれて、言葉に詰まる。
「家に連れこまれたり、したんじゃねえの」
「連れこまれてなんか……、わたしがギター聴かせてほしいって言ったから、それならおいでよ、って……」
「なに、あいつのギター聴いたの?」
林さんがもはや険悪といってもいいくらい、低い声で問いかける。
「え、はい……」
部屋の扉が開いたので目をやると、カナメさんが入ってくるところだった。
「俺には聴かせてくれないよな」
カナメさんのほうへ目を向けて、林さんがそう言った。
「え?」
「ギターだよ」
きょとんとするカナメさんに、林さんがそう答える。
「お前らが駅前の店で飯食ってんの、たまたま見かけたんだよ」
「そうなの?」
林さんとカナメさんのやりとりをよそに、わたしはなにか言ってはいけないことを言ってしまったのだろうか、と不安になっていた。そんな自分の気持ちをごまかすような気分で、棚から箱を一つとって机の上に置く。箱を開けて画材を取りだし、油彩用のパレットの上に絵の具を絞りだす。
「それで……、僕の家でギター弾いて聴かせたのを、アリカちゃんに聞いた、ってこと?」
しばらく黙っていたカナメさんがそう言うと林さんが頷きながら口を開いた。
「いつの間にか呼び方も変わってるし」
「あ、うん……」
カナメさんは困ったようにそう答えて、机の上の画材を触るともなく触る。
「お前らの曖昧な態度見てると……、正直イライラする。勝手なこと言ってるのは、わかってるんだが」
わたしは顔をあげて林さんのほうへと目を向けた。林さんはキャンバスに背を向けて、腕組みをして憮然としていた。
「そりゃ、俺の想いが叶うなんて、思ってねえけど……」
林さんがしりすぼみにそう言葉を続けると、カナメさんは手元から目をあげて林さんのほうを見た。
「え、ユウの想い、って……」
どこかわざとらしく、林さんは溜息をついてみせた。
「俺はお前が好きなんだよ、カナメ」
「僕?」
心底びっくりしたように、カナメさんが声をあげる。
「あ、ありがとう。でも……」
カナメさんが言葉を続けようとすると、林さんはふっと息をついて口を挟んだ。
「わかってるよ」
カナメさんの言葉を遮って、林さんが寂しそうに笑いながら言った。そしてまた、小さな溜息をつく。
「帰るわ……」
林さんは呟くようにそう言って、画材を片付け、部屋を出ていった。扉が閉まったのを確認して、わたしは口を開く。
「あの、林さんが言ってたんですけど……、相談があるって言ってたのは、その……」
わたしは「口実」という言葉を口から出そうとしたけれど、喉がつっかえたような息苦しさを覚えた。
「君に外で会いたかったからさ、ただの口実だよ」
カナメさんは少し困ったように微笑みながら、そう言った。
「ユウもそう言ってた?」
「はい……」
あはは、とカナメさんが乾いた声をあげる。
「僕はね、君が好きなんだ」
急に真面目な顔になったカナメさんにそう言われて、わたしは思わず体を硬くした。いったい「好き」という言葉にどう対応すればいいのか、わからなかった。
「あ、ありがとうございます……」
わたしが絞りだしたその言葉に、カナメさんはどこか寂しそうに微笑んだ。
「ごめんね。困らせちゃったかな」
「いえ……。その、わたし、恋愛感情っていうものが、よくわからなくて……」
カナメさんは、そっか、と小さく呟いた。
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