13.
「はあ……」
箸を持つ手をとめて、ホツエがどこかうっとりしたようなため息をつく。
「なに、恋でもしたの?」
シズエが箸を口元へ動かしながら、そう訊ねる。
「えー、なんでわかったの?」
少し笑いながらホツエが訊ねかえす。
「わかるよ。ね、アリカ」
「いや、わたしはわからなかったけど……」
「まあ、アリカは鈍いもんねえ。で、誰なの?」
シズエは笑って、ホツエにまた訊ねる。
「多分、シズエは知らない人だよ」
「ってことは、アリカは知ってる人?」
「あー、うん……」
ホツエは困ったように、けれどどこか嬉しそうに頷く。
「私が知らないってことは、美術サークルの人じゃないのか」
シズエは呟きながら茶碗を左手にとった。
「アリカは心当たりある?」
「まったくないけど……」
シズエに問われてそう答えながらわたしは、ホツエとわたしの共通の知りあいを何人か思いうかべてみた。けれど、ホツエが誰かと特別に親しくしているところは、思いだせなかった。
「三谷先生だよ」
ホツエの口から飛びだした名前に、わたしはびっくりして箸を取りおとしそうになった。
「三谷先生?」
シズエは少し興味を失ったように訊ねた。
「そう、解析入門の先生なの」
「なに、それ」
「数学だよ、微分とか積分とか」
「あー、数学の先生ってことか。じゃあ知らないや」
シズエはそう言って、食事を続けた。
「なんでまた三谷先生……?」
わたしは思わずホツエのほうを見ながらそう訊いた。
「なんでって言われても」
ホツエは三谷先生に遅刻を注意されているし、いい印象を抱いているとは思えなかった。
「すごく優しいんだよ。毎週先生のところに行って質問してるんだけどさ。告白したいなあ」
ホツエはまた、どこかうっとりしながら言う。
「すればいいじゃん、多分振られるけど」
シズエが口を挟むと、ホツエは少し眉をひそめてそちらに顔を向けた。
「なんで?」
「だって教員と学生って、ねえ?」
シズエはそう言って、わたしのほうを見ながら首を傾げてみせる。
「まあでも大学生だし、それはいいんじゃないかな……?」
なんとなくわたしがフォローを入れると、ホツエは顔を輝かせながら口を開いた。
「そうだよね。もう子どもじゃないもんね」
「あー、いや、それは多分子どもだと思われてるけど……」
いつか三谷先生が言っていた「大人というには幼い」という言葉を思いだして、一応そう言ってみたが、ホツエは聞いていないようだった。
「アリカ、明日ついてきてよ」
「え?」
「だから、三谷先生に告白しに行くから!アリカも一緒に!」
「な、なんで……」
「だって心細いもん。もしかしたらダメかもしれないし」
「まあダメだろうね」
少し顔を曇らせたホツエの隣で、シズエはいたずらをする子どものように笑いながら口を挟む。
わたしは誰かに告白とやらをしたこともないし、誰かに告白とやらをされたこともないけれど、おそらくそういった場に第三者がいるのは居心地が悪いだろう、ということぐらいは想像がついた。
「とにかく、明日の六限が終わったら、ね!」
そう言ってホツエがこちらを見て目を輝かせたので、わたしはなにも言えずに頷いた。シズエが、せいぜい頑張りな、と言って楽しそうに笑った。
「先生」
三谷先生の研究室に入るなり、ホツエは少し強張った声を発した。
「珍しいですね、今日は東雲さんもですか」
わたしは椅子に座っている三谷先生に向かって、こんにちは、と軽く頭を下げる。
「先生って結婚はされてるんですか?」
「いいえ、していませんよ」
ホツエの問いに、三谷先生は静かに答える。
「じゃあ、恋人は?」
「いません」
「それじゃあ……」
「申し訳ありませんが」
言いかけたホツエの言葉を、三谷先生は遮る。
「えっ、私まだなにも言ってませんよ?」
顔を赤くしてホツエが焦る。
「あのですね、あれだけこの部屋に足を運んで、結婚しているのか、恋人はいるのか、と訊かれれば、よほど鈍い人間でなければなにを言いたいのかはわかりますよ。どうして友人をその場に同席させようというのかは、理解しかねますがね……」
ホツエは少し黙りこんでから、ふっ、と息をつく。
「どうしても、心細くて……。でも、なんでダメなんですか?わたしがまだ子どもだからですか? それとも学生だから?」
「両方に加えて、僕があなたに恋愛感情を抱いていないからですよ」
三谷先生の言葉にホツエは、うう、とうめいた。
「わかったら帰ってください」
「先生」
わたしが突然声をあげたので驚いたのだろう、三谷先生がこちらを見て首を傾げる。
「自分でそれが恋愛感情かどうかって、わかるものなんですか?」
「なんですか、突然」
「わたし、わからないんです。好きな人はいるけど、それが恋愛感情かどうか」
三谷先生は、はあ、と大きく溜息をついた。
「えっ、アリカ好きな人いるの?」
ホツエはびっくりしたようにこちらに顔を向ける。
「どうしてそれを僕に訊くんですか」
「いえ、さっきホツエに対して恋愛感情を持ってないって、断定したから……」
「じゃあですね、東雲さん、あなたは僕に恋愛感情を抱いていますか?」
思わぬ問いかけにわたしは固まった。
「アリカの好きな人って三谷先生なの?」
「いや、違うよ?」
ホツエに問われて、わたしは慌てて否定する。
「つまりあなたは、僕に対して恋愛感情を抱いていないと、自分でわかるのでしょう」
机を人さし指で軽く叩きながら、三谷先生がそう言った。
「えっと……、たしかに……。いや、でもそうじゃなくてですね、恋愛感情でないことはわかるかもしれないですけど、恋愛感情であることもわかるのかなって……」
三谷先生は大仰に溜息をついた。
「それは白崎さんに訊いたらいいでしょう。僕に恋愛感情を抱いていたそうなので」
「なんで勝手に過去形にするんですか」
ホツエは、三谷先生の言葉に食ってかかる。
「そうしてもらわないと困るからですよ。あなたにはちゃんと、あなたに相応しい人が現れます」
「それが先生じゃないなんて、言い切れないじゃないですか」
「言い切れますよ……」
一度そこで三谷先生は言葉を区切った。
「申し訳ありませんが、正直に言って疲れました。二人とも、帰ってください」
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