12.

「あの、ところで相談ってなんですか?」

 カルボナーラを食べおえてアイスコーヒーを啜り、わたしはカナメさんの顔を見ながら訊ねる。

「あー、いや、なんだったかなあ」

 カナメさんはそう言って笑った。わたしは思わず首を傾げる。

「えっと、もし嫌じゃなかったら、だけど……、家に来ない? ほら、前に僕のギター聴きたいって言ってたからさ……」

 カナメさんが少しずつ言葉を選ぶように、そう言った。

「ぜひ聴かせてください」

 わたしがそう答えると、カナメさんはなぜか少し困ったように笑う。

「うん、じゃあ……、行こうか」

 わたしがアイスコーヒーを飲みおえると、カナメさんが立ちあがった。わたしも立って、レジに向かうカナメさんの後ろをついていく。カナメさんは二人分の食事代を払って、店を出た。

「半分払いますよ」

「いいよいいよ、僕のほうがちょっとだけだけど、年上なんだし」

 こういう場合、奢ってもらうべきなのか、それとも自分の分は無理を言ってでも払うべきなのか、わたしにはさっぱりわからなかった。ただ、せっかくの好意を無下にすることがためらわれて、わたしは軽く頭を下げる。

「ありがとうございます。それじゃあ、お言葉に甘えて……」

 カナメさんは、うんうん、と頷いて歩きはじめた。

「あの……、カナメさんって、おいくつですか?」

「二十一だよ」

 訊いてよかったのかよくなかったのか、わたしは少し混乱する。カナメさんは一月生まれだから、まだ誕生日を迎えていない。それなのにわたしの三つ上で……、ということは?

「ああ、三回生なのになんで、って顔してるね」

「え、いえ……」

 少しこちらを振りかえったカナメさんにそう言われて、わたしは慌てて否定する。カナメさんはいつもどおりに微笑んでいた。

「まあ、ちょっとね。ああ、ここの二階だよ。二〇五号室」

 少し古そうなマンションの前で、カナメさんがそう言った。そして壁にはまっているパネルに鍵を差しこんで、開いた自動ドアをくぐっていく。わたしは、もう着いたのか、と思いながらその後ろに続いた。階段を昇って二〇五号室の前に来る。カナメさんが今度はドアノブの下にある鍵穴に、鍵を差しこんで回した。

「さあどうぞ」

 扉を開いて押さえ、カナメさんはわたしを先に上がらせた。

「失礼します」

 わたしはそう言いながら靴を脱いで玄関に揃えた。狭い。八畳ぐらいの、これがおそらくワンルームというものなのだろう。玄関のすぐ傍にキッチンがあり、部屋もここから見えている。部屋の片隅にギターが立てかけられていて、ギターだ、とわたしは胸の中で呟いた。

 カナメさんがわたしを追いこして部屋の奥へと進んだ。部屋の真ん中には小さな低い机があって、その手前に一つ、薄い青色のクッションが置いてある。ここに座って、と言いながらカナメさんがそれを指さしたので、わたしはそこまで歩いていき、おそるおそるクッションの上に正座をした。

 わたしを見ながら、カナメさんはおかしそうに笑った。

「そんな、なにも正座しなくても」

「そ、そうですよね……」

 なんだか恥ずかしくなって、慌てて足を崩す。左にはベッドがあり、カナメさんはその真ん中あたりに腰かけた。その奥に、先程わたしの目を惹いたギターがある。それから右のほうには小さなテレビがあって、机の上にはノートパソコンと数冊の本とノート、そしてペンが散らばっている。わたしは思わずもう一度、あたりを見回した。

「どうしたの?」

「いや、キャンバスとか、ないんだなって……」

「ああ、僕は家では絵は描かないんだ」

「どうしてですか?」

「うーん、どうしてだろうねえ」

 自分でもわからないのか、それともわかっているけれど教えたくないのか、カナメさんは曖昧に笑いながら首を傾げてみせる。そして立ちあがってギターを手にとり、またベッドに腰かけた。一本ずつギターの弦を指で弾いて、時々ギターの先端にあるネジのようなものを回す。

「アリカちゃんは、楽器とかはまったく?」

「経験ないですね」

「そっか。今チューニングしてるんだ。ちょっと久しぶりだからね」

 さすがにチューニングという言葉は聞いたことがあるけれど、それとこれとがどう関係あるのか、よくわからなかった。

「えっと、その、ネジみたいなのを回すと、どうかなるんですか?」

「えっとね、これをこっちに回すと音が高くなって、反対に回すと低くなるんだ」

 そう言いながらカナメさんはネジを回した。

「六個あるでしょ。弦一本に対して一個。これを回すと弦が緩んだり、えっと……、なんていうのかな、張りつめるっていうか……」

「ああ、わかりました。そういうことですね」

 言葉を探すカナメさんに、わたしは口を挟んだ。いつか物理の授業で教わった、弦の伸び縮みと音の高低についての関連性を思いだしたから。正直、どちらが高くてどちらが低いのかをすぐには思いだせなかったけれど、それはどうでもいいことのように思えた。

 話しているうちにチューニングは終わったらしく、カナメさんは身を乗りだして、机の上にある茶色くて楕円形をした缶に手を伸ばした。そして器用に片手でその蓋を開ける。その中から、またわたしの知らないなにかを取りだして、それでギターの端のほうを挟んだ。

「これはカポタストって言うんだけど、えっと……、どう説明したらいいかな。ここをずっと押さえてる状態を作りだすんだ」

「はあ……、そうするとどうなるんですか?」

「えっとね……、難しいな。まあ、ラクになるんだ。あとは同じ曲でも、全体的な音の高さを変えられるし」

「へえ……」

 まったくなにがなんだかわからなかったが、きっとわからなくても大丈夫だろう、と思って適当に相槌を打つ。カナメさんはギターを抱えなおして、右手を少し丸めて上から下へと振った。じゃらん、と音がする。そしてカナメさんは右手を広げて、六本の弦を覆った。ぴたりと音がやむ。

「じゃあ、一曲弾かせていただきます」

 カナメさんはおどけるようにそう言ってから、すっと真顔に戻る。カナメさんの左手は弦を押さえる指を次々と変えてゆき、右手がリズミカルに上下に振られた。まったく聴いたことのない曲がゆっくりと進んでいく。カナメさんは歌う様子がなく、これは歌詞のない曲なのだろうか、それともあるけれど歌わないだけなのだろうか、とわたしはぼんやり考える。

 やがてギターの音はだんだんと小さくなり、そして消えた。カナメさんがこちらを向いて、どうかなあ、とでも言うように微笑む。

「すごい……、ギター一本でこんなにいろんな音が出るなんて、知りませんでした」

「まあ、弦が六本あるからね」

「初めて聴いたんですけど、なんていう曲なんですか?」

 カナメさんはカポタストを外しながら口を開く。

「僕の大好きな曲……、『デクレッシェンド』っていう曲なんだ。前に見せた絵のタイトルに使わせてもらっちゃった」

 そう言ってカナメさんは恥ずかしそうに微笑んだ。

「そうだ、君が知ってる曲でなにか弾けるのあるかな……。普段どんなアーティスト聴くの?」

 その曲には歌詞はないんですか、と問いかけようか迷っていると、カナメさんがそう言ってわたしの顔をのぞきこんだ。わたしがぱっと思いついたバンドの名前を挙げるとカナメさんは、そのバンドならあのバラード曲がいいかも、と呟きながらまたギターを弾きはじめた。たしかにそれはわたしが何度も聴いたことのある曲だった。けれどカナメさんはやっぱり歌わなかった。この曲には歌詞があるのに。

「歌わないんですか?」

 ギターの音がやむと、わたしは思わずそう訊ねた。

「うん、僕は歌が上手じゃないんだ。歌ってほしかった?」

「え、いや、まあせっかくなら聴いてみたかったかなって……」

 カナメさんは、そっかあ、とどこか間延びした声で答えながら、カポタストを缶に戻して蓋をして、ギターを壁際 ̶̶そこにはさっきまで気がつかなかったが、ギターを立てておくための黒い棒のようなものがあった ̶̶に立てかけた。

「そういえばアリカちゃん、万年筆は初めてって言ってたよね」

「はい」

「じゃあ、インクの入れ方教えておかないとね」

 わたしはカナメさんに促されて、鞄から万年筆の入った箱と、インクの瓶の入った箱を取りだした。箱を開けて万年筆と瓶を出し、机の上に置く。

「カートリッジっていうのを使えばすぐに書けるしラクだけど、いろんなインクを使うならコンバーターっていうのを使わなきゃいけないんだ」

 カナメさんはベッドから降りて床にあぐらをかき、机の上の万年筆を手にとる。そしてそのキャップを外してから、軸の真ん中あたりをくるくると回した。万年筆は二つに割れて、その中には透明な細い管のようなものが入っていた。

「これがコンバーター。こうやって外せるよ」

 カナメさんがコンバーターを軸から引きぬき、そしてまた元に戻す。

「こうやってつけた状態で……、インクの瓶の蓋、開けてみて」

 わたしはインクの瓶を左手に持ち、右手でその蓋を回した。そして瓶をカナメさんの手の近くに置く。

「ペン先をインクに浸して、ここを回すんだ」カナメさんがコンバーターの先端にあるネジのような部分を回すと、少しずつコンバーターの中に深い青色が入っていった。

「へえ……、すごい……」

 わたしは思わず呟く。

「インクは手につくとなかなか落ちないから、気をつけてね」

 そう言ってカナメさんは机の上にある、いろんな色の染みのついた布でペン先を拭った。そして二つに分かれていた万年筆をくるくると回して、一本に戻す。

「これで書けるようになったよ。ほら、書いてみて」

 カナメさんは万年筆をわたしに差しだして、机の上にあったノートを一冊開いてわたしの前に置いた。

「これに書いちゃっていいんですか?」

「いいよ。落書き帳みたいなものだから」

 わたしはなにを書こうかと考える。絵だろうか。いや、それは恥ずかしい。少し震える手を落ちつかせて、万年筆を持ちなおす。

 ——ありがとう。

 わたしはノートにそう書いていた。ほとんど無意識に。

「それって、僕に対して?」

 カナメさんが少しびっくりしたように言う。

「えっと、はい、あの……」

 わたしはなんだか恥ずかしくて声を詰まらせた。カナメさんが、ふふ、と笑ってわたしの手から万年筆を取る。そして今わたしが書いた言葉の下に、ペン先を走らせた。

 ——どういたしまして。

 そう書いて、カナメさんは万年筆のキャップを閉め、わたしに手渡す。

「えっと、インクの入れ方、ありがとうございました。これ、すごく書きやすいですね」

「まあ、それなりのものだからね……。いや、そんなに高いわけじゃないけどね」

 わたしは受けとった万年筆を箱に戻して、インクの瓶の蓋を閉めてそれも箱に戻す。

「カナメさんは……、いつも、万年筆を使ってるんですか? 講義のノートとかも?」

「いや、ボールペンも使うよ。そのときの気分次第」

 カナメさんの答えに少しほっとして、そうなんですね、と頷く。カナメさんは床から立ちあがって、キッチンへと移動した。

「コーヒーでも飲む?」

「はい、お願いします」

 カナメさんはコンロの上にポットを置き、コンロの火を点けて、棚からコーヒー豆を挽いた物らしき粉の入った瓶を取りだした。わたしはそこまで見届けてから、机の上に視線を戻して、カナメさんが落書き帳のようなものだと言ったノートを閉じる。それから、机の上にある数冊の本に目をやった。どれもカバーはされておらず、作品名と作者名が見えている。どの作品も作者も、わたしの知らないものだった。タイトルからすると小説のように思えたけれど、もしかしたら違うかもしれない。

「カナメさんは、本を読むのが好きなんですか?」

 わたしはなんとなく、キッチンにいるカナメさんに向かって問いかけた。

「うーん、まあ、好きかなあ。そんなに読書家ってわけじゃないけどね」

 ポットが熱されて音を立てはじめる。

「アリカちゃんは?」

「わたし本はあんまり読まないんですよね……。最近は特に、数学書ばっかりで」

「数学書? 理学部なのは知ってたけど、アリカちゃん数学科なの?」

「そうですよ」

 ポットが静かになり、それからコーヒーの香りが漂ってきた。カナメさんが、へえ、と相槌を打つ。

「どうして数学科に入ったの?」

 しばらく黙ってコーヒーを淹れていたのであろうカナメさんが、両手に一つずつマグカップを持って、ベッドに腰かけながらそう訊ねる。そして身を乗りだして片方のマグカップをわたしの前に置いた。

「どうぞ」

「ありがとうございます。えっと、数学が好きで……」

「なんで?」

 カナメさんは、ただただ不思議、といった顔でこちらを見る。

「曖昧なのが、好きじゃないんです。数学の世界って、十進数が前提なら、一足す一は必ず二になるじゃないですか」

「一足す一が二にならない世界もあるの?」

 またカナメさんは、ただただ不思議、といった顔をする。

「あー、えっと、そうなんです。普通は二ですけど、二進数の世界なら一足す一は十だし……」

 わたしはどう説明たものかと考えあぐねる。カナメさんはコーヒーを一口啜って、呟いた。

「なんだかそれなら、数学の世界もずいぶんと曖昧な気がするけどなあ」

 わたしは思わず、うう、と小さくうめいた。

「ごめんごめん、ちょっといじわるしたくなっちゃった」

 そう言ってカナメさんは楽しそうに笑った。わたしは目の前にあるマグカップを手にとって、口をつける。

「あ、ミルクとかお砂糖とか、いらなかった?」

「はい、いつもブラックで飲んでるので」

「そっか、大人だねえ」

 からかうようにそう言って、カナメさんがまたコーヒーをすすった。

「僕はね、曖昧でよくわからない人間の感情、けっこう好きだよ」

 どこか独り言のようにそう言って、カナメさんはコーヒーを二度三度とすすった。そしてわたしの顔をのぞきこむようにして黙りこむ。わたしは思わず首を傾げた。

「君は、僕を好きだと言ってくれたよね。恋愛感情かどうかは、わからないみたいだけど」

「えっと、はい……」

 改めて言われて、わたしはまごつきながら頷く。カナメさんは優しく微笑んで、言葉を続けた。

「恋愛感情かどうかわからない、そんな曖昧な感情だとしても、僕はうれしいよ」

 わたしは思わずカナメさんから目をそらして、コーヒーを一気にあおった。まだ熱いけれど、その熱がわたしの恥ずかしさを少し、打ちけしてくれるような気がした。

「僕だって、恋愛感情とはなにか、なんて訊かれても、よくわからないし」

 カナメさんはそう言って笑う。

「そう、なんですか?」

「そうだよ。そんなものだよ」

 思わず訊ねるわたしに、カナメさんはそう答えて、またこちらをじっと見た。

「うーん……」

 心底困ったような微笑みを浮かべながら、カナメさんがうめく。

「どうしたんですか?」

「いやあ、なんでもないよ……? コーヒー飲んだら帰る?」

「そうですね、あんまりお邪魔しちゃ悪いですし」

「悪くないんだけどね……、まあ、でも……」

 ごにょごにょと最後のほうが聞こえなかったので、なんですか、と問いかけたけれど、カナメさんは答えなかった。そしてコーヒーをすする。

「駅まで送るよ」

 突然そう言って、カナメさんはマグカップを机の上に置き、わたしの手にあるマグカップを覗きこむ。わたしの持っているマグカップは、もうからっぽだった。カナメさんの持っていたマグカップに目をやると、まだ半分はコーヒーが残っていた。わたしはなんとなく、それを見なかったことにした。

「はい、ありがとうございます」

 立ちあがって玄関に向かうカナメさんの後ろをついていく。玄関を出て、カナメさんが鍵を閉めて、駅のほうへと歩く。お互いに黙ったまま、あっという間に駅についた。

「じゃあ、気をつけて。今日はありがとうね」

 改札のすぐ前で、カナメさんがそう言った。わたしは財布からICカードを取りだしながら、カナメさんのほうへ少し頭を下げる。

「こちらこそ、ありがとうございました」

 わたしは改札を抜けて少し歩いて、振りかえってみた。カナメさんはまだ同じ所に立ってこちらを見ていた。どこか寂しそうに見えるのは、わたしの気のせいだろうか。わたしはふと思いたって、右手を大きく挙げて振ってみせた。カナメさんは少しびっくりしたような顔をして、それから右手を軽く振ってくれた。カナメさんの口が動いたけれど、なにを言ったのかはわからなかった。

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