11.
「今日はありがとう。東雲さん、えっと……」
駅の近くにあるレストラン——晴野さんが「お気に入りのお店」と言っていたパスタの店——の隅にあるテーブルに、晴野さんとわたしは向かいあって座っていた。晴野さんはこちらを見ながら、言葉を続けるかどうかを迷っているようだった。
「いえ、どうしました?」
「いや、えっと……、アリカちゃんって呼んでも、いいかな?」
続きを促すと晴野さんは少し心配そうな顔でそう問いかけてくる。
「もちろんです。じゃあ、わたしは……、カナメさんって呼んでもいいですか?」
「うん、むしろそれが嬉しいな」
カナメさんはぱっと顔を明るくして頷いた。
それからテーブルの真ん中に置いてあったメニューを開き、こちらへ向ける。
「好きなの選んで」
「うーん、カナメさんはなんにするんですか?」
「僕はカルボナーラ。いつもここではカルボナーラを食べてるんだ」
そう言ってカナメさんはメニューの下のほうに書かれている「カルボナーラ」という文字を指さした。
「じゃあ、わたしもそれにします」
「いいの? 他にもいろいろあるし、ゆっくり選んでいいんだよ?」
「いいんです、わたしもここのカルボナーラを食べてみたいです」
そっか、と言ってカナメさんはメニューをテーブルの端に置き、近くのテーブルを拭いていた店員のほうに向かって少し手を挙げた。
「はい、お決まりでしょうか?」
「カルボナーラを二つ、お願いします」
店員がやって来て訊ね、カナメさんがそれに答える。
「お飲みものはどうされますか?」
カナメさんが、しまった、というような顔をする。
「すみません、すっかり忘れてました……。アイスコーヒーと……、アリカちゃんはなにがいい?」
店員からわたしへと視線を滑らせて、カナメさんがまたメニューに手をのばす。
「わたしもアイスコーヒーで」
「承知しました」
店員が去っていくと、カナメさんが不安そうに口を開いた。
「よかったの? ごめんね、先に訊いておけばよかった……」
「いいんですよ、わたしコーヒー好きですから」
答えながらわたしは、自主性のない人だ、と思われていたらどうしようかと少し心配する。パスタも飲みものも、カナメさんとは違うものを自分で選ぶべきだっただろうか。けれどそれ以上に、カナメさんがいつも食べていつも飲んでいるものの味を知りたいと思っていたのだ、ということに気づく。
「まあ、それならいいんだけど……。そういえば、アリカちゃんは一人暮らし?」
「いえ、実家にいます。カナメさんは?」
「僕は一人暮らしだよ。けっこうな田舎から出てきたからね」
カナメさんはそう言うと、鞄の中から青い包みを二つ取りだした。
「まだちょっと早いけど、お誕生日おめでとう。これ、プレゼント」
テーブルの上に青い直方体と立方体が並べられる。
「ありがとうございます……! わたしの誕生日、覚えててくれたんですね」
わたしは青い包装紙に包まれた二つの箱を手にとってみた。
「もちろんだよ」
「これ、今開けてもいいですか?」
「うん。気に入ってもらえるか、わからないけど……」
はやる気持ちを抑えて、まず直方体の包装紙を丁寧に剥がしてみる。中から出てきたのは黒い箱だった。箱を開けると、そこには深い青色のペンが一本入っていた。
「アイスコーヒーです」
「あ、ありがとうございます」
先程と同じ店員がトレイにアイスコーヒーの入ったグラスを二つ乗せて、テーブルの傍に立っていた。カナメさんが礼を言うと、店員はにっこり笑ってグラスを二つテーブルの上へ移動させて、また立ちさっていった。
わたしは手元の箱の中のペンに視線を戻す。
「それ、万年筆だよ。持ってるかもしれないけど……」
「いえ、万年筆なんて初めてです」
「そっか。万年筆で落書きっていうのもなかなか楽しいよ。よかったら使ってみて」
「ありがとうございます」
初めて目にした万年筆をおそるおそる手にとって、まじまじと見つめる。ふと、軸の端のほうに「A.S」と刻まれていることに気づいた。
「これ……、もしかして、わたしのイニシャルですか?」
「そうだよ。えっと……、余計なお世話だったらごめんね?」
「どんでもないです、すごくうれしいです」
わたしの答えにカナメさんは、ほっとしたように笑う。万年筆を箱に戻し、その箱を閉じてテーブルの脇へやり、もう一つの青い包みを手にとってみる。
「そっちはインク」
ゆっくり包装紙を剥がすと、紙でできた箱が出てきた。箱を開けてその中にあった小さな瓶を取りだしてみる。瓶の中には、こちらもまた深い青色の液体が入っていた。
「青が好きなのかなって思って……」
カナメさんが照れるように言ったので、いつか「青が好きなの?」と訊かれたことを思いだした。そういえば、そのときわたしはなんと答えたのだろう。脳裏にカナメさんの描いていた青いひまわりの絵が浮かんでいたことは覚えているのに、自分がどう答えたのかは思いだせない。
「はい、青、好きです」
ほんとうは、それほど青が好きというわけではなかった。いや……、今は好きだ。カナメさんの描いていた青いひまわりを見たあのときから、わたしは青という色に強く惹かれるようになった。それを打ちあけたら、カナメさんはどんな反応をするだろうか。気にはなるけれど、やっぱり恥ずかしくて言えない。
「よかった」
カナメさんはほっとしたように微笑む。
「綺麗ですね、この青……。なんか、深くて」
「深海、って感じじゃない? 僕はその色、海みたいだなあって思って」
改めて万年筆を眺めながらわたしが言うと、カナメさんは楽しげにそう答えた。海……。
そうだ、海に行きたい。カナメさんと一緒に、海に行きたい……。わたしはぼんやりと、そんなことを考えた。
カナメさんがわたしではないどこかに目を向けて、あっ、というような顔をした。振りかえると店員がトレイを持ってすぐ傍までやって来ていた。とりあえずわたしは瓶を箱に戻して、テーブルの端に置く。
「お待たせいたしました。カルボナーラ二つです。ご注文はお揃いですか?」
パスタの盛られた皿をテーブルの上に置いて、店員がにっこりと笑う。
「はい、ありがとうございます」
カナメさんが答えると店員は、ごゆっくりどうぞ、と言いのこして立ちさっていった。
「じゃあ、食べようか」
フォークを手にとってカナメさんが微笑んだ。
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