10.

 わたしは描きかけの「ゲシュタルト崩壊」と題した絵に、空色をじわじわと足していた。雲のない快晴の空。けれど一色で全体を塗りつぶすだけではつまらないように思えて、ほんの少しずつ色味を変えながら、空色を広げていく。背後に時折視線を感じたけれど、きっと気のせいだ、と自分に言いきかせながら。

 今この部屋にいるのは窓際のキャンバスに向かっているわたしと、おそらく中央の机に向かっているであろう晴野さんだけだ。わたしがこの部屋に足を踏みいれたとき、晴野さんは椅子に座って机の上で水彩画を描いているようだったから。

「えっと……、東雲さん」

 急に晴野さんの声が後ろから飛んできたのでわたしはびっくりして、はい、と裏返った声で答えてしまった。

「あ、急にごめんね」

「いえ、大丈夫です……」

 なんだか心の底から申し訳なさそうに言われて、謝られても困ります、と心の中でつけくわえてしまう。むしろこちらこそごめんなさい、という気持ちになった。

「それで、なんでしょうか?」

「えっと……、土曜日、暇かな?」

「はい、今のところ特に用事はないですね」

 わたしは体を反転させた。後ろから話しかけられながら絵を描くような器用さは、どうやらわたしにはないようだった。かと言ってわざわざ椅子に座るのもなんだかためらわれたので、とりあえず体だけ晴野さんのほうへ向けて、立ったまま答える。

「そっか……、えっとね」

 晴野さんはわたしの顔を見ながらそう言って、いったん言葉を区切った。

「もしよかったら、一緒にランチとか、どうかな……? ちょっと、相談したいことがあって……」

「もちろんいいですよ。わたしでよければ喜んで」

 予想外の誘いに、わたしの胸は勝手に弾んだ。晴野さんはほっとしたように笑う。

「よかった。駅前にお気に入りのお店があるんだけど、パスタは好き?」

「好きですよ」

「じゃあ、そこにしようかな。また連絡するから……、連絡先を訊いてもいい?」

 わたしは、もちろんですよ、と答えて筆とパレットを机の上に置き、椅子に座ってジーンズのポケットから携帯電話を取りだした。晴野さんの手の中にはすでに携帯電話があったので、とりあえずわたしは自分の携帯電話の番号を口に出して伝える。晴野さんがそれを打ちこんで、ありがとう、と言う。

「じゃあ……、あ、電話かけたほうが早いか」

 そう言って晴野さんが携帯電話の画面に触れると、わたしの携帯電話がほんの少しの間だけ震えた。着信履歴の一番新しいものを連絡先に追加して「晴野カナメ」と打ちこみ、「追加」のボタンに触れる。

「連絡待ってますね」

 わたしの言葉に晴野さんは頷き、携帯電話をしまった。わたしも自分の携帯電話をポケットの中に戻して、筆とパレットを手にとって立ちあがる。キャンバスに向きなおり空色を広げようとして、筆を持つ手が少し震えていることに気づいた。


 抽斗を開けて、手前の右側の隅にある、星座の描かれた包装紙にくるまれた箱を眺める。晴野さんの誕生日はまだまだ先だというのに、わたしはどうしてもうプレゼントを用意しているのだろう、と自分に呆れる。それから、晴野さんは喜んでくれるだろうか、という期待と不安の入りまじった気持ちを胸のうちにもてあそんだ。

 抽斗の真ん中にあるノートを取りだして開く。昨日書いた日記の下に、今日の日付を書きこんだ。そしてさっきから頭の中にあった「晴野さんにランチに誘われた」という文章を、なるべく丁寧に、と思いながらも結局はいつものように走り書きした。相談があると言われたこと、携帯電話の番号を教えあったこと。

 机の上に置いていた携帯電話が鳴ったので、右手にボールペンを持ったまま、左手でそれを手にとった。画面には「晴野カナメ」と表示されている。わたしは通話のボタンに触れた。

「はい、もしもし?」

「ああ、ごめんね、土曜日のこと、時間決めてなかったなって思いだして」

 初めて電話越しに聞く晴野さんの声は、少し強張っているように感じられた。

「いつも、お昼ご飯は何時頃に食べてる?」

「日によってまちまちですね……。晴野さんの都合でいいですよ」

 そっか、と晴野さんは呟いて、少しのあいだ黙った。

「じゃあ、十一時半でいいかな」

「はい」

「駅の北口で待ちあわせでいい?」

「大丈夫ですよ」

「じゃあ、十一時半に北口で」

 わたしが、はい、と答えると晴野さんはまた少し黙った。楽しみにしてますね、と言おうかどうか迷っていると、晴野さんが口を開いた。

「楽しみにしてるね」

 はい、と答える自分の声が少し裏返っていた。言おうと思っていたことを先に言われてびっくりしてしまったことが、電話越しに伝わってしまうのではないか、となぜか不安になる。

「じゃあね」

 そう言われてわたしは携帯電話を耳から離し、画面を見てみる。まだ通話は切れていなくて、きっと晴野さんはこちらが通話を切るのを待つのだろう、とわかった。わたしはなんだか名残惜しいような気持ちで、通話を終了させるボタンに触れる。

 ノートに新しく「夜、晴野さんから電話があった」と書きくわえる。それから手帳を取りだし、次の土曜日の欄に「十一時半、北口」とメモした。そして、もうすぐわたしは誕生日を迎えて、やっと十九歳になるのだ、ということを思いだす。そういえば晴野さんは何歳なのだろう。大学三回生なのだからおそらくは二つ上の二十歳だろう。けれど、浪人しているかもしれないから、確実にそうだとは言いきれない。晴野さんの穏やかな微笑みを思いだしてみる。少なくとも二十歳は超えているはずで、だとしたら「大人」なのだろうか。

 いや、誰だって二十歳になったその日から突然大人になるわけではない。そう思いなおしてわたしはかぶりを振った。そもそも、どうしてわたしは晴野さんの年齢など気にしているのだろうか。

 わたしはノートを抽斗の中へ、手帳を鞄の中へとしまい、部屋の明かりを落としてベッドの上に身を横たえた。まだ眠るには早いけれど、なぜだが一刻もはやく眠りたかった。目を閉じて、なにも考えない、なにも考えない、と頭の中で呟く。それに反して晴野さんの微笑みや青いひまわり、そしてほんの少しだけ指先が触れたときの感触が脳裏に浮かんでは消えていった。

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