5.
抽斗の中から日記帳がわりのノートを取りだして開き、ボールペンを手にとる。なんとなく今日は丁寧に書きたいと思って、箇条書きではなくて文章で、今日あった出来事を書きつけていった。書きながら、今日初めて会った佐々木さん、林さん、そして川口さんの顔を順番に思いかえす。三人はどんな絵を描くのだろう。そしてわたしはこれから、どんな絵を描くのだろう。
ノートを閉じて抽斗の中へとしまい、机の上に置きっぱなしの小さなスケッチブックを手にとった。ぱらぱらと、これまでに描いた落書きを見返す。こんな落書きしかしたことのないわたしが美術サークルなどに入ってよかったのだろうか、とまた少し不安を覚える。けれど晴野さんは、初心者でも大歓迎だよ、と言ってくれた。なにより、わたしも晴野さんの描いていた「砕けないで」——あの、触れたら壊れてしまいそうな、儚い青い色のひまわり——のような、なにか美しいものを、わたしも描いてみたいと思った。
三谷先生が黒板に数式を連ねていくのをぼんやりと眺めながら、なにを描いてみようか、と考える。今日はこの講義が終われば、六限の法律の講義までは他になにもない。今までは学内の図書館へ行って落書きをしたり、たまに本を読んだりして過ごしていたけれど、これからは美術サークルに参加する時間にあてるのがいいかもしれない。
三谷先生の講義が終わるまでの時間はとてもとても長く感じられた。やがてチャイムが鳴り、三谷先生はいつものように、それでは、と言って教室を出ていった。そして最前列に座っていた学生が立ちあがって黒板に書かれた数式を消しはじめる。わたしはテキストとノートとペンケースを鞄にしまった。
「ちょっとずつ難しくなってきたね」
後ろから飛んできた声に振りかえると、ホツエが少し眉をひそめていた。
「そう……、だね」
わたしは、そうかなあ、と言いかけたのを慌てて言いかえた。
「はあ……、倫理行ってくるね」
ホツエは溜息をついて立ちあがった。
「わたしは講義ないから、部室行ってみる」
わたしがそう言うと、ホツエはにっこりと、ナイスアイディア、と笑った。
ホツエとわたしは一緒に教室を出て、そこで左と右へわかれた。わたしは部室へ向かいながら、なにを描こうか、とまた考える。
なにも思いつかないまま部室にたどりついてしまう。しかたなく扉を開くと、部屋の中には晴野さんがいた。
「こんにちは」
わたしがそう声をかけながら部屋の後ろにある棚へと近づいていくと晴野さんは、やあ、と少し間延びした声で答える。わたしは棚から箱を取って、部屋の中央の机まで持ってきて、箱を開けた。
「そうだ、水張りのやり方、教えとこうか?」
「お願いします」
晴野さんは部屋の後ろの棚へ近寄り、端のほうにある厚い木の板を手にとる。そして机へと戻ってきて、机の上に置かれていた薄くて青い板のようなものに手をかけて、開いた。青いと思っていたのはどうやら表紙のようで、それを開いた中には白い画用紙らしきものが見える。
「もしかしてこういうのも初めて見るかな? これ、水彩用の紙を、四辺とも糊付けしてあるんだ」
わたしは晴野さんの説明を聞きながら、それをまじまじと見つめた。
「つまり……、何枚もの紙の塊、ってことですか?」
そう訊ねると晴野さんは、そうそう、と頷く。
「ここ、ほら、ここだけ少し糊付けされてない部分があって、ここにカッターナイフとか入れて、一枚ずつ剥がせるんだよ」
そう言って晴野さんは紙の塊の間に指を少し差しいれるようにして、隙間を作ってみせた。
「こうやって糊付けしてあるタイプは水張りしなくてもそんなに波うたないんだけどね。普通は糊付けされた状態のまま絵を描いて、描きおわってしっかり乾いてから、その絵を切りはなすんだ」
わたしは、そうなんですか、と相槌を打つ。晴野さんは机の上にあったカッターナイフを手にとって、優しい手つきで紙の塊から一枚を少しずつ剥がしてゆく。
「でも僕はやっぱり、水張りしてから描きたいんだよね」
晴野さんは剥がした一枚の紙を、先ほど持ってきた厚い木の板の上の真ん中に置いた。それから机の上に置かれていた筆洗器を取りあげる。
「ちょっと、水を汲んでくるね」
そう言って晴野さんは、筆洗器を手に部屋を出ていった。わたしはそっと窓際へ目を走らせ、右端にある青いひまわりの絵を眺める。
前に見たときよりもさらに儚くなっているような気がした。
それから、他のキャンバスにも目を向けてみる。青いひまわりの左隣のキャンバスには風景画のようなものが描かれていて、さらにその左のキャンバスには抽象画のようなものが描かれている。わたしはまた晴野さんの描いていた「砕けないで」に目をやった。
壊したい……。
わたしはなぜだか、そんなことを思った。あの硝子細工のようなひまわりにこの手で触れて、ばらばらにしてしまいたい。それから、そんな思いを抱いた自分自身に対して、戸惑いを覚える。
扉が開いて、晴野さんが部屋に入ってくる。
「お待たせ」
わたしは、はい、と頷いた。晴野さんはわたしの近くへ来て、水の入った筆洗器を机の上に置いた。そして机の中央にある何本もの筆の入った瓶から、毛幅の広い筆を取って、その毛先を水につけた。
「あ、テープのこと忘れてた……。東雲さん、ちょっとこの筆持ってて」
わたしは手を伸ばして晴野さんの手から筆を受けとった。指先が少しだけ晴野さんの手に触れて、なぜかわたしは少しどぎまぎしてしまう。晴野さんは部屋の後ろへ歩いていって箱を一つ開け、その中から白いテープを取りだした。そしてこちらへ戻ってきて、テープを少し伸ばして木の板の上で紙に沿わせ、紙の幅より少し長めに切った。
「これ、水張りに使うテープだよ。なんて言うのかなあ、切手みたいに、水に濡れると貼りつくようになるんだ。これを四つの辺に合わせて四本ね」
そう言いながら晴野さんは同じ作業をあと三回、繰りかえした。切られたテープは机の上で、今まで巻かれていたせいだろう、反りかえっている。
「じゃあ、その筆ちょうだい」
わたしはさっき晴野さんから受けとった筆を手渡す。晴野さんはその筆を、板に乗せた紙の上に滑らせた。何度か筆を水につけて、紙全体を濡らしていく。紙全体に水が行きわたると、机の端にある布で筆先を拭いて、机の中央にある瓶へと戻した。そして今度はそこから、細めの筆を手にとる。
「紙を濡らしたら、今度は水張りのテープの糊になってるほうを濡らして、それで紙の端を板に貼りつけるんだ」
そう言いながら筆を水につけ、一枚のテープの片面を濡らして紙の一辺に沿わせ、左から右へと指でなぞった。
「こんな感じ。これを四辺ともね」
晴野さんは同じ作業をもう三回、繰りかえした。
「はい、あとはこれを乾かして絵を描くんだ」
「へえ……。あれ、絵を描きおわったらどうするんですか? 板ごと作品、ってことになるんですか?」
わたしが問いかけると晴野さんは、あはは、と優しく笑った。
「そうじゃないよ。テープの少し内側に沿ってカッターナイフで切りとって、で、板はまた次の水張りに使うんだ」
「ああ、なるほど……」
晴野さんの答えに、わたしは少し恥ずかしさを覚えつつ頷いた。
「それでまあ、乾くのには時間がかかるからさ、一個もう水張りして乾かしたのを用意してあるんだ。東雲さんが来たとき用にと思ってね」
「え、ありがとうございます……」
「でもちょうどよかったよ、今日来てくれて。僕もたまたまこの時間は講義がないからさ」
そう言いながら晴野さんは部屋の後ろの棚へと歩いていき、木の板を手に戻ってきた。確かにその板には、紙が四辺をテープで貼られていた。
「これに水彩で好きな絵を描いてみて」
はい、と答えながら部屋の後ろへと歩いていって、棚から箱を一つ手にとる。机まで戻ってきて、箱の中から水彩絵の具のチューブの入った箱とパレットを取りだして机の上に並べた。水を汲んでこようと思って筆洗器に手をかけると、晴野さんが口を開いた。
「ああ、そっち使っていいよ」
晴野さんは、先ほど水張りをするために使った筆洗器を指さす。
「ありがとうございます」
わたしは瓶から筆を一本取って、椅子に座った。絵の具の箱を開けると、青いラベルがぱっと目についた。
その、青い絵の具のチューブに手をのばす。自分の指が少し震えていることに気づいて、いったいどうしてだろう、と考える。
「久しぶりに絵の具を使うので……、なんか、緊張します……」
なにを訊かれたわけでもないのに、言い訳をするよにわたしは口を開いた。晴野さんは、気にしなくていいのに、とどこかおもしろそうに言った。わたしはパレットの上に青い絵の具を少し出して、筆に水を含ませてそれを薄める。
なにを描けばいいんだろう。
やっぱりなにも思いつかない。水張りされた紙の上に、青い絵の具——いや、うっすら青く色づいた水——を広げる。ね、波打たないでしょう、と言われて、そうですね、と答えたものの、わたしの頭の中は目の前に広がる薄い青とはうってかわって真っ白だった。
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