6.
「駅の近くにある美術館、知ってる?」
「まあ、はい……。行ったことはないんですけど……」
晴野さんに問われてわたしは答える。
「冬に、そこでコンテストがあるんだ。いろんな大学のサークルの人とか、アマチュアの絵描きさんとかが出展するんだよ。東雲さんも出してみない?」
「そうですね……、頑張ってみたいです」
うんうん、と晴野さんはにっこり笑う。
「そんなに難しく考えることはないからね。水彩でも油彩でもいいし、色鉛筆とかクレヨンとかだっていいんだよ。要するになんでもあり」
「へえ、そうなんですね」
「うちのサークルメンバーは、だいたいみんな毎年このコンテストに絵を出すんだ」
わたしはまた、そうなんですね、と繰りかえす。
「テーマとかもないから、自由に描けるよ。それで、佳作以上に選ばれたら、二ヶ月くらい美術館に展示してもらえるんだ」
晴野さんが言いおわるとほぼ同時に扉が開いて、佐々木さんが部屋に入ってきた。そして、やっほー、と明るく言う。
「佐々木さんも美術館のコンテスト、出すよね?」
晴野さんが問いかけると、佐々木さんは頷く。
「出すよ、まだ描きはじめてないけど! アリカちゃんは?」
「挑戦してみようかなって思ってます」
そっかそっか、と頷きながら佐々木さんは部屋の後ろにある棚へ近づく。そしてはたと立ちどまり、こちらをむいて口を開いた。
「そういえばアリカちゃん、油彩はまだ?」
「まだやったことないですね」
「じゃあ私が教えてあげる!」
佐々木さんはそう言って、箱を一つ手にとって机の近くへ来る。
「あ、ありがとうございます……。でも、難しいんじゃないですか……?」
わたしはおずおずと不安を口にした。
「水彩とそんなに変わらないよ?」
カナメさんが机の上から白い板のようなものを一つ手に取り、椅子を引いてわたしに手招きをした。わたしはそろそろと椅子に腰かける。
「油彩は紙じゃなくてキャンバスとか、あとは木の板とかに描くんだ」
そう言いながら晴野さんがわたしの左隣の椅子に座って、手に持っている白い板のようなものを少し持ちあげてみせる。佐々木さんがわたしの右隣の椅子に腰をおろした。
「キャンバスって、あれですよね。イーゼルに立てかけてある……。イーゼルっていう名前は、まあ、つい最近知ったんですけど」
わたしはそう言いながら、窓際に並ぶキャンバスを指さした。
「もちろんあれもキャンバスだけど、キャンバスもいろいろサイズがあるんだ」
晴野さんがそう言って、机の上、わたしのすぐ前に白い板のようなものをそっと置いた。
「それも小さいけどキャンバスなんだよ」
佐々木さんがそう言いながら、画材を机の上に並べる。
「いきなり大きいキャンバスだと緊張するでしょ? というわけで、これが東雲さんの初めてのキャンバスだね」
晴野さんはそう言って、一度は置いたその白い板のようなものをまた手にとり、わたしのほうへと差しだした。わたしはそれを受けとって、じっと見つめてみる。表面は布のようにざらついていて、裏返してみると釘のようなものがいくつか並んでいた。木の板に布を打ちつけてあるようだ。
「ありがとうございます。キャンバスって、必ずイーゼルとセットなのかと思ってました」
わたしの言葉に晴野さんが笑う。
「僕も昔はそう思ってたよ。あ、小さいキャンバス用の小さいイーゼルもあるけどね。卓上で使うやつ」
「へえ……」
「でもあれは飾り用って感じだよね。これくらいのサイズなら机の上に置いたほうが描きやすいよ」
頷くわたしに、佐々木さんが言った。
「これが油彩の絵の具。まあ、べつにぱっと見は水彩と同じでしょ?」
そう言って佐々木さんが開けた箱の中には、絵の具のチューブが並んでいた。確かにそれは、水彩絵の具のチューブと特に変わらないように見えた。
「でもね、油彩はほんとうに落ちないから、服につかないように気をつけてね」
佐々木さんは言葉を続けながら、黄色がかった液体の入った瓶を掲げる。
「これがペンチングオイル。油彩の絵の具は水じゃなくてオイルで薄めるんだよ」
そう言って佐々木さんは、空き瓶の中へオイルを少し移した。
「で、これが油彩用のパレット」
晴野さんが楕円のような形の木の板を持ちあげる。
「これ、パレットだったんですね」
「うん、これはちょっと水彩とは違うよね。この穴に親指を通して持つんだよ」
そう言って晴野さんはパレットの端に空いた穴に左手の親指を通して、パレットを持ってみせた。それから一度パレットを机に置く。
「この端っこのほうに、何色か出しておくんだ」
そう言って晴野さんは絵の具のチューブを順番に手にとって、いろいろな色を少しずつパレットの端のほうに出していく。
「で、真ん中のほうの空いたスペースで色を混ぜるの」
佐々木さんが晴野さんの言葉に続けるようにして、言った。晴野さんは机の中央にある瓶から筆を一本取った。
「とりあえずまあ、難しく考えずに、適当に好きな色をすくってキャンバスに乗せてみてよ」
わたしは筆とパレットを受けとり、小さなキャンバスと向きあう。パレットの上の青い色の絵の具が、わたしの目を惹く。筆先で青い絵の具をすくいとり、おそるおそるキャンバスの中央に触れさせて、滑らせてみた。少しがさっとした感触が手に伝わる。
「青が好きなの?」
晴野さんがどこか楽しげにそう訊ねる。わたしの脳裏には、ぱっと青いひまわりの絵がよみがえった。なぜかわたしはそのことを、晴野さんに知られたくない、と思った。
「そうですね、まあ……」
言葉を濁して、わたしはパレットの上で青い絵の具と黒い絵の具を混ぜてみた。そしてその色を、キャンバスに乗せてみる。
「キャンバスはいっぱいあるから、遠慮せずにどんどん使っていいよ。なにを描くわけでもなく色を乗せるだけでも、けっこう楽しいでしょ?」
晴野さんの言葉にわたしは、はい、と頷いた。
「なんか、感触が不思議な感じでおもしろいです」
「私も初めて油彩やったときは、がさがさするのが楽しくてキャンバス一面塗り潰したことあるよ」
佐々木さんがそう言って笑う。扉が開いたのでそちらに目をやると、林さんが入ってくるところだった。
「こんにちは」
そう声をかけると林さんは、どうも、と低く呟いて、教室の後ろにある棚のほうへと歩く。
「ユウもコンテスト出す?」
「まあ、そのつもり」
晴野さんの問いに、林さんはそっけなく答える。棚から箱を一つ手にとってわたしたちの近くにやって来て、机の上に画材を並べていく。
「なに描いてんの」
「えっと、なにっていうわけでもなく……」
大して興味もなさそうに訊く林さんに、わたしはなんとなく恥ずかしさを覚えながら答えた。
「油彩のやり方教えてあげてたの」
「ああ、そう」
佐々木さんの言葉に、林さんはやはり興味なさそうに頷く。そして油彩用のパレット ̶ ̶その上にはいろんな色の絵の具がこびりついていた ̶̶の上に絵の具を出していく。林さんはそれを左手に持ち、右手に筆を取って、窓際のキャンバスの前に立った。そのキャンバスには、抽象画のようなものが描かれている。
「それって、なんの絵なんですか?」
「さあ?」
わたしが訊ねると、林さんこちらに背を向けたまま肩をすくめてみせた。
「俺にもわかんねえよ。適当に色乗せてるだけ」
林さんはそう言って、キャンバスに筆を走らせはじめた。
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