3.

 わたしは夕飯を食べおえて自室へ戻り、机の前の椅子に座った。抽斗を開けて、その中から日記帳として使っているノートを取りだし、机の上に置いてあるボールペンを手にとる。そして、ノートを開いてボールペンを走らせる。

 ホツエが三谷先生の講義に遅刻してきて、三谷先生に小言を言われたこと。ホツエが三谷先生に謝りにいく(というよりは、どうして名前を知っているのかを訊きにいく)のについて行ったこと。そして、三谷先生が一度見たものや聞いたものを決して忘れないということ。ホツエから美術サークルの見学に誘われたこと。

 そんなことをつらつらと、日記と言えるのかよくわからない箇条書きで記していく。

 一度見たものや聞いたものを決して忘れることがないというのは、いったいどんな感じなのだろう。つらい記憶も決して忘れることができないのだろうか。


「ここが美術サークルで使ってる部屋だよ。みんな部室って呼んでるけどね」

 シズエがそう言いながら、窓を少しずつ開ける。小さめの教室の中央には机があり、その周りにいくつか椅子が置かれている。机の上には画材であろうものが雑多に置かれていた。描きかけの絵のようなものもいくつかある。教室の後ろには棚があって、そこにはいくつもの箱が並んでいる。そして窓際には大きなキャンバスが並んでいた。

「ああ、それね、イーゼルにキャンバスを立てかけてあるの。油彩をするための」

 わたしがキャンバスに目を向けていると、ホツエがそう教えてくれた。

「イーゼル?」

「うん、ほら、棒みたいなのがあるでしょ。キャンバスを斜めにしてちょうどいい高さに置くために支えてるあの棒、イーゼルって言うんだよ」

「へえ……、たしかに、なんか聞いたことあるような気もする」

 わたしは右端にあるキャンバスに描かれた、青いひまわりの絵にふと目を奪われた。今にも崩れてしまいそうな、儚い色。

「晴野先輩来ないねえ」

 ホツエはそう呟いて腕時計に目を落としていた。

「あのね、アリカ、申し訳ないんだけど私たち、さっき急用ができちゃってさ」

 シズエが言う。

「もう行かなきゃだから、ここで晴野先輩待っててくれる? アリカが来るのは伝えてあるから」

「うん、いいよ。行ってらっしゃい」

「ありがとう、ごめんね! じゃあ行こう、ホツエ」

 ホツエとシズエは慌ただしく部屋を出ていき、わたしは一人「部室」に取りのこされた。さっき気になったキャンバスに、そろそろと近づいてみる。

 草むらから生える一輪のひまわり。硝子細工のような、透きとおった青い色の、ひまわり。それはキャンバスに触れたら崩れてしまうんじゃないかと思えるほどに、儚げだった。

 どうすればこんなに美しい色を描くことができるのだろう。

 さっきホツエは、これを油彩だと言っていた。油彩なんて触ったこともない。水彩絵の具は持っているけれど、それもほとんど使ったことはなかった。それこそ学校の美術の授業で何度か使っただけだ。いまさら、わたしのような初心者がこんなところに来てよかったのだろうか、と不安になる。

「どう思う?」

 突然背後から聞こえた声に、わたしはびっくりして慌てて振りかえった。そこにはすらりと背の高い人が立っていた。茶色がかった短い髪が、窓から吹きこんだ風に少しだけ揺れる。

「もしかして僕が入ってきたの気づかなかった?」

「あ、はい、すみません……」

 わたしはしどろもどろに答える。

「謝らなくていいよ。で、その絵どうかな? 僕が描いたんだけど」

 その人は少し恥ずかしそうに、笑いながら言った。

「すごく……、好きです……」

 わたしは回らない頭でとっさに答えてしまってから、自分に落胆した。もっと他になにかあるだろう……、と。

「ありがとう、うれしいよ」

 けれどその人はほんとうにうれしそうに、そう言った。

「君が東雲アリカさん?」

「そうです」

「来てくれてありがとう。僕は晴野カナメ。この美術サークルの副部長」

「そうなんですね、よろしくお願いします」

「白崎さんたちと一緒に来るのかと思ってたけど」

 晴野さんは少し不思議そうにそう言った。

「さっきまでここに二人ともいたんですけど、急用があるからごめん、って言って帰っちゃいました」

「そっか、とりあえず見学って話だから、そうだな……、僕が絵を描くところでも見てもらおうかな。他の部員もいればよかったんだけどねえ」

 晴野さんはそう言いながら、部屋の後ろにある棚へと歩いていき、箱を一つ手にとった。そしてその箱の中から、絵の具のチューブが入っているのであろう箱とパレット、筆、そして透明な空き瓶と液体の入った瓶を取りだした。画材を机の上に置き、液体の入った瓶を持ちあげる。

「油彩ってやったことある?」

「いえ、まったく……」

 わたしが答えると晴野さんは、そっかそっか、と頷いた。

「ちょっと、オイルを出すから、においがするかも」

 そう言って晴野さんは液体の入った瓶と空き瓶の蓋を開けて、瓶から瓶へと少しだけ、うっすら黄色がかった液体を移した。なんだか不思議な香りがする。甘くないのに甘いような、初めて嗅ぐはずなのにどこか懐かしいような。

「これは今、油彩で描いてるんだけど、油彩の絵の具は水じゃなくてオイルを使って薄めるんだ」

 説明を聞きながら、わたしはまた晴野さんのキャンバスを眺める。わたしもこのサークルに入って絵の練習をすれば、こんなふうに美しい絵を描けるように、なれるのだろうか。

「描いてるところを人に見てもらうっていうのも、ちょっと恥ずかしいけど……」

 そう言って晴野さんは微笑む。そして絵の具のチューブを箱から取りだして、楕円形の木の板の上に青い色と白い色を出した。それから筆をオイルにつけて、ふたつの色をそっとかき混ぜる。青と白は、あっという間に空色に変わった。そして晴野さんは、筆をキャンバスの上に置いた。ぽんぽんと軽く叩くかのように、筆を動かす。ひまわりが少しずつ、透明感を増していく。

「この絵のタイトル、なんだと思う?」

 筆を動かしながら、晴野さんが訊ねた。

「タイトルですか……、『硝子のひまわり』とか……?」

「硝子みたいに、見える?」

「はい……、硝子細工みたいだなって、思って……。すみません」

 わたしはなんとなく気まずいような気持ちになりながら、そっと謝罪の言葉を付けたす。

「なんで謝るのさ。僕の狙いどおりでうれしいよ」

 晴野さんはそう言って、こちらに顔を向けて優しく微笑んだ。そしてその表情に、わたしはほっと胸を撫でおろす。

「それで、タイトルはなんなんですか?」

「『砕けないで』だよ」

 わたしが問いかけると、晴野さんは少し恥ずかしそうにそう答えた。

「『砕けないで』ですか……、素敵なタイトルですね」

「ありがとう」

 それからしばらく、晴野さんは黙ったまま筆を動かした。ときどき筆をオイルにつけ、新しい空色を木の板の上で作りだし、そしてその色をひまわりに乗せていく。

「東雲さんは水彩派かな?」

 ふいに晴野さんが筆を動かしながら声を発した。

「いえ……、水彩も美術の授業で少しやったぐらいで……、わたしはその、落書きばっかりで、なんというか、ちゃんとした絵って授業以外で描いたことなくて……」

 わたしは少し恥ずかしさを覚えながら答える。

「そうなんだ。初心者でも大歓迎だよ? せっかく絵を描くのが好きなら、水彩も油彩もやってみるだけやってみたらいいと思うんだ。ここならいくらでも画材があるからさ、ぜひ入りなよ」

「えっと、はい、ありがとうございます……」

 わたしが迷いながらも答えると、晴野さんは満足そうに頷きながら、また新しい空色を作った。キャンバスの中のひまわりは、透明感とともに儚さをも増していく。ときどき窓から吹きこむ風に晴野さんの髪が揺れて、わたしはそれに少しだけ見入った。

「こんなもんかなあ」

 ふと晴野さんはそう呟いて、筆を机の上に置いてこちらを向く。

「すごいです、さっきもすごく素敵だったけど、もっともっと素敵になってますね……」

 わたしはどこか興奮を覚えながら、青いひまわりと晴野さんとに、交互に視線を走らせた。

「ありがとう。で、どうする? 入部してみる? もし飽きちゃったり嫌になっちゃったりしたら、いつでもやめていいからさ」

「はい……、ぜひ入部したいです」

 わたしの中にあった迷いはもはや消えていた。

「それはうれしいな。じゃあ、部員がみんな集まることってほとんどないから、今度の月曜日の六限が終わってから顔合わせにしようかな。大丈夫?」

「はい、大丈夫です。よろしくお願いします」

「うん、他の部員には僕から声をかけておくから」

「ありがとうございます」

 晴野さんはにっこり笑って、机の上の画材を箱の中へと戻しはじめた。

「じゃあ、今日はお開きにしようか。ほんとうは他にも何人かいるときに見学してもらったほうがよかったとは思うんだけど、ごめんね」

「いえ……、大丈夫です」

 わたしがそう言うと、晴野さんはまた微笑んだ。

「それじゃあ、気をつけて帰ってね」

「はい、今日はありがとうございました。これからよろしくお願いします」

「こちらこそ。君と一緒に絵を描けるの、楽しみにしてるよ」

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