2.

「覚えてますか、高校でやったでしょう?」

 そう言って三谷先生はチョークを手に取り、黒板へと向きなおった。白い数字とアルファベットと記号がずらずらと、黒板の上に並んでいく。

 わたしはボールペンを手にとって、あたりを見回した。最前列には学生が一人だけ座って、じっと前を向いて静止している。二列目には誰もいなくて、三列目には三人の学生が疎らに座っている。一人はせっせと手を動かしてノートになにか書きつけているようだった。もう一人は頬杖をついて窓のほうへと顔を少し傾けている。残りの一人はタブレットを黒板へ向けていた。きっと板書を写真に収めようとしているのだろう。

 わたしは後ろから三列目の右端に座っている。まだしばらく板書が続きそうだったので、ノートの隅にボールペンで描くともなく描いていた落書きの続きにとりかかった。

 教室の後ろの扉が開く音がした。少しだけ振りかえってみると、身をかがめて扉をくぐるホツエと目が合った。ホツエはにこりと笑って、わたしのすぐ後ろの席に着いた。

「まあ、もう大学生ですから」

 三谷先生がチョークを動かしつづけながら、振りかえることもなく突然声をあげた。

「いちいち遅刻をどうのこうの言いたくはありませんがね」

 そこまで言って、くるりとこちらのほうへと身を向ける。

「やっぱり白崎さん、あなたでしたか。いくらなんでも遅刻の比率が高すぎますよ」

 三谷先生の声は学生をたしなめるというよりは、呆れて独り言を呟いているようだった。

「すみません、気をつけます」

 ホツエが少し強張った声を張りあげる。

「そうしてください」

 そう答えると三谷先生はチョークを持ちなおして黒板に向きなおり、板書を続けていった。

 やがて一限の終わりを知らせるチャイムが鳴ると三谷先生は、それでは、と言ってチョークを置いて教室を出ていった。最前列に座っていた学生がのろのろと立ちあがり、黒板消しを手にとって黒板の上に滑らせはじめる。

 他の学生たちは席を立ち、続々と教室を出ていく。

「どうしよう、名前まで覚えられてるとは思わなかったよ」

 後ろから声が飛んできたので、振りかえる。

 ホツエが困ったような顔をしてわたしを見ていた。

「そもそもなんで名前まで知ってるのかな?」

 言われてみれば不思議だった。大学の教員がただの学生、それもまだ個別の研究室に属しているわけでもない学生の名前を知っているのは、なぜだろう。

「訊いてみたらいいじゃん」

 わたしは思いつきでホツエにそう言った。

「じゃあ、アリカも着いてきてよ」

「いいけど……」

「やった。それじゃあ六限の法律の講義が終わったら一緒に行こうよ。私、次の時間は倫理の講義取ってるけど、アリカは取ってないよね? 行ってくるね、またあとでね」

 ホツエはまくしたてるように言うだけ言うと、荷物を持って教室を出ていった。わたしはノートと筆記具を鞄の中に放りなげて、いつの間にかわたし以外に誰もいなくなっていた教室で席に着いたまま、黒板をしばらく眺めていた。


 ホツエとわたしは六限の法律の講義を終えて、三谷先生の研究室の扉の前に立っていた。

 ホツエが息を吸って、吐いて、それから扉をノックする。

「どうぞ」

 扉の向こうから声がした。ホツエは扉を開けて、研究室の中へと踏みだした。わたしもそれに続く。

「今日はすみませんでした」

「今日『は』ですか」

「えっと……、今までも、あとこれからももしかしたら……」

 三谷先生はホツエの言葉を受けて、ふっと息を吐く。

「まあいいんですよ。単位に響かせるつもりもありませんし。まさかわざわざここまで謝りにくるとは思いませんでした」

「えっと……、その、どうして私の名前をご存知なのかと……」

 三谷先生は、ああ、と声を出しながら少し間の抜けたような顔をした。

「そうか、そうですね」

 そう言って三谷先生は立ちあがり、部屋の隅にあるソファの上に積まれた紙の束を、机の上へと移動させる。

「まあせっかく来たんです、座りませんか」

「あ、ありがとうございます……」

 ホツエはおずおずとソファの端のほうに腰かける。わたしもその横に腰をおろした。

「ところで、どうして東雲さんも一緒に来たんですか?」

 三谷先生がまた椅子に座りながら、こちらを見て口を開いた。

「まあ、その、先生のところへ行ったらどうか、と言いだしたのがわたしなものでして」

「なるほど。一人で来るのは心細かったと?」

 わたしの答えに頷きながら、三谷先生はホツエに目を向ける。

「えっと……、まあ、はい……」

 ホツエは恥ずかしそうに俯いた。

「まあ、いいでしょう。二人ともまだ大人と言うには幼い」

 はあ、とホツエが声というよりは音と表現したほうがよさそうな返答を発する。三谷先生はそれを聞いているのかいないのか、なにかを迷っているように首を傾けて目を閉じた。

 少しの静寂のあとに三谷先生は目を開いて、それから口を開いた。

「僕は一度見たものや聞いたものを決して忘れないんですよ」

 三谷先生の言葉にホツエが、はあ、と怪訝そうな表情を浮かべながらも相槌を打つ。

「あなたたちがこの大学を受験したとき、数学の時間の試験監督は誰でしたか?」

「そんなの知りませんよ」

 ホツエがにべもなく答えると、三谷先生は苦笑いした。

「もしかして、三谷先生でした?」

「そうですよ。正確に言うと僕一人ではなく、もう一人、唐沢先生もいましたがね」

 わたしが問いかけると、三谷先生が答える。

「ともかく、試験中に受験票を机の上に置いていたことは、さすがに覚えているでしょう」

「そういえば、そうですね……」

 三谷先生の問いにホツエが頷いた。

「受験票には替え玉受験を防ぐために、顔写真が貼ってあります。そして当然、名前も書いてある。僕はカンニングしている受験生がいないか、何度も教室の中を歩きまわって、受験票の顔写真と受験生の顔とをチェックしていました。唐沢先生はずっと教室の一番前から、全体を見張っていましたがね」

「つまり……、その受験票の内容を全部、覚えているってことですか?」

 ホツエのびっくりしたような声に三谷先生が、そういうことです、と返す。

「すごいですね、全部覚えていて、忘れないなんて……」

 ホツエがどこか呟くようにそう言った。

「忘れることができない、と言いかえることもできるんですよ? 白崎さんは僕の講義の七回のうち五回は遅刻してきて、一回は欠席でした。出席率は高いほうですが、遅刻率もダントツで高い」

「え、私そんなに遅刻してました?」

「ええ、そんなに遅刻してましたよ。まあ、学生の本分は遅刻せずに講義に出ることではなく、勉強することですからね」

「そ、そうですよね……」

 わたしは二人の会話を聞きながら、思わず三谷先生の頭のあたりをじっと眺めてしまう。そこにすべての記憶が詰まっている……。いくら記憶が物理的なスペースを必要しないとはいえ、それはとてもありえないような話に思えてしまった。けれど現に三谷先生はホツエの苗字もわたしの苗字も覚えていた。

「東雲さん、あなたは七回のうち七回とも遅刻せずに出席です。ただ……」

 自分の名前が三谷先生の口から出てきて、わたしは思わず身構えた。

「どうも落ちつきがありませんね。しょっちゅう周りを見回しているでしょう。なにか気になることがあるんですか?」

「い、いえ……」

 わたしは乾いた声で答えながら、思わず視線を泳がせてしまう。

「まあ、ないならいいんですが」

「あの、先生は私たちのフルネームも、覚えてるんですか?」

 ホツエがそう問いかけると、三谷先生は小さな苦笑を顔に浮かべた。

「白崎ホツエさん、それから東雲アリカさん、ですね」

 小さく息を呑んで、ホツエはそのまま固まってしまう。

「信用されないのは慣れていますよ」

「い、いえ、あの……」

「いいんですよ。だから、バレないように気をつけているんですがね。うっかりしていました」

 三谷先生はそこで言葉を区切って、それからまた口を開く。

「僕はそろそろ夕食をとりに行きたいんですが、いいでしょうかね」

「は、はい……、ありがとうございました」

 ホツエは少し慌てるようにそう答えながら、ソファから立ちあがる。つられてわたしも立ちあがった。ホツエは、失礼しました、と言って研究室の扉を開き、廊下へと滑りでる。わたしもそのあとに続いてから、扉を静かに閉めた。

「わたしもちょっと思ってた」

 廊下を歩きながらホツエが言う。

「なにを?」

「アリカ、なんかきょろきょろしてるって」

「ああ……」

 わたしは歩幅を調整しつつ相槌を打った。

「いや、あのね、ノートに落書きしてるんだけどさ……、中学のときにそれで先生にめちゃくちゃ怒られたことがあってさ……」

「ああ、あったねえ。そんなに怒ることじゃないでしょって思ったの、覚えてるよ」

 ホツエはそう言って少し笑った。

「数学は好きだけど、今の講義ってまだ高校でやったこととあんまり変わらないからつまらないしさ」

 なぜかわたしはホツエに言い訳をする。ホツエは、うんうん、と頷いた。

「絵を描きたいなら、美術サークルにおいでよ」

 ホツエとシズエが美術サークルに入っていることは知っていたし、誘われたのも一度や二度ではなかった。わたしは、うーん、と唸って、それから口を開いた。

「わたしは落書きしかしてないから……」

「私はアリカが高校の美術の授業で描いてた絵、すごい上手だと思ったんだよ。落書きしかしないなんてもったいない」

 ホツエは歩きながらもこちらへ顔を向ける。

「とりあえずさ、ちらっと部室だけでも見に来ない?」

「そうだね……、見るだけならまあ……」

 今まではそこまで誘ってはこなかったのに急にどうしたのだろう、と思いつつも、おそらく大した意味はないのだろう、と自分で勝手に答えを出して、わたしは頷いた。

「じゃあ来週ね。先輩に見学したい子がいるって伝えとくから、一緒に行こうよ」

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