3

 この高校が、徒歩10分程度で通える立地で、本当ホントに良かった。学生時代、毎日、毎朝、毎晩、そんなことを思っていた。

 夏葵なつきの卒業式に参列するに辺り今朝も勿論もちろん、そう思っていた。



 けれど、あたしはこれまでの思いを根本的に否定する。

 寝坊して遅刻しかけた時、忘れ物をしてあわてて戻った時よりも強く、おばあさんが危うくなった時よりは弱く。それくらいのレベルで、私は今、この近距離さに感謝していた。

 何故なぜって? 端的に言えば、3年も前に卒業した母校に備えられた女子更衣室に無断で忍び込めるだけの胆力、非常識さを、あたしは備えていなかったからだ。

 故に、実家で着替えを済ませ、両親の目を盗みながら家を出て戻って来る以外に、選択肢が与えられてかったためだ。



「はぁ……」

 ……参ったな。いや、本当ホントに参った。むしろ、滅入った。よもや、こんな展開になろうとは。

 いや、夏葵なつきだけが悪いわけではない。流されてばっかな上に流してばっか来たあたしに、全面的に非がるんだ。

 まぁ……にしたってさぁ、というのが本音だが。それにしたって、もう少し何か有ったでしょうよと。



 深呼吸し、赤くならない程度に両頬を叩き気合を入れ、あたしは待ち合わせ場所の教室へと続くドアの前に立つ。

 ガラス越しに覗くと、予想通り、窓から入った風に吹かれながら、彼は優雅に読書にいそしんでいた。

 そういえばあたしも、そろそろ積読つんどくを消化しないとな。などと一瞬、ぼんやりと余所事に気を取られるくらいには持ち直したらしい。



「……ん」

 躊躇ためらいと羞恥心と大人気を出来る限り投げ捨て、いつしか多用するようになっていた口癖をつぶやきながら、ええい、ままよと、荒々しくない程度にドアを開ける。



花鳥かとりさん。いらっしゃ

 その音に導かれ、本を閉じ、こちらに微笑ほほえむ先生。

 彼の表情が凍り付くさまを、よもや卒業してから拝むことになろうとは。

 まぁ……ドン引きってよりは困惑って顔色なのが、彼らしいというかなんというか……。



「か、花鳥かとりさん?

 あ、あのぉ……。それは、一体……」

「……な、なに? 別に、おかしくなくなぁい?

 だってあたし、今日、ここを卒業したんだから」

 そう。あたしは今日、この学校を旅立つんだ。

 ……と自分に言い聞かせ、奮い立たせ、夏葵なつきの貸してくれた制服に身を包みながら、あたしは先生に近付く。



 ……やっぱり、無理がったんじゃなかろうか。初心に立ち返るためとはいえ、女子高生のりをしようなどと。

 そもそもこれ、夏葵なつきの着ていた物だから、上半身が少し緩……いや、うん、止そう。あたしは別に、そんなことい。ただ童顔ってだけで、別に体までは幼くない。

 そもそも、姉と妹の発育がぎるだけで、断じてボンビーではない。



「てっ……ていうかヤッシー、ノリ悪くなぁい?

 今日で最後なんだし、折角せっかくだからもっと、めつすがめつ見詰めたらぁ? そしたら、訴えるけどぉ。

 あはは。なーんて、嘘、嘘」

 二つの意味で切り替えるべく精一杯、夏葵なつき真似マネをして若作りを試みるも、そういうキャラと年齢と空気じゃなさ過ぎて余計、居たたまれなくなった。



「……ごめん、今の無し。秒で忘れて。

 いつも通り……ともいかないか。と、かくっ。服装はともかく、他はいつも通りで行くから」

「は、はぁ……。分かりました……」

 いや、思いっ切りテンパってるじゃん! 幸先、悪っ!

 などとツッコみつつ、間違い無く赤くなっているだろう自分の頬も無視し、あたしは空いていた窓の上に腰を掛け、スカートを抑えながら髪を靡かせた。



「懐かしいよね。

 っても、3年前までの話なんだけどね。そんな感想抱く辺り、あたしも老けたよねぇ。

 っても正直、てんで成長出来できてる気ぃしないんだけどさ」

 空気を察してくれているらしく、無言を貫く先生。

 あたしは、外を眺めていた視線を先生の方に戻し、続ける。



「ねぇ。センセ、覚えてる?

 6年前、ここで有ったこと

 あたしに問いを投げかけられ、ようやく先生は口を開き出す。

「ええ、勿論もちろん

 忘れもしません。あなたがノートに書いていた小説を、僕が読んだことですね」

 今日の先生は、妙に鋭い。丁度良ことに、ちょっとおっかないレベルで、話がサクサクと巻きで進む。 



「正確には、『あたしが机に忘れたノートを』、だけどね。

 本当ホントさぁ……センセって、ひどいよね。

 教師生活1年目にして初めてのクラス顧問ってんで上がりまくりで、あたしその頃、センセにまったいイメージかったのに、自作の二番煎じ、三文小説まで見られてさ。もう、社会的に抹殺してやろうと思ったよ。

 いや、そもそも置き忘れたあたしに落ち度が有ったし、センセはくまでも善意で、届けるために名前を確認しようとしてくれただけなのにね」

「……その節は大変、失礼致しました」

いって。

 もっと失礼なのは、そこから先だったし」



『書くにも読むにも時間が勿体ない。ノートとシャー芯に失礼だ』などなど、それはもう、とんでもない酷評っりでしたとも。

 あまりに恥ずかしくて、悔しくて、今度からはスマホに書き溜めてやろうと心に誓った(ここで、「次はもっと面白い奴、書いてやる!!」と一念発起しないのが、あたしあたしである所以ゆえんだろう)。



「……すみません。如何いかんせん、嘘のけない性分なので。

 取り分け、小説に対しては」

「ん。知ってる。だからこそ、あれだけディスられても、今日までセンセに批評してもらったんだし。

 でも……そろそろ、どうにかしようと思ってさ。この、宙ぶらりんな関係を」

 両手を軸に軽く飛び、幸運にも危な気無く着地に成功したあたしは、先生の前に立ち、頭を下げる。



社岳やしろだけ先生。今まで、ありがとうございます。

 あたしが今日まで紡げたのは、姉を超えるという目標が有ったから。でも、それだけじゃあ断じてありません。あなたからのたゆまぬ支援、ご指導ご鞭撻べんたつ賜物たまものです。

 あなたからの叱咤しった激励げきれいが無ければ、きっとあたしは、自分の本心と正面から向き合わない、和解も出来できないまま、姉の清書マシーンとして一生を終えたと思います。

 先生には、いくら感謝しても感謝し切れません。

 だからこそ……もう中途半端な、曖昧な、思わせりな態度は見せません。きちんと、本音を晒します」

「……聞かせてください。

 あなたの、本音ことばを」

 先生が一歩、近付いて来た。聞き逃すまいと、聞き違えまいと。

 本当に大事な場面では、こっちから何も言わずともピン·ポイントに応えてくれる。

 そういう、優しい所が、大好きだ。



「好きです。先生のことが、好きです、大好きです。生徒として、人間として、弟子として、こよなく物語に取り憑かれた者として、あなたのことを強く尊敬し、親愛しています。

 でも、それだけです。それ以上ではないし、それ以上にはなれそうもありません。

 あなたのことを異性として好きになりたかった、なろうとした。けど……無理でした」

 スカートの端をギュッと握り、色んな意味で顔を上げられそうにないまま、震えた声で、あたしは必死に自白する。



 そう。あれやこれやと振り回し放題だったが、その実、あたしは先生を、そういうふうには一切、見ていない。

 少し年の離れた、ちょっと頼りないけど親近感の湧く、可愛い従兄弟(兄か弟かは伏せておく)とか、それくらいにしか位置付けしていなかった。

 いくあたしとて、想い人が目の前で別の異性にキャッチされたくらいでヒス起こすほど、子供でも不安定でもないのだ(嫉妬しないとは言ってない)。


 風月かづきに話していたのは、本命を達成するための、苦しい言い訳でしかない。



「認めます。あなたとの奇妙な関係に、あたしは安住していました。

 気と趣味が合い、優しくぐで穏やかなあなたの心を、あたしはずっと、自分にだけ一方的に都合良く利用していました。

 あたしは……あなたのことを、異性としてなんて、これっぽっちも、一度たりとも見ていません。

 眼鏡を外していたのは、あなたの正体に周囲が気付くのを避ける、それ以外にはなんの意味も無い、単なるブラフです。

 だって、あたしの理想は常に近く、けれど遠い、ともすれば失い兼ねない、手の届かない、別の場所に有ったから……。

 あたしは、自分の所為せいで壊れるのを恐れるあまり、向こうから来させようと策略した……。そのために、あなたを当て馬にした……。

 あなたに、あたしの心を奪ってしかった。満たしてしかった。

 あたしはそんな、ずるくて脆い、最低な人間なんです……」

 言った。

 6年間にも渡って溜めに溜めていた言葉を、思いを、あたしようやく明かした。



 これでもう、あたしと先生との間に、昨日まで有った居心地いごこちさは存在し得ない。たった今、私がみずから、手放したのだから。

 紅羽いろはちゃんとの仲は継続する以上、これからあたしとも何度かは顔を合わせるだろうけど、二人っきりにはずならないだろう。



 因果応報、自業自得。自分に、そんな資格、権利がいのは重々、承知している。

 それでも心というのは実に制御が面倒臭く、気付けばあたしはボロボロと涙をこぼしていた。

 ようやく解放、開放した安堵からか、もう後戻り出来ないことでの名残惜しさか、これまでの罪悪感の残留していたからか。

 それを判断するには、その時のあたしは疲弊しぎていた。



 あたしは今まで散々さんざん、男漁りの激しい姉を、クズいと心の中で罵っていた。

 が、なんとも不幸かつ皮肉なことに、どうやらあたしにも同じ素質が有ったらしく。すべて自分の所為せいだというのに、

 あたしは一刻も早く、この場を立ち去りたいという衝動に駆られた。



「は、話は、それだけ……。

 あたしこと、拒絶なり軽蔑なり、一向にしてくれて大丈夫だから……」

 それだけ残し、別れの挨拶も済ませずに、あたしは先生の体を横切った。

 いくら温厚な先生でも流石さすがに今度ばかりは、罵倒なり罵声なり、一つは飛んで来そうだなぁ。無理ないよなぁ。自分、最低だしなぁ。などと自己嫌悪しつつ、その場を無言で立ち去ろうとする。



「待ってください」



 ドアを開けようとしたタイミングで、そんなあたしを徹頭徹尾、穏やかに呼び止める先生。

 自分でも把握出来できほどにビクッと揺れ、竦み上がりそうになる体。

 あたしは自分の心を落ち着かせ、どんな罪も罰も逃げずに慎んで受け入れる覚悟を決め、先生と向き合う。



 そんな決意とは対象的に、先生は困惑した様子ようすだった。


その反応があまりに不可解で、あたしは思わず一時、自分の立場も忘れ無意識に尋ねかけてしまう。

 が、口をいて出るすんでかろうじてめ、押し黙る。

 そんなあたしの心境を汲んでくれたのか、ゆがて先生が語り出す。



「……すみません。さっきから延々と考えてるんですが、まったく答えが出ないんです」

 何やら勿体振った調子で切り出し、顎に手を置き、今の流れに相応ふさわしくない、どこか緩い雰囲気で、先生の瞳はあたしを捉えた。

「一体、花鳥かとりさんは何故なぜぼくに謝っているんでしょうか?」



 もし、ここがギャグやラブコメの世界だったら今頃、ず間違い無く風に乗って木の葉が舞っていただろう。

 そう断言出来できほどに間の抜けた静寂が、それまでの気不味きまずいシリアスなムードを台無しにして、あたし達を包んだ。



「……」

 フリーズする思考。

 やがて、ここまで中々に長い間、先生と会っていたあたしでさえついぞ感じたことの無い、今までで最大規模のズレを修正し、自らの悪女っりを理解させるべく、あたしなかば開き直った。



「センセ、ごめん。ちょっと座らない?」

「え。あ……はい。」

 の前に、ガックリ来過ぎたので椅子いすを用意し、面と向かう形で着席した。

 ちなみに、気持ち的にも罪状的にも、あたしは正座したかったのだが、確実に先生に気にされ、その果てに向こうを緊張させてしまうという逆効果な結果になると容易に踏めたので、成す術無く自責の念に襲われつつ普通に座った。



「えと……センセ、今の話、理解してる?」

花鳥かとりさんが、僕に何かしたんですよね?」

「いや、『何か』とか、そんなレベルじゃないから。

 人としても大人としても、知人としても女性としても、最低なことだから」

「はて?

 ぼくの知っている君は、そんな人ではないはずですが」

「まだセンセが気付きづいてないだけだって。

 あたしは、センセをずっとだましてたの。センセと一緒にことで本命をやきもきさせて、向こうからコクらせようとし続けてたの。

 ここまではオッケー?」

「は、はぁ……」

 割と簡略化し、なおかつ普段と変わらないテンションで説明したもりだが、これでも先生には難しかったらしく、少し整理を要していた。



「おぉ。なるほど」

 そして数秒後、先生は得心し。

「それで何故なぜ花鳥かとりさんがぼくに謝罪を?」

 にもかかわらず、振り出しに戻った。



「〜!!」

 あたしは叫びたい衝動を必死に抑え、うつむき額に手を当てる。

 この恋愛音痴に如何いかにして、教え子の重罪っりを咀嚼そしゃくしてもらおうか。


 ただそれだけに脳内ソースをすべて割き、けれど誤ってもキレたりせぬようにだけ注意しつつ、再び解説し出す。



「センセ。あたしは、他に好きな人がるの。センセのこと、異性としては見てないの。

 勿論もちろん、先生もあたしを、そういう目では一切、見ていない。

 相違そういい?」

「はい」

「ん。であたしは、その上でセンセと、さながらカップルみたいにセットだったの。

 あたかも、そうすることあたしかセンセが、相手に特別な好意を持たせようとしてるみたいに。

 何より、さしずめ意中、本命の異性の恋愛感情、独占欲、嫉妬心を煽るかのように。

 これ、どう思う?」

「『どう』とは?」

「いや、だからね?

 よしんば知り合いでも普通、許せなくない?

 ようはセンセ、何も知らされないまま、あたしだけに一方的に都合良く利用されてたんだよ? 」

「と、言われましても……。

 生憎あいにくぼくは、感謝こそすれども、君がぼくてくれる現状にストレスを感じたことは、一度たりともいので」

「ごめん、待って。ちょっと関係無い話する。

 その割りにはセンセ、添削モードで結構、アレなこと言ってるよね?」

「あの時は、無の境地に達しているので。その方が、贔屓目や自分の主観を抜きにして、公平な視点で採点出来できるので」

「器用かよ。で、それは置いといて。

 じゃあ、先生の性格とかは抜きにして、客観的に捉えてみて。

 もしセンセが、一緒にことの多い異性に、そういうことされたら、イラッとしない?」

「……確かに、きにしもあらずなのはいなめませんね。

 でも、他の誰かが実際にないがしろにされたわけではなく、当事者であるぼくも、別になんとも思ってなかった。

 加えて、そのおかげで、君が幸せになる道が開けたかもしれなかったんですよね?」

「ま、まぁ……」

「付け足すなら、それが起因して、ぼくなんらかの不利益をこうむったとかでもかいですよね?」

「……先生がそう感じてるんなら、そうなんじゃないかな?」

 いくら感情移入しようとも、他者の気持ちをすべて、完璧に理解するのは不可能。

 ゆえあたしは、しばし考えたすえに、そんな他人事みたいな意見をした。



「でしたら、なんの問題もいじゃないですか。

 君はさぞかし猛省したいかもしれませんが、少なくとも、ぼく個人としては、君をなじる必要は皆無というわけです」

「……」



 ……嘘でしょ。有り得ない。いや、本当ほんとうに有り得ない。悪い冗談にもほどる。



 どこまでも身勝手で、不安定で不器用で不格好で、ドン引きと糾弾を招くがごといびつで、恥ずかしいくらいズルくて、我ながら呆れ果てそうなレベルでおろかで、丸っきり単なる子供で、分かりやすほどに思わせり。

 そんな、駄目ダメさの枚挙にいとまい、最低なあたしを、こうもあっさりと、この人は許そうとしてくれている。

 いや……それどころか、そもそも、許す許さない以前の問題だ。何故なぜなら彼は、はなっからあたしを憎むもりなど、微塵も無かったのだから。



駄目ダメだよ……センセ……」

 スカートの上でにぎっていた拳にポツッ、ポツポツッと、何滴かの涙がこぼれ落ちる。

 何年振りかに流した、罪悪感と絶望以外の感情……ほんわずかばかりに、期待と希望、喜びの入り混じった物だった。

 やっぱり、あたしは卑怯だ。だって、こんなふうに拒みながら、本心では求めてる。

 どこまでも素直じゃない。ちっとも可愛くない。 

「それじゃ、あたしの気が済まない……。

 何も……何も、変わらない……。変えられない……。

 でも、あたし……。……どうしたらいか、分からない……」 

 女としての意地か、それともバツの悪さゆえか。泣きじゃくりつつ、両膝の上で肘杖をつき、その上に顔を乗せ両手で覆い隠す。

 先生は、確認するまでもなく柔和な物腰で、あたしの頭を笑顔で撫でてくれた。

 こんなあたしを見捨てず、あまつさえ許容してくれた。

花鳥かとりさん。今の君は、疲れています。ちょっと無理が祟っただけですよ。

 そんなに自分を責めるのも、本当ほんとうの君は真面目まじめだからです。

 誠実であろうとしている証拠です」

「そんなんじゃない……!

 そんなわけ、無い……!

 だって、あたしっ!」

 先生の手を振り払い立ち上がり、あたしはグシャグシャな顔とグチャグチャな心で、胸に手を当て、先生に主張した。

 まるで、心臓を取り出し、本心に直接、語らせようとでもしてるふうに。



「センセは、本当ほんとうあたしを知らない!

 あの成人式のあとの飲み会の頃から、先生と姉を引き合わせるまで! およそ一年の長きに渡って、あたしはずっと、あなたをペットみたいに扱ってたんです!

 どういう意味か、分かりますよね!? フィジカル的な意味です!

 あなたを、本来なら無関係であるべきあなたを、自分を慰めるためのネタにした! あなたを陥れるだけでは飽き足らず、はずかしめてさえいたんです!

 それでも、センセは! ……は、あたしを! 真面目まじめだと、誠実だと! そう、おっしゃるんですかっ!?」

 ここに来て先生の目が、わずかばかりに曇った。そのさまを見て、安心と満足感、裏切られたという八つ当たりや寂しさを感じるあたしは、いよいよもってキテるのかもしれない。



「……あとで、謝ります。

 君にも、紅羽いろはさんにも」

 やや沈黙に包まれたあと、そう前振りした先生は少し躊躇ためらいがちに、あたしを包んでくれた。



「確かに、君はやり方を間違えた。でも、それは、ぼくを信頼した上でのことだ。

『この人なら怒らないだろう』『きっと笑って受け流し、洗い流してくれるだろう』。そう信じ、願えるぼくて、そんなぼくを選んだからこそ、その強硬、最終手段に出たんじゃないですか?」

「〜っ!!」



 図星、だ。

 きっとあたしは、他の男性だれかになんて、頼ろうとはしなかっただろう。あたしの交友関係の狭さ的にも、これまでの経験的にも。

 あるいは、姉のことを判断材料に入れると、あたしにも男性不信の嫌いがるやもしれない。

 いずれにしても、先生じゃなければ、こんな方法は選ばなかったと。今の心境でも明言が可能なほどに、あたしは自信を持っていた。

 いくら自分を嫌っていても、情緒不安定でも、捻くれ者でも、そこまでの大馬鹿はしない。



ぼく生憎あいにく、人間関係、こと恋愛に関しては、ご存知の通り、からっきしです。

 過程も過程なので、これが絶対ぜったいに正しい、最適解だなんて決して言えない。きっと……言ってもいけない。

 だから……異性としてでも、教師としてでも、知人としてでも、義兄としてでもなく。あくまでも一個人の意見として、聞いて欲しい」

 一旦、あたしの体を離し、あたしを正面から見詰めながら、先生はぐに伝えた。



「……ありがとう。

 最後の最後で、ぼくを選んでくれて。

 限り限りギリギリの所で踏み留まり、まだ望みをつないでくれて。

 自暴自棄にならず、自分の気持ちを、きちんと持ち続けてくれて。

 そして何より……おのが罪を告白し、逃げずに真正面から向き合おうとしてくれて」



 ……そんなんじゃない。

 そんな、格好かっこうい、誉れみたいな行いじゃない。

 あたしはただ、理想の自分と関係を手に入れるべく、清算したいだけだ。先生に、形だけでも許されたいだけだ。依然として、どこまでも自己中なだけだ。

 かろうじて逃げてはいないけど、逃げようとはしてる。



「君の行いは、立派でも、素敵でも、美しくもない。

 けれど、君の行動には、揺るぎない信念がる。駄目ダメことを正そうとする、欠片ばかりの、されども強い良心がる。

 君は、まだやり直せる。むしろ、これまでいくつもの負い目がるのなら、今度こそぐ、さきに、本当ほんとうのゴールへと向かうべきです」

 違うよ、先生。ただ、往生際おうじょうぎわが悪いだけ。いつまでも、いくつになっても、子供なだけだよ。



ぼくはもう、君のすべてを知った。

 多少、認識を改めましたが、これからも君と懇意にしたいという本心には、なんら変わりありません。

 それでもなお、君が自分を許せないのであれば。どうか、これからは、自分に正直に生きてください。

 それが、ぼくではなく、君にとっての、君に対しての、最大にして唯一の罪滅ぼしとなるでしょう」

「……っ!!」

 思いの丈を一通り放った先生は、最後に再び、あたしを優しく、暖かく包み込んでくれた。


 凍てついていたあたしの心が解氷して行き、そうして出来できた水が、ゆっくり穏やかに、内側からあたしを満たして行く。

 さも、あたしの罪を、穢れを浄化し、洗い流し、新しい自分に生まれ変わらせてくれるがごとく。



 先生。やっぱりあたしは、あなたが思うような人格者じゃないよ。

 臆病で卑怯、嘘吐きでエゴイスト、若輩者の天邪鬼あまのじゃく

 あなたにかれるだけの価値が、返せるだけの物が、あたしにはほんの少しもい。

 現に、こうして今も、これだけ先生に良くされても、あたしは自分を否定、拒み、目を逸し続けている。



 でも。それでも先生は、そんなあたしを、肯定し、受け入れてくれる。

 すべてを正しく知った上で、あたしの背中を押し、支えてくれる。

 こんな、ダメダメなあたしを見限らず、信じてくれる。



 だったら……あたしはもう一度、信じたい。まだやり直せると。まだ間に合うと。

 そして何より、自分の気持ちを、信じてみたい。

 あたしが最も求めているものは、その先に、その果てにしか無いのだから。



「もう大丈夫のようですね」

 あたしの心が定まったタイミングで、体を離した先生がげた。

 あたしなんだが、無性に可笑おかしくなってしまった。この人の、まれに鋭くなる所は一体、なんなのだろう。



「……仕方しかたいじゃん」

 しばらく閉口していた割りにスッと言葉が発せられたことに多少、驚きつつ、あたしはやはり素直じゃない、憎まれ口を叩く。

「だってセンセ、なんだかんだで、あたしを全否定してくれないんだもん。

 徹底的には、きらってくれないんだもん。

 あたしあやまちを非難、指摘しつつも、それでも目をかけてくれるんだもん。

 いくらネガってても平行線、堂々巡りじゃん」

ぼくは君の、採点者ですから」

「別に性格や態度までは頼んでないんですけど。でも」

 捻くれた返答をしつつ、あたしは先生から距離を置き、深々とこうべを垂れた。



「……ありがと。センセのおかげで、吹っ切れた。

 まさか、励まされるとは思ってなかった。願ってはいたけどね」

ぼくは、ぼくの気持ちをありのまま、君に届けているにぎません。

 大したことはしていませんよ」

「うん。そういうことなんの目論見も無くサラッと言えちゃってるのが恐ろしいんだけどね」

「? どういう意味ですか?」

いの。気にしないで。

 どうぞ、どうか、センセはずっと、今のままでいて」

「は、はぁ……。よく分かりませんが、分かりました……。

 その台詞セリフ、君以外にも多くの方から頂き続けていて、それでいて一向、一様に趣旨が取れないままなんですが……」

 解せない、と体全体で主張する先生。



 地味。素朴。失礼なのは百も承知だが、あたしは先生に対して、そんなイメージを絶えず持ち続けていた。

 けど、どうやら改める必要があるらしい。先生は決して、キャラが弱いわけではないのだと。

 単なるイエスマンでもなければ、猫被りでもない。驚愕の真実とか、正反対の素顔とか、そんなたぐいの物は何一つ無い。

 でも、だからこそ、その変わらなさ具合、人の良さが際立つのだと。



「それより」

 おもむろに先生は立ち上がり、やはり普段と完全に一致した……ううん。それまでより柔らかい雰囲気で、あたしに手を差し伸べた。

「君と僕は、いつでも、いつまでも、一緒にられます。

 でも話を聞くからに、少なくとも今は、君が向かう場所はここではないし、君が会うべき相手は、僕ではないんじゃありませんか?

 僕にすべてを明かし、踏ん切りをつけ一歩、踏み出したいからこそ、君はここに来たんでしょう?

 それはもう、解決した。……いいえ。そもそも僕にとっては、気にするまでもなかったことなのですから」

「……んにゃろう」

 露骨に悪口をぶつけながら、不承不承オーラを露骨にかもしつつ、あたしは先生の手を取り、立ち上がった。



「そういえば」

 あたしを引っ張り上げてくれた先生は、教卓の上に置いてあった鞄を取りに行き、流れるようあたしにくれた。

紅羽いろはさんから預かりました。

『一段落したら、舞桜まおちゃんに渡して。ただ、中身を見たら別れるから。ただし、私はトシくんと是が非でも別れたくないから、絶対ぜったいに中を見ないで』と」

「……はぁ」

 ……そんなに別れたくないなら、そもそも持たせなければかったのでは……? てか、ここまで予測済みだったのかよ……。

 とツッコみつつ、いぶかしみながらジッパーを開け。

「〜!!」

 光の速さで締め沸騰、爆発しそうな勢いでブワッと熱くなった体で、急いで抱き抱えた。



 ……勘弁、遠慮。

 妹と姉の二段構えってなんだよ。

 てか、制服これより上とか、本気でめて。

 そもそも、ここまでされなきゃ本気になれない、望み薄いあたしって、一体……。

 そんなふうに自己嫌悪に陥っていたら、気付けばあたしは顔を両手で覆い隠していた。



「死なす……。あの魔女、そろそろ本気で仕留めてやる……。

 おちょくるのも大概に……」

「か、花鳥かとりさん。そんな、物騒なことは言わずに。

 誓って言いますが、僕は決して中を覗いてなんていませんし、紅羽いろはさんも断じて、君を揶揄からかいたいがためだけに、これを託したわけではないですよ」

「分かってる……。善意から来てるんだって……。

 でも、全霊ではないと思う……。大なり小なり、私をもてあそんでる気がする……。

 こういうところ、素で嫌い……」

「き、君に対する気持ちの方が優勢なら、それはもう、善意だけと受け取って問題無いんではないでしょうか? ね?」

「……もぉだぁ。

 勘弁、遠慮、本当ホント帰りたい〜……。

 我ながらあたし本当ホントチョロ過ぎ、面倒過ぎ〜……」

「そ、そんなこと言わずに、ね?

 今日を逃したら、またズルズル、ズブズブ、引きずってしまいますよ? ね?」

うっさい、根っからの善人……」

「ば、罵倒にすらなってない……。

 い、いじゃないですか。ね? これで君は、僕に対する後ろめたさが無くなったわけですから」

「だったら、そろそろ名前で呼べし……。

 色々と吹っ切れたんだし……」

「このタイミングですか!? 舞桜まおくん!」

「男っぽい呼び方すんな……」

「じゃ、じゃあ舞桜まおさん!

 これならいでしょう!? ね!?」

なんか、紅羽いろはちゃんと似ててだ……」

「わ、分かりました、舞桜まおちゃん!」

「許可する、リュウさん……」

 こんな調子で、二人で手探りで新しくクリーンな関係を模索した後、あたし達は教室を出ることにした。



 直前になって先生改めリュウさんが、何故なぜか立ち止まり、かと思えばお辞儀した。

 真面目まじめだなぁと吹き出した後、あたし身嗜みだしみを整え、それにならった。

 そして直後に、「いや、だから、制服じゃん……」と、馬鹿バカ馬鹿バカしくなった。

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