逃げるが勝ちの海の中

 目を開けると青空が揺れていた。いや違う。揺れているのは青空ではなく海水だ。ボクは沈んでいるのか。おかしいな、救命胴衣はどうしたんだろう。胸に手を当てるとペチャンコに潰れている。破れたのか。あんなに激しく体当たりされたんだから破れて当然だよな。とにかく浮き上がらないと窒息してしまう。うっ、右腕を動かすと胸に激痛が走る。骨にヒビでも入ったのかな。ダメだ。これじゃ水をかくこともできない。ああ、沈んでいく。息が苦しくなってきた。


 ――メルドちゃん、聞こえる?


 これはうんこ小路うじさんの声。いや言葉だ。言葉が頭の中に直接響いてくる。


 ――右よ。あたしは右上にいるわ。もしこの声が聞こえたのなら手を振って。


 こちらに向かって泳いでくるうんこ小路うじさんが見える。左手を振る。


 ――よかった。急いで目を閉じて手で覆って。


 言われたままにした瞬間、瞼の裏に閃光を感じた。口に何か押し込まれた。


 ――簡易呼吸器よ。吸って。


 戸惑いながら大きく息を吸う。吐く。目を開けるとうんこ小路うじさんの顔が間近にあった。


 ――言葉が聞こえて驚いた? これは頭の中に直接言葉を送る念話術。海に生きる者なら誰でも使える魔法術なの。さあ行くわよ。くわえた呼吸器を落とさないでね。


 右から抱きかかえられたまま、ボクの体は猛烈な勢いで海中を進み始めた。片手と両足だけでこれほどの速度が出せるとは。うんこ小路うじさんの泳力はマグロ並みだ。

 それにしても念話術とは驚いたな。ボクの言葉も届くんだろうか。試しに頭の中で「ありがとう」と言ってみる……返事はない。やはりボクの声は聞こえていないようだ。


 ――今は閃光玉の目くらましで錯乱しているけどすぐ追いかけてくるわ。今のうちに逃げられるだけ逃げるわよ。


 うんこ小路うじさんは呼吸器を使わずに海中を進んでいる。どうして水面に出ないんだろう。息切れしないのかな。そう言えば他のみんなはどうなったんだろう。無事なのだろうか。訊きたい、会話がしたい。尻穴に力を込める。燃え始めた。尻穴の熱が上昇していく。


 ――うんこ小路うじさん聞こえますか? メルドです。

 ――ウソ! メルドちゃんの声が聞こえる。あなた、念話術が使えるの?

 ――これが念話術なのかどうかはわかりません。ただ会話がしたいって思っただけです。

 ――じゃあ、この瞬間に習得したってこと? 信じられない。ああ、きっとあたしとメルドちゃんは固い絆で結ばれているのね。良き伴侶に巡り合えて嬉しいわ。死が二人を分かつまで愛し、慈しみ、貞節を守ることを誓います。


 この非常時に何を寝ぼけたことを言っているのかなこのマッチョ海男。冗談は筋肉だけにしてほしいものだ。


 ――そんなことより今の状況を教えてください。

 ――万事休すよ。


 うんこ小路うじさんの説明によるとモグリ海豚の急浮上で負傷したのはボクだけだった。フェイとミエルダさんは護衛官三人とともに島へ向かっている。そして島からも救助艇がこちらへ向かっているので彼らの心配は無用とのことだ。


 ――問題はメルドちゃんよ。海豚ちゃんは明らかにメルドちゃんを狙っている。今もほら、追いかけてきているでしょう。


 振り返ると巨大な黒い物体が遠くに見える。その差は徐々に縮まりつつある。閃光玉による錯乱も長くは続かなかったみたいだ。


 ――どうしてボクが狙われているんですか。

 ――海豚ちゃんは糞に興味を示す動物なの。特に珍しい糞を腸に溜め込んだ生物には目がないのよ。今回突然浮上したのもメルドちゃんのウンコを手に入れるためだと思うわ。


 自分のウンコがそんなに珍しいとは思えないけどな。しかしそうとわかればヤルことはひとつしかない。


 ――わかりました。ここで脱糞すればいいんですね。

 ――さすがメルドちゃん。よろしく頼むわ。


 海水パンツをずらし、呼吸器を口から外して催便意術を詠唱する。


ふん!」

「降下!」


 脱糞と同時にうんこ小路うじさんがウンコに術をかけた。移動術のようだ。排出されたウンコはとぐろを巻きながら高速で海の底へ落ちていく。それに誘われるようにモグリ海豚も潜り始めた。


 ――うまくいったわ。ひとまず出ましょう。


 うんこ小路うじさんに抱きかかえられて海面に顔を出した。呼吸器を外して深呼吸する。


「ありがとうございます。おかげで助かりました」

「礼を言うのはまだ早いわ。海豚ちゃんは執念深いの。あのウンコで満足できなければまた追ってくるはず」

「それはまずいですね」

「とにかく一刻も早く浅瀬まで行きましょう。さすがの海豚ちゃんも浮けない場所までは追いかけてこないでしょうから」


 遠くを見ると五つの頭が水面に浮いている。フェイたちだ。さらにその遠く、島の方角には小型船が見える。あれが救助艇なのだろう。フェイたちの方へ向かっている。


「まずはあの子たちの救助を優先させるわ。こっちは海豚ちゃんに追われているでしょう。船が来ても海豚ちゃんに襲われたら元も子もないものね」


 正しい判断だ。モグリ海豚の標的はボクだ。ヤツをどうにかしない限り誰もボクを助けることはできないのだから。


「それにしてもこの呼吸器、小さいのにすごい性能ですね」

「でしょ。海豚ちゃんの腸内細菌を利用してらぼが作ったのよ。空気タンクはお稲荷さんほどの大きさしかないのに四半刻は使えるのよ。小さいからパンツの中にも収納できるしね」


 うげっ、この呼吸器、ブーメランパンツの中に隠していたのか。妙にモッコリしていると思ったらこれだったんだな。


「ちょっと待って」


 突然うんこ小路うじさんが水中に消えた。ほどなく現れた表情は曇っている。


「まずいわ。海豚ちゃん、浮かび上がってきてる。あれだけのウンコじゃ満足できなかったみたい。まだ出そう?」


 腹に手をやる。いや、さすがにもう無理だ。大腸はすでにカラッポだ。


「すみません。出ません」

「なら逃げるしかないわね。呼吸器をくわえて。行くわよ」


 左腕でボクをしっかり抱えると再び海に潜るうんこ小路うじさん。泳げないどころか満足に浮くこともできないボクのために、左腕一本でずっと支えてくれているんだ。これほどうんこ小路うじさんが頼もしく見えたことがあっただろうか。


 ――浅瀬まであと少しよ。頑張りましょう。

 ――あの、どうして水中を泳ぐんですか。息ができないでしょう。

 ――水中のほうが早く泳げるのよ。息は心配しないで。常人の十倍は止めていられるから。


 猛然と泳ぐうんこ小路うじさん。モグリ海豚の巨体が少しずつ近づいてくる。海の底は見えない。浅瀬はまだまだ遠いようだ。うんこ小路うじさんの速度が鈍ってきた。平静を装っていても相当疲れているに違いない。


 ――呼吸器、代わり番こに使いましょう。

 ――ありがと。厚意に甘えさせていたただくわ。


 渡した呼吸器をくわえて大きく息を吸ううんこ小路うじさん。無呼吸のまま全力で泳いでいるのだ。苦しくならないほうがどうかしている。


 ――うふふ、メルドちゃんとの初間接キスね。直接キスしたくなったらいつでも言ってね。


 こんなに緊迫した状況で青少年健全育成条例に抵触しそうな冗談はやめてほしいものだ。それともリラックスさせるための軽口のつもりだろうか。

 返事はせずに振り向くとモグリ海豚はすでにボクらと同じ深度まで上昇していた。その距離は徐々に詰められつつある。


 ――閃光玉はもうないんですか。

 ――ひとつしか持ち出せなかったの。タマタマは二つあるんだけど。


 今度は下ネタジョークか。マッチョな華族様の肝っ玉はかなり大きいようだ。


 ――水面に出るわよ。


 いきなりうんこ小路うじさんが泳ぐのをやめた。浮かび上がったボクに小さな袋を差し出す。


「これは?」

「浮袋よ。ブーメランパンツに仕込んだ最後のアイテム。浮輪ほどじゃないけど体を浮かすことくらいはできるはず。ほら、早く膨らませなさい」


 パンツの中から取り出したと聞かされては、さすがに口を付けるのはためらわれる。が、今はそんなことを気にしている状況ではない。息を吹き込んで膨らませると枕のような縦長の袋になった。これなら十分浮輪の代わりになる。


うんこ小路うじさんはどうするんですか」

「あたしはここであいつを食い止めるわ。その間にそれに捕まって浅瀬まで逃げさない」


 いつの間に取り出したのか手には小刀が握られていた。無理だ。いくらうんこ小路うじさんでもそんな武器であいつに勝てるはずがない。


「無謀すぎます。逃げてください。あいつが追っているのボクです。うんこ小路うじさんじゃないんです」

「だから戦うのよ。あなたはあたしが招いたお客様。大切なお客様を守るのは主人の義務でしょ」

「お客様なんかじゃありません。組合から請け負ったボクらの業務はうんこ小路うじさんの護衛なんですよ。ボクが囮になりますからその間に逃げてください」

「ああ、そうだったわね。それじゃメルドちゃんは解任するわ。これであなたはただのお客様、そうでしょ」

「で、でも」

「早く行きなさい! これ以上あたしをイライラさせないで」


 うんこ小路うじさんがボクの体を突き飛ばした。慌てて浮袋に捕まる。


「海豚ちゃん、すぐ成敗してあげるわ!」


 モグリ海豚目掛けて猛然と突っ込んでいくうんこ小路うじさん。どうしよう、どうすればいいんだろう。


うんこ小路うじ様!」


 遠くから叫び声が聞こえた。三人の護衛官がモグリ海豚に向かって泳いでいく。その後にはフェイとミエルダさんも続いている。五人ともずっとボクらを見守っていてくれたんだ。そしてうんこ小路うじさんの覚悟を知って助けに向かっているんだ。


「できない。ひとりだけ逃げるなんてできっこない。ボクも戦うんだ!」


 思い出せ。火トカゲを倒したあの時の自分を。タカノメさんの言葉を。ボクの尻穴は祝福されている。どんなことだってできるんだ。尻穴を燃やせ。極限まで燃焼し尽くせ。


「海の底へお帰り!」


 荒波に身を躍らせながら宙に飛び出したうんこ小路うじさんの小刀が巨体の背を突き刺す。一度、二度、三度。少しは効いているのか、モグリ海豚は身悶えしながら空中へ飛び出し横旋回した。振り落とされたうんこ小路うじさんの小さな体を巨大なヒレが襲う。したたかに打ち払われ、力なく海中へ消えていく心優しい海の男。


うんこ小路うじさん!」


 ボクは浮袋を放り投げると海に潜った。胸の痛みは少しも感じない。燃える尻穴がボクの足と手を動かす。沈んでいくうんこ小路うじさんに追いつくとその体を抱いて上を見た。モグリ海豚の大きな口がボクらを飲み込もうとしている。尻穴は燃えていた。極限まで燃焼していた。溶鉱炉よりも熱くなったボクの尻穴は太陽と化していた。


「うおおー!」


 凄まじい勢いでボクとうんこ小路うじさんは急上昇した。超高温高圧になった腸内ガスが途轍もない膨張圧を溜め込んで、ボクの尻穴に大爆発を引き起こしたのだ。


「メルドちゃん、あなた、想像以上よ」


 水面を突き破ったボクらは空高く舞い上がっていた。弱々しい声で喋るうんこ小路うじさんの口に呼吸器を押し込む。下を見ればフェイたち五人がボクらを見上げている。最後の力を振り絞ってうんこ小路うじさんをそちらに投げ落とす。これでいい。全ての力を使いきった。もう指一本動かせない。真下ではモグリ海豚が大きな口を開けてボクが落ちて来るのを待っている。あいつに食われてあいつの糞になればらぼで有効活用してもらえるだろう。そうすれば少しは世の中の役に立てるかもしれない。女神シリアナ様、最後にこのようなお役目を我に与えてくださったことを深く感謝いたします。ボクは目を閉じた。手を組んで最後の瞬間を待とうと思った。


「メルド、いつまで昼寝してんだい!」


 声が聞こえる。目を開けると遠い空で何かがきらめいた。大きな剣のようだ。そしてその剣を持って空を飛んでくるのは、


「アルピニイさん!」

「よくやった。後はあたしに任せな」


 流星のように海に突っ込んでいくアルピニイさん。轟く爆音。豪快に吹き上がる水しぶき。ああ、これでもう安心だ。海に落ちたボクの体はゆっくりと沈んでいく。


 ――メルド、メルド君、大丈夫? しっかりしてください。


 フェイとミエルダさんの声が混じって聞こえてくる。二人とも心配しなくていいよ。疲れたから少し眠るだけ……。

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