逃げるが勝ちの海の中
目を開けると青空が揺れていた。いや違う。揺れているのは青空ではなく海水だ。ボクは沈んでいるのか。おかしいな、救命胴衣はどうしたんだろう。胸に手を当てるとペチャンコに潰れている。破れたのか。あんなに激しく体当たりされたんだから破れて当然だよな。とにかく浮き上がらないと窒息してしまう。うっ、右腕を動かすと胸に激痛が走る。骨にヒビでも入ったのかな。ダメだ。これじゃ水をかくこともできない。ああ、沈んでいく。息が苦しくなってきた。
――メルドちゃん、聞こえる?
これは
――右よ。あたしは右上にいるわ。もしこの声が聞こえたのなら手を振って。
こちらに向かって泳いでくる
――よかった。急いで目を閉じて手で覆って。
言われたままにした瞬間、瞼の裏に閃光を感じた。口に何か押し込まれた。
――簡易呼吸器よ。吸って。
戸惑いながら大きく息を吸う。吐く。目を開けると
――言葉が聞こえて驚いた? これは頭の中に直接言葉を送る念話術。海に生きる者なら誰でも使える魔法術なの。さあ行くわよ。くわえた呼吸器を落とさないでね。
右から抱きかかえられたまま、ボクの体は猛烈な勢いで海中を進み始めた。片手と両足だけでこれほどの速度が出せるとは。
それにしても念話術とは驚いたな。ボクの言葉も届くんだろうか。試しに頭の中で「ありがとう」と言ってみる……返事はない。やはりボクの声は聞こえていないようだ。
――今は閃光玉の目くらましで錯乱しているけどすぐ追いかけてくるわ。今のうちに逃げられるだけ逃げるわよ。
――
――ウソ! メルドちゃんの声が聞こえる。あなた、念話術が使えるの?
――これが念話術なのかどうかはわかりません。ただ会話がしたいって思っただけです。
――じゃあ、この瞬間に習得したってこと? 信じられない。ああ、きっとあたしとメルドちゃんは固い絆で結ばれているのね。良き伴侶に巡り合えて嬉しいわ。死が二人を分かつまで愛し、慈しみ、貞節を守ることを誓います。
この非常時に何を寝ぼけたことを言っているのかなこのマッチョ海男。冗談は筋肉だけにしてほしいものだ。
――そんなことより今の状況を教えてください。
――万事休すよ。
――問題はメルドちゃんよ。海豚ちゃんは明らかにメルドちゃんを狙っている。今もほら、追いかけてきているでしょう。
振り返ると巨大な黒い物体が遠くに見える。その差は徐々に縮まりつつある。閃光玉による錯乱も長くは続かなかったみたいだ。
――どうしてボクが狙われているんですか。
――海豚ちゃんは糞に興味を示す動物なの。特に珍しい糞を腸に溜め込んだ生物には目がないのよ。今回突然浮上したのもメルドちゃんのウンコを手に入れるためだと思うわ。
自分のウンコがそんなに珍しいとは思えないけどな。しかしそうとわかればヤルことはひとつしかない。
――わかりました。ここで脱糞すればいいんですね。
――さすがメルドちゃん。よろしく頼むわ。
海水パンツをずらし、呼吸器を口から外して催便意術を詠唱する。
「
「降下!」
脱糞と同時に
――うまくいったわ。ひとまず出ましょう。
「ありがとうございます。おかげで助かりました」
「礼を言うのはまだ早いわ。海豚ちゃんは執念深いの。あのウンコで満足できなければまた追ってくるはず」
「それはまずいですね」
「とにかく一刻も早く浅瀬まで行きましょう。さすがの海豚ちゃんも浮けない場所までは追いかけてこないでしょうから」
遠くを見ると五つの頭が水面に浮いている。フェイたちだ。さらにその遠く、島の方角には小型船が見える。あれが救助艇なのだろう。フェイたちの方へ向かっている。
「まずはあの子たちの救助を優先させるわ。こっちは海豚ちゃんに追われているでしょう。船が来ても海豚ちゃんに襲われたら元も子もないものね」
正しい判断だ。モグリ海豚の標的はボクだ。ヤツをどうにかしない限り誰もボクを助けることはできないのだから。
「それにしてもこの呼吸器、小さいのにすごい性能ですね」
「でしょ。海豚ちゃんの腸内細菌を利用してらぼが作ったのよ。空気タンクはお稲荷さんほどの大きさしかないのに四半刻は使えるのよ。小さいからパンツの中にも収納できるしね」
うげっ、この呼吸器、ブーメランパンツの中に隠していたのか。妙にモッコリしていると思ったらこれだったんだな。
「ちょっと待って」
突然
「まずいわ。海豚ちゃん、浮かび上がってきてる。あれだけのウンコじゃ満足できなかったみたい。まだ出そう?」
腹に手をやる。いや、さすがにもう無理だ。大腸はすでにカラッポだ。
「すみません。出ません」
「なら逃げるしかないわね。呼吸器をくわえて。行くわよ」
左腕でボクをしっかり抱えると再び海に潜る
――浅瀬まであと少しよ。頑張りましょう。
――あの、どうして水中を泳ぐんですか。息ができないでしょう。
――水中のほうが早く泳げるのよ。息は心配しないで。常人の十倍は止めていられるから。
猛然と泳ぐ
――呼吸器、代わり番こに使いましょう。
――ありがと。厚意に甘えさせていたただくわ。
渡した呼吸器をくわえて大きく息を吸う
――うふふ、メルドちゃんとの初間接キスね。直接キスしたくなったらいつでも言ってね。
こんなに緊迫した状況で青少年健全育成条例に抵触しそうな冗談はやめてほしいものだ。それともリラックスさせるための軽口のつもりだろうか。
返事はせずに振り向くとモグリ海豚はすでにボクらと同じ深度まで上昇していた。その距離は徐々に詰められつつある。
――閃光玉はもうないんですか。
――ひとつしか持ち出せなかったの。タマタマは二つあるんだけど。
今度は下ネタジョークか。マッチョな華族様の肝っ玉はかなり大きいようだ。
――水面に出るわよ。
いきなり
「これは?」
「浮袋よ。ブーメランパンツに仕込んだ最後のアイテム。浮輪ほどじゃないけど体を浮かすことくらいはできるはず。ほら、早く膨らませなさい」
パンツの中から取り出したと聞かされては、さすがに口を付けるのはためらわれる。が、今はそんなことを気にしている状況ではない。息を吹き込んで膨らませると枕のような縦長の袋になった。これなら十分浮輪の代わりになる。
「
「あたしはここであいつを食い止めるわ。その間にそれに捕まって浅瀬まで逃げさない」
いつの間に取り出したのか手には小刀が握られていた。無理だ。いくら
「無謀すぎます。逃げてください。あいつが追っているのボクです。
「だから戦うのよ。あなたはあたしが招いたお客様。大切なお客様を守るのは主人の義務でしょ」
「お客様なんかじゃありません。組合から請け負ったボクらの業務は
「ああ、そうだったわね。それじゃメルドちゃんは解任するわ。これであなたはただのお客様、そうでしょ」
「で、でも」
「早く行きなさい! これ以上あたしをイライラさせないで」
「海豚ちゃん、すぐ成敗してあげるわ!」
モグリ海豚目掛けて猛然と突っ込んでいく
「
遠くから叫び声が聞こえた。三人の護衛官がモグリ海豚に向かって泳いでいく。その後にはフェイとミエルダさんも続いている。五人ともずっとボクらを見守っていてくれたんだ。そして
「できない。ひとりだけ逃げるなんてできっこない。ボクも戦うんだ!」
思い出せ。火トカゲを倒したあの時の自分を。タカノメさんの言葉を。ボクの尻穴は祝福されている。どんなことだってできるんだ。尻穴を燃やせ。極限まで燃焼し尽くせ。
「海の底へお帰り!」
荒波に身を躍らせながら宙に飛び出した
「
ボクは浮袋を放り投げると海に潜った。胸の痛みは少しも感じない。燃える尻穴がボクの足と手を動かす。沈んでいく
「うおおー!」
凄まじい勢いでボクと
「メルドちゃん、あなた、想像以上よ」
水面を突き破ったボクらは空高く舞い上がっていた。弱々しい声で喋る
「メルド、いつまで昼寝してんだい!」
声が聞こえる。目を開けると遠い空で何かがきらめいた。大きな剣のようだ。そしてその剣を持って空を飛んでくるのは、
「アルピニイさん!」
「よくやった。後はあたしに任せな」
流星のように海に突っ込んでいくアルピニイさん。轟く爆音。豪快に吹き上がる水しぶき。ああ、これでもう安心だ。海に落ちたボクの体はゆっくりと沈んでいく。
――メルド、メルド君、大丈夫? しっかりしてください。
フェイとミエルダさんの声が混じって聞こえてくる。二人とも心配しなくていいよ。疲れたから少し眠るだけ……。
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