心を鬼にするのはあなたのため
本採用になった最初の週は開発事業部全体の理解を深めることに費やされた。事業部の歴史、目的、主な業務などを学び、開発事業部の各課を見学して事業部の全体像を把握するのだ。
本来ならこの研修は開発事業部に配属された他の新人たちと合同で十月最初の週に行われるのだが、試用期間がひと月延長されたため十一月に行われた。無論、参加者はボク一人だけである。同期の職員と親密になれる機会を失ったのはちょっと悲しかった。
そして今週からは各課独自の研修が行われる。担当はミエルダさんだ。
「えっ、運動服で受講するんですか」
「はい。らぼから支給された濡れにくく破れにくく燃えにくく通気性抜群の運動服を持参してください。内容は運動場でお伝えします」
先週の終業間際にこう告げられた時から嫌な予感はしていたし、ある程度の覚悟はしていたつもりだった。しかし今週から始まった新人育成プログラムは「冗談はやめてください」と言いたくなるくらいハードできつくて情け容赦ないものだった。
「基礎体力がなくてはどのような業務も勤まりません。収集課新人研修が終了する二週間後までに次の目標をクリアしてください」
とのお言葉とともにミエルダさんから渡された紙には次のように書かれていた。
持久力:二里を半刻で走破。
筋力:十五貫の重量挙げを連続十回。
跳躍力:垂直に二尺、水平に七尺。
泳力:潜水で半町。遠泳は半里。
投擲:岩投げ十間。皿投げ二十間。
ここまでが必須条件。以下は推奨される項目。
懸垂連続二十回。腕立て伏せ二分刻で五十回。上体起こし一分刻で三十回。長座体前屈二尺半。以上。
「これとは別に戦闘技術も学んでいただきます。剣、槍、弓矢、格闘、魔術など武芸一般の基礎的な技は一通り会得してください。さらにその中から特化すべき戦闘術をひとつ選び技を磨いていただきます。これに関しては私ではなくその道の熟練者が指導に当たります」
聞いているうちにめまいがしてきた。これはもう職員の研修ではなく冒険者の修行なのではないだろうか。
「あのう、ミエルダさん。糞尿収集のためにこれだけの条件が本当に必要なのでしょうか」
「これでもまだ足りないくらいです。課長は『この程度では手ぬるい。もっと厳しく鍛えろ』と言われたのですが、『メルド君はまだ十二才の人族です。ドワーフ族やエルフ族の大人と同等に扱うべきではありません』と説得して、ようやくこの緩い条件にしてもらったのです。ですから頑張ってクリアしてください」
これでも職員の標準値を下回っているのか。本当にこの課でやっていけるのかな。自信がなくなってきた。
「あのう、もし二週間でクリアできなければどうなるのですか」
「その時は王立武士団に入団していただきます。大江山の鬼でも悲鳴を上げて逃げ出すと言われている王立武士団ブートキャンプで鍛えていただければ、数週間でクリアできるでしょう」
「死に物狂いで頑張ります!」
地獄の日々が始まった。すっかり体が鈍っていたのだ。王都の糞尿収集作業は肉体労働だったけど、馬車に乗って移動する時間が長くそれほど力を使う仕事ではなかった。しかも週に一度の休日は筆記試験に向けてひたすら勉強していた。運動不足は避けられなかったのだ。
「かなり体を絞る必要がありますね。メルド君のために特別メニューを作成しました。研究棟一階食堂に依頼しておきましたので、毎日そこで決められた料理を食べてください」
「えっ、一食がこれだけしかないの。次の食事時間まで持たないよ。うっ、しかもマズイ」
さらにきつかったのは食事制限だ。仮採用になってから体重が激増したことは自分でも自覚していた。なにしろらぼの食堂は無料で食べ放題なのだ。しかも孤児院での粗食とは比較できないほど美味しい。
女神シリアナ様に立派なウンコを捧げるため、という名目で朝昼晩お腹いっぱいになるまで食べまくった。そんな生活を半年以上続けていたら体に贅肉が付いて当然だ。毎日薪割りをしたり徒歩でお使いをしたりしていた孤児院の頃のほうが、今よりよっぽど健康的だったような気がする。
「魔法は苦手だなあ」
武器や素手で格闘する戦闘修練は基礎的な部分だけということもあり比較的楽しく行えた。だが魔法を使う術の修練はなかなか思い通りにいかなかった。これにはミエルダさんもお手上げだったようだ。
「人族と魔法術は相性が悪いと聞いていましたが、まさかここまでとは思いませんでした。仕方ありません。催便意術と催尿意術、この二つだけの習得で良しとしましょう」
この術は生物に便意と尿意を催させる術だ。収集課の職員にとって欠かせない術と言えるだろう。
「やっぱり剣にします」
特化する戦闘技術は剣術を選んだ。魔法の才能がないことはわかっているし、こんな貧弱な肉体では格闘なんて絶対無理。弓矢は遠方から攻撃できるので魅力的だったけど、矢が尽きたらどうしようもなくなるからね。
それに両親や妹と一緒に北方の名産品じゃがたら豆を作って暮らしていた頃は、農作業で鎌や小刀を毎日のように使っていた。刃物の扱いは結構慣れているんだ。
「剣を選んだのかい。今日からビシビシしごいてあげるよ」
「ええっ! 剣術の指導員ってアルピニイさんなんですか」
尻をムチで打たれた屈辱の思い出がよみがえってきた。さりとてあれ以上のひどい仕打ちを受けることはないだろう、と高を括っていた自分をぶん殴りたくなるくらいアルピニイさんの指導は鬼だった。
「そりゃそりゃ、もっと腰を入れて素振りしな! 息を乱すな、視線を逸らすな、反応が遅い。そんな動きじゃ死ぬよ。死にたくなきゃ本気を出しな!」
罵声しか飛んでこない。いや罵声の他に尻へムチが飛んで来る。死ぬほど痛い。尻穴が悲鳴を上げている。とても耐えられないので二日目からはズボンの尻に製造事業部の試作品である糞尿製座布団を入れておいた。これで尻穴も安心だ。
「それにしてもどうしてアルピニイさんが指導してくれるんですか。新人教育なんて課長自らが携わるような仕事じゃないと思うんですけど」
「剣術だからですよ。課長は魔剣士ですからね」
ミエルダさんは手短にアルピニイさんの略歴を話してくれた。らぼに来るまでは冒険者として王国のみならず大陸中を渡り歩いていたらしい。卓越した剣と魔法の技で数々の魔族を滅ぼし富と名声を手に入れたのだが、二百年ほど前に引退してしまったそうだ。
「今では課長の栄光を知る者は少なくなってしまいました。冒険者の間でもあくまで伝説上のダークエルフに過ぎず、実在しなかったと思っている者も多いようです。」
二百年前に引退か。アルピニイさんって何才なんだろうな。
「引退しても戦闘への情熱は残っているようで、剣技の修練を希望するらぼの職員がいれば全て課長が相手をしています。それだけで一日が終わることもあります。収集課の課長ではなく戦闘訓練課の課長とお呼びしたくなるほどです。そのような方に指導していただけるのですから、感謝と礼節を持って修練に励んでください」
「はい。心得ました!」
こうしてボクの地獄のような日々は続いていくのだった。
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