第3話 転機

 次の日、俺は定時で仕事を切り上げると、急いで教えてもらった店へと向かった。彼女が経営するカフェは、アパートから車で五分くらいの距離にある。小さな駅が近くにあって、カレーが完成すれば昼食需要もありそうな好立地だ。


 薄暗くなり始めた店の軒先に脚立を立てて、ペンライトを咥えたままカバーを外す。配線をチェックしてゆくと、どうやら断線を起しているだけのようだ。状態を見るだけの予定だったが、これなら今直してしまってもいいだろう。俺は車から必要な道具を持ち出すと、配線を直したついでに周りのクリーニングをしてから、配線を保護するカバーをはめ込んだ。


「もういいですよ。ブレーカー戻してください」


「はい」


 ブレーカーを操作して戻って来るなり、彼女は看板を見て歓声を上げた。


「わあっ、すごい、光ってる!」


 日の落ち切った店の軒先に、温かみのある白熱灯がいくつも輝いている。灯りに照らし出された看板には、「なごみcafe」の文字が浮かんでいた。


「なごみカフェ、いい名前ですね」

「ふふ、ありがとうございます! 実は私の名前、和風の和に美しいって書いて、なごみって読むんです」

「なごみさんかぁ……あっ、すいません」


 つい名前を反芻して謝る俺に、彼女はおずおずと口を開いた。


「いえ、あの、よければ……」

「はい、なんでしょう」

「やっぱり、なんでもないです! あの、ごはんできているので、食べて行ってくださいね!」


 彼女の頬がちょっと赤くなっているように見えるのは、ライトが暖色系なせいだけだろうか。俺は少しだけ期待しながら、カフェの扉をくぐった。


 カウンターの席に座ると、すぐに温かいカレーとおかずの乗ったプレートが目の前に並んでゆく。一緒に食べるのだと思い込んでいた俺は少しだけがっかりしたが、彼女は作業が残っているようだった。


 俺はあっという間に二枚の皿を空っぽにすると、手を合わせて頭を下げた。


「今日もホントに、すげぇウマかったです!」

「ふふふ、ありがとうございます。実はこれで、完成にしようと思ってて」

「おお、おめでとうございます! じゃあ試作品もらうのも、これで最後ですね。これまでごちそうさまでした。次からは、客として食いに来るようにしますよ!」


 俺はできるだけ下心がなさそうに見えるよう笑みを作ったが、しかし彼女は、一転するように眉に憂いの陰を浮かべてみせる。


「あの、俺なにか失礼なことを……」

「あっ、ごめんなさい、違うんです! 平野さんって、本当に優しいなと思って……。私、行き詰っていたときに平野さんがうまかったって掛け値なしの笑顔で言ってくれたから、やっぱりがんばろうって、思えたんです」

「いやそんな、先に優しくしてくれたのは横川さんですよ。」

「でもやっぱり、優しいです。ありがとうございます」


 彼女はそこで声を詰まらせると、ひと粒、涙を零す。彼女は慌てて布巾を手に取ると目元を押さえた。


「あ……ごめんなさい。最近ちょっと、いろいろあって……」

「あの、俺でよければ話を聞きますけど……」

「ありがとうございます。でも、今日はもう遅くてご迷惑になりそうなので……また今度、ゆっくりお話きいてください。ではもう少し仕込みがあるので、済ませちゃいますね!」


 押さえていた布巾を取ると、もうすっかり営業用スマイルになっている。個人的な悩みを聞かせてもらうには、まだ早かったんだろうか。でも今の感じだと、少なくとも印象は悪くないはずだ。焦らず、ゆっくり距離を縮めていけばいい。


 そのままもらったおかわりを、次はゆっくりと、俺は味わうことにした。明日の仕込みをしている彼女の後ろ姿をながめつつ、夜の静かなカフェで二人きり。


 くるくると良く働く彼女のなだらかな腰元で揺れる黒いカフェエプロンを眺めながら、俺はサグなんとかという緑色のカレーをスプーンですくい取った。無防備な後ろ姿を見ていると、どんどん空腹感が増してゆく。俺はまるで飢えを抑え込むかのように、次々とスプーンを動かした。


 二杯目の皿が空になったころ。見計らったかのように戻ってきて、彼女は言った。


「美味しそうにいっぱい食べてくれる人、すきです」

「え……」

「昔から私が作ったごはんを美味しそうに食べてくれる人を見るのが好きだったから、こんなふうにお店を持つのが、ずっと夢だったんです」


 なんだ、そういう意味か。まあ、現実にそう一足飛びに上手い話はないよな。でもこれは、やっぱ少しは脈アリだと思ってもいいんじゃないだろうか。


 夢のために頑張っている姿はキラキラと眩しくて、俺は目を細めた。彼女が俺だけのものになってくれたら、どれだけ幸せだろう。


 せっかくなので三杯目を頼むと、彼女は嬉しそうにおかわりをよそってから、再び仕込みに戻ったようだった。再びその後ろ姿を目で追いかけていると、業務用らしき大きな冷蔵庫から枝肉を取り出しているのが見える。


「すげぇ、そんな本格的な肉を使ってるんすね! それ、なんの肉なんですか?」


 牛にしては明らかに小さいが、俺の太腿くらいはあるだろうか。そういや味も悪くはないがちょっと強めのクセがあって、たぶん牛でも、豚でも、ましてや鶏肉でもなさそうだ。


羊肉マトンです。ハラール認証取ろうと思って」

「へぇ……」


 認証っていうのはなんかよくわからんが、カフェ飯らしいオシャレな響きだ。


「でも牛より硬くて香りのクセも強いから、仕込みに時間がかかるんですけど……コトコト煮ながら、美味しくなぁれ、美味しくなぁれって唱えていると、本当に美味しくなるんですよ。知ってました?」


 彼女はつややかに光る唇に指先をそえると、冗談めかして笑いながら言う。だが彼女の口からでてくると、本当のことのように思えた。


「いやほんと、すげぇ美味いっす! もう充分、ここらで一番ウマいカレーですよ!」

「ふふ、ありがとうございます! まだがんばろうって思えるの、平野さんのおかげです」


 彼女の笑顔を見ていると、久しぶりにフワフワとして明るい気分になるようだった。こんな人生もう終わりだと思っていたが、これは神様がくれた最後のチャンスなのかもしれない。


 こんな駄目な俺でも、彼女のためならもう一度だけがんばれる――そんな気がした。

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