動き出した男 

 男の肩に手を触れる。機会音声は流れず、代わりに男の体がぴくりと動いた。

 予想通りだ。俺やカノンに緊張が走る。レイは表情を変えずに男を見つめていた。


「さっさと名前を書け……ん?」


 直前まで放っていた言葉の途中で異変に気付いたようだ。

 

 周囲が急に無音になり、そして身動きがとれない。男の体は麻紐できつく縛られている。バランスを崩し床に尻餅をついた。「いてっ!! な、なんだってんだ!?」


 彼が手にしていたサイレンサー付きの銃はレイが持っていた。彼女に持たせるのは抵抗があったが、「あたしより銃の扱いに慣れてるわけ?」というレイの問いに答えることが出来ず、結局銃は彼女の手に。

 カノンは驚きと悲しみの混じった複雑な表情をしていた……。


 カノンにとってレイは、自分と同じ温室育ちの少女なのだ。まさか妹が別の世界線でアウトローな人生を歩んでいたとは、直接見るまでにわかに信じられなかったのだろう。


 パニクる男のこめかみにレイが静かに銃を突きつけた。……その仕草たるや、何とも板に付いて見えるのだから不思議だ……。


 男はさすが裏社会の人間だ。混乱していることは間違いないはずなのに、銃を突きつけられとっさに自分の立場を理解したようだ。無理矢理に意識を落ち着かせ、じろりとレイを睨む。


「……俺はキツネにでも化かされてんのか?」男が言った。


 レイはそれに答えず、ゆっくり屈んで男と目の高さを合わせる。


「久しぶりね。ムラカミ」


 男の視線がわずかに揺らぐ。


「ふっ……誰のことだ? 俺の名前は……」


「ヨシムラの方がいい? それとも今はジェイ・リーだった? 中国系マフィアになりきってるときはその名前よね?」


 男は鋭くレイを睨む。


「……お嬢ちゃん。どこで俺の情報を掴んだのか知らないが、深入りするなら相手を選んだ方がいいぜ?」


「あら怖い。でも興味あるわ? 縛られたアンタに何が出来るのか」


 そこだけ裏社会の空気が立ち込めていた。縛られていてなお凄みに迫力のある男と、動じず淡々と相手を挑発するレイ。うかつに入り込めない……。


「ちっ……。おい、この状況を教えろ。何がどうなった?」


 男は周囲を見渡しながら言った。俺と目が合ったが、どうでも良さそうに再びレイを見る。どうやら眼中に無いらしい。複雑。


「質問するのはこっち。神下グループの総帥を銃で脅している理由は?」


 男は答えない。


「あの契約書は? 何を約束させたの?」


「お前らに何の関係がある? 机の上に置いてあるんだ。知りたきゃ勝手に読めばいいだろ」


 ぶっきらぼうに言った。

 男に言われるまでもなく契約書はすでに三人で確認していた。独特な言い回しのせいで非常に分かりにくいが、簡単に言えば神下グループが持つ権利の大半を第三者に譲り渡すというものだった。

 この契約が成立したことでレイたちの祖父は総帥を降りることになったのだろう。カノンとレイが署名させられた契約書も同様の内容である可能性が高い。総帥に連なる血縁者全員が、似たような契約書に名前を書かされたんじゃないだろうか。


「契約書は読んだ。聞きたいのは、なぜあなたがこの人を銃で脅しながら、こんな理不尽な契約書に名前を書かせているのか、ということよ」


 男がふうと溜息をつく。


「聡いお嬢ちゃんだ。俺の娘とそれほど年も違わないはずなんだがなぁ」


「あんたに娘はいないでしょ。同情を誘いたいなら余所でやって」


 打って変わって男は舌打ちをする。そしてじろりと俺を睨んだ。


「おい兄ちゃん! この女どもはアンタの手下か? 交渉してやるからコイツを下がらせてくんねーか? 女子供は抜きにして俺とアンタで話し合おう」


 それは無理な相談です。この子たちは手下じゃないし、むしろ交渉事ならレイの方が得意だろうし……何よりあなたと二人きりとかマジで無理。


 なんて考えているとレイが銃を男のすぐ足元に向けて発砲した。


 サイレンサー付きなので銃声はそこまで大きくない。でも高そうな絨毯にポッカリと穴があいて硝煙が立ち込めた。


「あんたは今あたしと交渉してるの。なめんなよ、クズ野郎」


 怖い……怖いよレイさん。カノンもどん引きしてるよ。


「周りを見てみなよ。あんたの部下はどこ? いる?」


 先程まで部下がいたであろう空間に目をやり、男が口をつむぐ。


「これは夢でも何でもないの。あんたはあたしの質問に答えるしかないのよ」


  男はぐうっと唸りながら下を向き、呟いた。


「お前ら一体何者なんだよ? 何で俺をこんな目に合わせるんだ?」


「個人的な恨みよ。あんたは覚えていないでしょうけど」


 何のことか分からないといった顔で男がレイを見る。


 実際、飛行機事故のあった未来とは異なる世界だ。この男にしていることは理不尽な八つ当たりと言えなくもないが……まあ事故を起こした男と同一人物なんだから仕方ない。甘んじて受け入れてもらおう。


「ちっ……分かったよ。だが俺は金で雇われているだけだ。大したことは知らねーぞ?」


「話して」


 レイに促され、男がここに来た目的を語り出した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る