侵入してみたが……

 玄関で靴を脱ぎ、吉川さんの姿を静かに探した。

 音を立てても関係ないのだが、一応だ。


 トイレにいたらどうしよう。出直すか?

 出直したところで状況は変わないが……。

 

 なんて心配をよそに、俺は彼女を見つける。


 吉川さんはリビングに敷かれたウールの絨毯に座り、小さなテーブルにもたれかかっていた。

 何か考え事をしているようにも見える。


 心臓は高まり、まるで部屋中に鼓動が響いているように思える。


 彼女の向かい側にそっと腰を下ろす。


 会社で見慣れたその人が、目の前で微動だにすることなく座っている。

 不思議な気持ちだ。


 孤独な世界で知り合いに会えた喜びと、無断で住居侵入しているという暗い興奮で気分がハイになっている。どうしたらいいか分からず、とりあえず俺は、


「おっす、調子はどう?」 と無駄に元気な声で尋ねてみた。


 無音の室内で大声を出すという謎の開放感。

 ここで俺は何をしても自由なのだ。

 

 いつしか彼女の部屋に無断で忍び込んだ罪悪感は消え、代わりにワクワクした気持ちが心の奥から湧いてくる。

 中学生だった頃の妄想に、久々に脳が支配された。

 もし時間が止まったら俺はあんなこと……こんなこと……。


 それが現実になり、そして目の前には恋心を抱く女性が実際に座っているのだ。


 どうする……と、とりあえずキスでもしちゃう?


 こうなるともう抑えられない。

 テーブル越しに身を乗り出し、吉川さんの唇をめがけ顔を近づける。

 この背徳感……! やばい、俺は変態だ! でもそれが男ってもんじゃない?


 適当な理屈をこじつけて自らを正当化し、いざキスを……。



 ……って、あれ?


 顔を近づけてふと気付く。

 彼女はうっすら涙を流しているのだ。


 斜めに顔を向けていたせいで分からなかったが、よく見ればこちらに向けた側にも、頰に涙の流れた跡がある。


 ……どうしたんだろう?


 軽くテンションが下がったので一旦キスを止め、彼女が涙する理由を考える。


 まさか失恋? ……いや考えたくないわ。(逆にチャンスか?)


 普通にあくびをしただけ?

 にしては悲しげな目をしている。


 何となく辺りを見渡すとテーブルの上にノートが開かれていることに気づいた。


 ふむ、日記みたいだ。

 

 読んでもいいのか? ……いや今さらだろ。部屋にまで侵入しといて。


 日記を手にし、丁寧に書かれた彼女の字を目で辿る。


〈母の体調が良くない。病院で精密検査をしたけれど、重い病気の可能性もあるらしい〉

 

 彼女のお母さん? そういや母子家庭だって聞いたな……。

 続きを読む。


〈昨日久しぶりに実家に帰った。母が少し痩せたように思う。もし、母になにかあったらどうすればいいの? たった一人の家族なのに、どうして私は一緒に暮らしてあげなかったんだろう。一緒なら体調の変化にだって気づいてあげられたのに。ごめん、ごめんね、お母さん〉


 日記はここで終わっている。

 今日の日付だから、起きがけに書いたものなんだろう。


 何と言うか……重い。

 

 俺は一体何やってんだろう……。

 彼女がこんな状況なのに興奮度MAXで不法侵入までしてるなんて……。ゲスじゃん……。


 あのDV男を見て懲りたはずなのにな。反省。


 うなだれたまま彼女の前に正座する。


「吉川さん……すいませんでした。今日は……もうこれで帰ります。勝手におじゃまして申し訳なかったです」


 聞こえちゃいないが誠意は尽くす。せめて少しでも罪が軽くなりますように。


「お母さんのこと大変ですが……頑張ってくださいね。さようなら」


 そう言って立ち上がる。

 

 時間が止まってるからって、やりたい放題していいわけじゃないよな。


 人には尊厳てものがあるんだし……そう自分に言い聞かせる。


 意識していないと欲望のタガは簡単に外れてしまいそうだ。

 この世界ではそれがまかり通ってしまうのだから。


 同期のお母さんの病気がきっかけなんて変な感じだが、ともかく心に決める。

 この先出来る限りまっとうに生きていこう。そして頑張って時間を取り戻そう。ちゃんと動いている彼女に会いたいからね。


 その為に、まずは無数に散らばった赤い点を一つ一つ消していこう……。

 どうせやるしかないなら立ち止まっている時間がもったいない。


 そしてもし時間が元に戻ったら彼女に告白しよう。

 彼女の苦しみを一緒に背負い、正々堂々この部屋に戻って来るんだ。


 そう決意し部屋から立ち去ろうとする。


 その時、足元に落ちた1枚の紙切れに気付いた。さっきまでは無かったと記憶しているから、俺が日記帳を読んだときに挟んであったものを落としたんだろう。


 ちらりと文章を見て目が釘付けになる。

 1ヵ月ほど前の日付だが、俺の名前が書いてあるのだ……。


〈イベントが終わってだいぶ経つ。賢太さんと話す機会がない。彼は私をどう思っているのだろう。単なる仕事仲間? 私はこんなにも惹かれてるのに、気持ちを確かめる勇気がない。〉


 あれれ?


 こ、これはまさか……両想い……? 


 マジで?


「あぐぁ、か、神様!! ありがとうございますっ……」


 思わずカッツポーズとともに変な声で祈りを捧げる。

 

……だってこんなに嬉しい気持ちになったのは久々なもんで。 


 気になっていた女性がまさか同じ気持ちでいたなんて。

 ああ良かった……彼女を変態プレイの犠牲者にしなくて。


 


 彼女に目で別れを告げ部屋を立ち去る。


 よし、やるか。

 親指を叩いて地図を広げた。


 善は急げだ。まずは目についた場所をかたっぱしから訪れ、点滅を消していくことにしよう。


 アパートを出て走り出す。

 助けを待つ人々の元へ!




 ……だがすぐに頭を抱えることに。

 

 気付いたのだ。

 徒歩で行くには目的地が遠すぎるということに。


 まずは車の調達か……。



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