第3話 侵入してみたが……
玄関で靴を脱ぎ、有川めぐみの姿を静かに探した。
音を立てても関係ないのだが、一応だ。
トイレにいたらどうしよう。出直すか?
出直したところで状況は変わないが……。
なんて心配をよそに、有川めぐみを俺は見つける。
彼女はリビングに敷かれたウールの絨毯に座り、小さなテーブルにもたれかかっていた。
何か考え事をしているようにも見える。
心臓は高まり、まるで部屋中に鼓動が響いているように思える。
有川めぐみの向かい側にそっと腰を下ろす。
会社で見慣れた彼女が、目の前で微動だにすることなく座っている。
不思議な気持ちだ。
孤独な世界で知り合いに会えた喜びと、無断で住居侵入しているという暗い興奮で気分がハイになっている。どうしたらいいか分からず、とりあえず俺は、
「おっす、調子はどう?」 と無駄に元気な声で尋ねてみた。
無音の室内で大声を出すという謎の開放感。
ここで俺は何をしても自由なのだ。
いつしか彼女の部屋に無断で忍び込んだ罪悪感は消え、代わりにワクワクした気持ちが心の奥から湧いてくる。
中学生だった頃の妄想に、久々に脳が支配された。
もし時間が止まったら俺はあんなこと……こんなこと……。
それが現実になり、そして目の前には恋心を抱く女性が実際に座っているのだ。
どうする……とりあえずキスでもする?
こうなるともう抑えられない。
テーブル越しに身を乗り出し、彼女の唇をめがけ顔を近づける。
この背徳感……! やばい、俺は変態だ! でもそれが男ってもんじゃない?
適当な理屈をこじつけて自らを正当化し、いざキスを……。
……って、あれ?
顔を近づけてふと気付く。
彼女はうっすら涙を流しているのだ。
斜めに顔を向けていたせいで分からなかったが、よく見ればこちらに向けた側にも、頰に涙の流れた跡がある。
……どうしたんだろう?
軽くテンションが下がったので一旦キスを止め、彼女が涙する理由を考える。
まさか失恋? ……いや考えたくないわ。(逆にチャンスかも?)
普通にあくびをしただけ?
にしては悲しげな目をしている。
何となく辺りを見渡すと角に置かれた机の上にノートが開かれていた。
立ち上がって机の前に行く。
ふむ、日記みたいだ。
読んでもいいのか? ……いや今さらだろ。部屋にまで侵入しといて。
日記を手にし、丁寧に書かれた彼女の字を目で辿る。
〈母の病状が悪化。手術はもう難しいとのお医者様判断。最後は自宅で過ごすことを勧められる〉
彼女のお母さん? 重い病気なのか?
続きを読む。
〈昨日、母が実家に帰る。緩和ケアを始めることに。もっと旅行に連れて行けば良かった。母がいなくなったら、私はどうするの? たった一人の家族。なぜ一緒に暮らしてあげなかったんだろう。そうすれば体調の変化にも気づいてあげられたのに。ごめんね、お母さん〉
日記はここで終わっている。
今日の日付だから、起きがけに書いたものなんだろう。
何と言うか……重い。
俺は一体何やってんだろう……。
彼女がこんな状況なのに興奮度MAXで不法侵入までしてるなんて……。ゲスじゃん……。
あのDV男を見て懲りたはずなのにな。反省。
うなだれたまま彼女の前に正座する。
「めぐみさん。……すいませんでした。今日は……もうこれで帰ります。勝手におじゃまして申し訳なかったです」
聞こえちゃいないが誠意は尽くす。せめて少しでも罪が軽くなりますように。
「お母さんのこと大変ですが……頑張ってくださいね。さようなら」
そう言って立ち上がる。
時間が止まってるからって、やりたい放題していいわけじゃないよな。
人には尊厳てものがあるんだし……そう自分に言い聞かせる。
意識していないと欲望のタガなんて簡単に外れてしまいそうだ。
この世界ではそれがまかり通ってしまうのだから。
同期のお母さんの病気がきっかけなんて変な感じだが、ともかく心に決める。
この先出来る限りまっとうに生きていこう。そして頑張って時間を取り戻そう。ちゃんと動いている有川めぐみに会いたいからね。
その為に、まずは無数に散らばった赤い点を一つ一つ消していこう……。
どうせやるしかないなら立ち止まっている時間がもったいない。
そしてもし時間が元に戻ったら彼女に告白しよう。
彼女の苦しみを一緒に背負い、正々堂々この部屋に戻って来るんだ。
そう決意し部屋から立ち去ろうとする。
その時、彼女のひざに落ちた1枚の紙切れに気付いた。さっきまでは無かったと記憶しているから、きっと日記帳を読んだときに挟んであったものを落としたんだろう。
ちらりと文章を見て目が釘付けになる。
1ヵ月ほど前の日付だが、俺の名前が書いてあるのだ……。
〈イベントが終わってだいぶ立つ。賢太さんと話す機会がない。彼は私をどう思っているのだろうか。単なる仕事仲間? それとも知人? 私はこんなに好きなのに。気持ちを確かめたい。でも勇気がない。〉
これはまさか……両想い……ってこと? マジで?
「か、神様!! ありがとうございますっ……」
思わずカッツポーズとともに神に祈りを捧げる。
だってこんなに嬉しい気持ちになったのは久々だったから。
気になっていた女性がまさか同じ気持ちでいたなんて、奇跡だよなぁ。
ああ良かった……彼女を変態プレイの犠牲者にしなくて。
彼女に目で別れを告げ部屋を立ち去る。
よし、やるか。
親指を叩いて地図を広げた。
善は急げだ。まずは目についた場所をかたっぱしから訪れ、点滅を消していくことにしよう。
アパートを出て走り出す。
助けを待つ人々の元へ!
……だがすぐに頭を抱えることに。
気付いたのだ。
徒歩で行くには目的地が遠すぎるということに。
まずは車の調達か……。
俺は車を所有していない。よって、移動手段にそれを求めるならば購入するしかないのだが……。
時間停止世界で営業してるディーラーは存在しないだろう。
通り沿いにある某車メーカーの看板を見上げる。
こういう事態だし、悪いが協力してもらおう……。
店内に入ろうとするがドアが開かない。
そうか、電気が止まっているから自動ドアが開かないんだ……。
そもそも営業時間ですらないし。
ダメじゃね?
車のキーがなけりゃどうにもならない。
店の外にある試乗車のそばへ行く。
まさかキーが付けっ放しということはないだろうが、淡い期待を込めてだ。
中を覗き込むと最新のステレオが見えた。コンパクトカーだがオプションはフル装備されているようだ。購入したら300万円くらいか?
ドアに手をかけると、静かに開いた。
鍵はかかっていなかった……。有川めぐみの家も鍵が開いていたが、偶然が続いたのかな?
運転席に座りエンジンキーを探すが、やはり見当たらない。
そうだよな、置いてるわけがない。
ならどうするか。
車がダメなら自転車もある。だが市内はともかく他県への移動には無理があるよな。それこそ何年かかるって話だ。
通りをまばらに走っている車に目をやる。
今は停止しているが、実際にはかなりのスピードを出しているはずだ。
あれを動かすことは出来るのか?
直感だが無理だと思う。すでにエンジンがかかり、アクセルが踏み込まれた状態で停止しているのだ。仮に動いたとしても、どんな状態になるのか分からなすぎて怖い。
信号で止まっている車は……?
それも難しそうだ。
エンジンはかかったままだ。更にエンジンをかけ、走行するという行為は不可能だろう。
ダメだ。どうしても理屈っぽくなる。
仕方ないといえばそうだが。ここでは何もかも未知なんだしな。
どういう物理法則が働くかだけは、慎重に検証する必要がある。
病院が稼働してない以上、大怪我をすればそこでゲームオーバーなのだ。
そんなことを考えながら何気なくエンジンボタンを押してみる。
ブルルンと車が振動した。
エンジンが……かかった?
マジで? 何で?
でもこれで移動が可能になる。
もしかして超絶ラッキーなんじゃ……!
もう一度車内を見回すが、やはりエンジンキーはない。
どうしてエンジンがかかったのか不思議ではあるが、まあいい。
ともかく車を発進させ、目的地に向かい通りを北上した。
ガソリンも満タンに近い。当面は問題なく走れるだろう。
ルームミラーに小さくなっていく某ディーラーの看板に向けて、「ありがとう。車、大事に使います」と呟いた。
道路のあちこちで停止している車を縫うように避けて走る。
さすがにナビは使えないようだが、持ち前の地図を見ながら道を進んだ。
信号に足止めされないおかげで、とてもスムーズに目的地へたどり着く。他に動くものがないというのは非常にストレスがなく快適だ。
車を降りて、地図上で赤く点滅する雑居ビルの前に立つ。
嫌な雰囲気だな……。
さっきのオッサンのことを考えると、ここでも結構えぐい事件が起こってるに違いない。
あー、憂鬱だ。
ビルのドアを開けて中に入る。
6階建てのビルに十数個のテナントが入っているらしい。一つ一つ探した方がいいのか?
それをする前に、人差し指と親指を再び擦り合わせた。もしかしたら……。
予想通り地図はどんどん詳細になり、最終的にビルの見取り図を表示する。
どれだけ精密なんだろう、この地図。
ともかく一階に赤い点はない。
次の階はどうだ……。ないか。次の階は……。あった。
目的地は4階のひと部屋だ。
エレベーターは使えないので非常階段から昇る。
ふうっ、普段運動していないせいで足腰に来るぜ……。
目的の部屋の前に行き、ドアノブを回す。
ここでも鍵はかかっていない。ギィッと音がしてドアが開いた。
中は薄暗く、入り口横の窓からは夜の街が見えていた。
また時間軸がズレている。壁に掛けられた時計は23時を指していた。
部屋の奥へ進むと、思わず目を背けた。
一人の男性が裸のままベッドにくくりつけられている。それを複数人の男が囲み、その内の一人が横たわる男の腹部にメスで切れ込みを入れていた。切っ先からへその辺りがパックリと割れ、鮮血とともにピンク色の臓器が奥に見えた。
ベッドは、マッサージでよく使われるような白い簡素なものだ。男とベッドの間にはビニールが敷かれ、おびただしい血が流れている。
ガチでやばい……。吐きそう……。
男の口にはタオルを巻かれ、その表情が苦悶でひどく歪んでいた。
ああ……、この人は麻酔も打ってもらえず手術を受けている……。
手術……。こんな雑居ビルで?
臓器目的か……。
部屋の隅には2、3人の男女がロープで縛られたまま体育座りさせられている。
血の気が引き、怯えた表情でベッドの男を見つめていた。
次はこの人達の番なんだ。
見たところ日本人じゃない。
どんな理由で連れて来られたのか分からないが、不本意であることは間違いない……。騙されたか脅されたかしたんだろう……。えげつないな。
こんな光景をいつまでも見ていたくないのでさっさと終わらせよう。
そう思い、地図上の赤い点滅が黄色に変わるのを待つ。
ところがいつまでも変化する気配がない。
何で?
どうすればいいんだろう。手順が必要なんだろうか。
DV男の時みたいに、手術する男の体を押してみる。
マスクをして手術帽をかぶっているが、隙間から見える目はカミソリのように鋭い。
相変わらず点滅に変化はない。
もし体に触れることが何かのスイッチならば、その場にいる犯罪者全員を触らないといけないのか?
手術する男の他に、臓器を入れるであろう容器を抱えた坊主頭の男、たばこをくわえてニヤニヤしながら手術を眺める男、それぞれに軽くタッチする。
すると地図の赤い点が点滅を止め黄色く変わる。予想通りだ。
と思ったら、黄色い点が再び赤くなり点滅を始めた。何でやねん。
他にも消す人間がいるのか……?
ちょっと嫌だったが、手術が行われている隣の部屋を覗いてみた。
何とそこでも手術が行われている。
オイオイふざけんな、お前らどんだけだ。
こちらで手術を受けているのは女性だ。隣の部屋の男同様に全裸で、俯せにされている。
冗談じゃないよまったく。こんなの毎回見てたらおかしくなりそうだ。
手術している男に触れると、赤い点滅が黄色く変わる。今度こそコンプリートのようだ。
もう一度男に触れると、「捕捉シマシタ」という機械の音声が響き、男がパシュッと消えた。
隣の部屋に戻り、容器を持った男、タバコを吸っている男を順々に消していく。
そして最後に手術中の男に触れたときだった。
有り得ないことが起こる。男がなんと突然動き出したのだ。
顔を上げハッとしたように辺りを見渡す。周囲から音が消えたことですぐさま異変に気付いたのだろう。そして俺と目が合う。
こういうとき何て話しかけたらいいんだ?
……こんばんは、とか?
男は驚きながらメスを構えて叫んだ。
「だ、誰だお前は!! 何をしてる!!!」
いや、むしろそっちが何してんすか!
なんてことを口に出している余裕は無い。
男が動き出したことは結構な衝撃だった。驚きと恐怖で心臓がバクバク鳴り始める。
「お、落ち着きましょう。えー……っと」
いかん、どうすればいいんだ? この状況。落ち着けと言って落ち着くやつなんていない。しかも相手は麻酔無しで腹をかっ捌く犯罪者だぞ? そんな人種と交流したことがないし、正直テンパって考えがまとまらない。
しかしそれは相手も同じらしい。時間停止した世界に動揺を隠せないのか、叫びながら俺に襲いかかってきた。
「何をしてると聞いている!!!」
相手は鋭いメスを持っている。かすっただけで流血は免れないというのに、胸ぐらを掴み今にも突き刺さんばかりに目の前でそれを振りかざした。
さすがに怖くなり、足で思い切り男を突き飛ばす。
うまいぐあいに股間にクリーンヒットし、男は白目を向いて倒れ込む。そのはずみにベッドの角に頭をぶつけ、完全に意識を手放しぐにゃりと崩れ落ちた。
ひとまず防衛には成功したようだが……。
すると、再び機械の音声が辺りに響いた。「——重要人物、捕捉シマシタ」
そして男がパシュッと宙に消える。
重要人物だと? 犯罪者にもランク付けがあるのか?
ともかくマジで驚いた……。心臓のバクバクがまだ止まらない。動き出すとかホント勘弁……。
男が消えたとたん、部屋に明るい陽が差し込んだ。窓にかかったカーテンを開くと澄んだ青空が広がっている。
時間軸が戻ったみたいだな。任務完了だ。
……でもベッドの男は腹を開かれたままなんだけど。これ、放置しといて大丈夫なのか?
DV男の時は外へ出て戻ったら室内の状況が変わっていた。ここもそうなのかな?
試しにいったんドアの外へ出て、もう一度中へ入ってみた。すると、ベッドの男もロープでしばられた男女も忽然と姿を消している。
代わりに段ボールが所狭しと積み上げられ、どうやら部屋ごと倉庫に使われているらしかった。
なるほど。あの人たちの無事はともかく、この部屋が違法な手術室として使われることはなくなったのだ。
やれやれ。そう思いながらビルを出る。
しかしキツイ光景だったな。2件目が終わったところなのに精神の摩耗が著しいんだが。
指をこすり合わせ地図を開く。
点滅が減ることもなく、チカチカと騒々しく光っていた。
これ……いくつあるんだろう?
ひい、ふう、みい……ダメだ。数える気にもならない。
片っ端から消してやると息巻いてはみたものの、勢いでどうにか出来る量じゃないのだ。冷静に頭を使い、計画的に行動する必要があるな。
ひとまず家に帰ろうか。
自由に動き回れるとはいえ、さすがに着の身着のままではマズイ。とても長い旅になるのだ。必要最低限の準備はしてから出発すべきだな。うん。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます