第2話 範囲が広い

 期待を込めてベッドから起き上がる。


 さあ、どうだ。時間は戻ったか?

 祈りながら枕元の時計に目をやる。



 ……8時30分だ。

 秒針はぴくりとも動いていない。


 窓の外も相変わらず。

 鳥は空に張り付いたままだし、さっき見かけたジョギング中のおばさんも同じ場所で浮かんでる。


 変わったことと言えば、片方の視野を覆っていた地図が消えたくらいか……。


 階段を降りてリビングに向かった。

 世間の時間は止まってるとはいえ、俺は自由に動けるのだ。喉は渇くし腹も減る。


 冷蔵庫を開け、中見を物色する。

 コンロは使えないから生で食べれるものじゃないと。

 

 ハムやレタスを食パンにはさみ、牛乳と一緒に遅めの朝食を食べた。

 味はいつも通り。

 

 食べ終わるとトイレに行って用を足す。ありがたいことに水はちゃんと流れるらしい。


 シャワーも浴びたかったが、お湯は出そうにないのであきらめる。


 幸せそうに眠る愛猫のシオンを撫でたあと、リビングのソファに腰を下ろし、水で溶けるインスタントコーヒーを口に含んだ。


 これからどうするか……。

 時間が戻らない理由がまったく分からないし、そもそも時間が止まった理由さえ謎なのだ。

 

 たぶん目的はあるんだと思う。

 さっき目の中に浮かんでいた地図がそう思える理由だ。


 赤い点滅の場所で事件が起きており、おかげで被害を受けていた女性を助けることが出来た。といっても俺がしたのは男に触れたことだけ。そのあとは勝手に消えてくれたのだが……少なくとも彼女があれ以上の怪我を負うことはなくなった。


 まるで誰かが俺を世界のシステムの裏側に意図的に放り込んだみたいだな。


 そういや消えたあの男は一体どこに行ったんだろう?


 思い出すと同時に男への嫌悪感がわき上がる。

 まさかこの世から消滅したとか……。

 だとすると俺のせい?


 うわ……マジかよ。


 うーん。もう一度あの家に行ってみるか。

 やり残したことが他にあるのかもしれないし。


 靴を履き外へ飛び出す。

 

「こんにちわー」 ジョギングするおばさんと、犬を連れたおじいさんに挨拶する。返事はない。当然か。


 さきほどの家の前に立つ。

 あの男がもういないことは分かっているが、中に入るのがとても怖い。


「おじゃまします」 そうつぶやいて玄関の敷居をまたぐ。


 すると中の様子がずいぶん違っていた。


 時間軸のズレが無いのはもちろんだが、それとは別に、家の中がきれいに片付いているのだ。


 そういえば玄関前に散らかっていたバケツやなんかも無くなっていた。


 中へ上がり込んで部屋の戸を開ける。

 

 先程の女性がいた。それと小さな女の子も一緒だ。

 二人で朝食を食べている。女の子はジェスチャーを交えたおしゃべりの途中で、女性もそれを笑いながら聞いている。顔の腫れはなく殴られたあともない。


 どういうこと? あれから時間が進んでる?


 いや、そんな感じでもない。ふすまは破れてないし、家も汚れていない。

 まるで、“最初からあの男がいなかった”みたいだ。

 

 たぶんそうなのだろう。

 これはあの男が存在しなかった場合の未来だ。あの男がいなければ彼女はこんなにも笑い、幸せに暮らせていたのだ。


 なぜだか目頭が熱くなる。

 俺のしたことが正しかったかどうか知らない。だが彼女たちを笑顔に変えることは出来たのだ。どことなく心が軽くなる。


 そっと戸を閉めて家を出た。


 あの雰囲気を見るに、ここでやり残したことはなさそうだ。

 じゃあどうして時間が戻らないんだ……?


 その時だった。

 ブンッ、という音がする。またもやゲームのステータスウィンドウのように視界の中に地図が開いたのだ。


 「げっ!!」

 それを見て思わず声を上げる。

 

 開かれた地図はさっきよりも広域のもので日本全体が映っている。

 そこには全国まんべんなく、無数の赤い点滅があるのだ……。


 ……まさかとは思うが、これ全部どうにかしろってこと……?


 範囲が広い……。


 これはいくらなんでも一人じゃ無理だろ……。


 赤い点の集まりがまるでオウムの群れみたいだ。

 あ、ジブリ見てぇ。


 いやいや。現実逃避してもしょうがない……。


 広域の地図だが、日本以外の国は記されてない。

 割り当てされてるのか。

 俺は日本エリアの担当?

 海外にも俺みたいにこの世界で動き回ってるやつがいるってことか?


 情報交換したいな。電話が通じればいいんだけど、絶対無理だろう。

 基地局が稼働していないし。


 地図を見ながら首を振ったり瞬きしたりを繰り返す。

 地図を消したいのだ。

 もうね、本当に邪魔。


 視界の半分とは言え、こうもチカチカと赤く光られたんじゃ頭が変になりそうだ。


 そのとき地図が急に拡大され、俺を中心とした市街地の詳細が表示された。

 どうしてだろう、今何をした?


 一挙手一投足を思い出す。

 確か今、右手の親指と人差し指をこすり合わせたぞ。昔から俺のクセで、考え事があるとよくやるのだ。


 スリスリと指をこする。視界の地図が再び日本全体を映した。

 うん、間違いなく連動している。


 今度は人差し指で親指を軽く叩いた。これも俺のクセだ。

 ブンッという音とともに地図が消える。


 なるほど、そういうことだか。

 仕掛けは分からないが、ともかくスイッチのON/OFFは把握した。


 再び指を叩き地図を開く。

 指をこすり合わせ地図を拡大し、俺のいる街を表示する。


 近所に赤点はもう無いな。市内の少し離れた所に、ひい、ふう、み……。

 十カ所くらいか……。


 多いのか少ないのか分からないが、今これだけの場所でさっきのような悲惨な出来事が起きているということだ……。

 指をこすり地図を引くと、各市街地でも大体同じくらいの数で赤点が散らばってる。

 大都市圏などはもう少し多いようだ。人の多さに比例するんだろう。


 それにしても……。

 これを全部回ってたら何年かかるんだ?

 考えるだけで疲弊する。


 そして耐えられるだろうか? 孤独に。

 

 止まって動かない人ならいくらでもいるけど、ぶっちゃけマネキンと変わらない。

 きっと誰かと話をしたくなると思うんだ。

 人が恋しくなるはずなんだ。

 そうなったとき、発狂しない自信はないな。正直なところ。


 止まったままの雲を見上げ、ため息をつく。


 すぐ行動する気にはなれない。道沿いの公園に入りベンチに腰掛けた。

 

 一体何でこんなことになったんだろう。

 そして、何で誰も説明をしてくれないんだろう。

 地図まで表示されるくらいだ。

 絶対何者かの意思が関与しているのは間違いないのに。

 まったく腹立たしい。


 ぼんやり座りながら、ふと仕事を思い出す。


 出版系の会社にいるせいで、平日は仕事に忙殺され自分の時間もへったくれもない。たまの休みでさえ昼まで眠って時間を無駄につぶしてる。


 それがどうだろう。

 今は無限に続く自由時間を与えられたようなもんだ。


 働かなくてもお金に困ることは無い。

 

 だってお金なんて必要ないんだし。

 欲しい物があれば、黙って借りればいい。ここは俺しかいない世界だ。


 食料品だって、好きな物を好きなだけ食べていいんだ。

 俺一人分なら、日本中のスーパーから拝借すれば微々たる量だろう。


 よくよく考えれば気楽な話かもしれないな。

 この世界でのんびりじっくり気ままに生きればいいんだ。


 どうせ人は一人で死ぬ。

 人生が止まった世界で、好き勝手にやればいいさ。


 そんな自暴自棄な考えが浮かんでくる。


 仕事といえば思い出すのが同期の有川めぐみだ。


 部署が違うからほとんど話すことはなかったけど、ある時イベントのプロモーションを任され、彼女と二人で徹夜しながら企画書を作り上げた。意外にも彼女とは趣味が合い、話もどんどん広がった。

 彼女は聞き上手なのだ。俺の話を聞いては良く笑い、面白い切り返しをしてくれた。


 イベントが終わり会話も減ったが、俺はたぶん……いや普通に彼女のことが好きになっていた。

 元来奥手なために自分から話しかける機会を見失っていたが……。彼女の笑顔がもう一度見たい……。


 一度そう思うと、気持ちが抑えられなかった。

 立ち上がり勢いよく歩き出す。


 有川めぐみの家は決して近所とは言えないが、歩いて行けない距離ではない。


 以前会社の忘年会で酔いつぶれた彼女を、同僚の女子とともに家まで送り届けたことがあった。

 大通り沿いの分かりやすい所だから今も場所は覚えている。


 

 小一時間ほど歩き、彼女の住むアパートの前に立った。

 

 そこでまた葛藤が生まれる。


 俺……どうしてここまで来たんだ? 何のために?


 だってこれストーカーじゃん。それか変態?


 いや違う……俺は彼女の顔を見に来ただけだ。

 決してそれ以上のやましいことはない……はず。


 意を決し彼女の部屋がある二階へ。


 なぜか心臓がドキドキする。これが犯罪に近い行為ということを体は自覚しているらしい。


 でも待てよ? 今は朝の8時半で時間が止まっている。

 休日のこの時間に彼女は起きているのかな? つまりは、ドアの鍵だ。

 仮に起きていたとしても、外に出ていなければ鍵は閉まっているはず。

 嘘だろ……ここまで来て?

 失望と同時に不思議な安堵感が生まれる。


 そんな中ノブを回すと、ドアがゆっくりと開かれた。

 鍵は……かかっていなかったのだ。



 そのまま更にドアを開き、有川めぐみがいるはずの部屋にそっと潜り込んだ。

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