ある日時間が止まっていたので、とりあえず人助けでもしながら生きていきます。
雀村
土曜の朝
土曜の朝、時間が止まっていた。
最初、わずかな違和感しかなかった。
何かが心に引っかかる、些細な感覚。
だがそれは、外へ出ることでハッキリと異常事態として認識された。
俺、
携帯を見ると、朝の8時30分だ。
珍しいな。愛猫のシオンに起こされる前に自分から目覚めるとは……。
そんなことを考えながら洗面所に向かい顔を洗う。
この広い一戸建てには俺と猫しか住んでいない。
両親は宝くじが高額当選して夢の海外生活。兄弟はみんな結婚して家を出てしまった。俺も新しい場所で心機一転といきたかったが、実家を誰が守るんだという話になり、結局ここに住み続けることに。
勝手な話だよ。盆や正月に帰る場所が欲しいからって末っ子の俺に家守をさせるなんて。
にしても今日は変だ。具体的にどこがとは言えないが、何かいつもと違う。
愛猫は専用ベッドでまだ眠っているようだ。
リビングでテレビをつけようとリモコンの電源ボタンを押す。なぜか画面が映らない。
リモコンの電池が切れたのか?
あいにく買い置きはない。仕方がない手動でつけるか。
そう思ってテレビ本体の電源ボタンを押すが……やはりつかない。
コンセントもしっかり入っているのに。
まさか停電?
試しにキッチンへ行き冷蔵庫を開けてみた。
暗いままだ。やっぱり停電らしい。
そういえばこの間も停電したな。あのときは落雷のせいだったけど、今日は何が原因だろう?
まあいい。すぐに復旧するだろうし、大人しく本でも読んでいるか。
そう思いコーヒーのお湯を湧かすためIHコンロのスイッチを押す。
……ああそっか停電なんだ。こんなときオール電化は不便だな。
気晴らしに散歩でも行こうかな。休日にしては久々の早起きだし。
それに近所の人に聞けば停電の原因が分かるかも。
軽く服を着替えると、靴を履いて外へ出た。
……やっぱり何かおかしい。何だろう?
そこでふと違和感の正体に思い当たる。
それは静けさだ。
異様に静かなのだ。
いつも騒々しいほど聞こえる鳥の声も、遠くを走る車の音も、何一つ聞こえない。全くの無音というわけじゃないけど、まるで世界中が休みになったみたいにひっそり静まりかえっている。
そして道に出て俺はとんでもないものを目にする。
それは、通りを歩く人、そして車や動物がすべて止まっている姿だ。
一体どういうこと?
近所に住む見慣れたおばさんに近づく。ジョギング姿で、首にかけたタオルを額にあてて汗をぬぐっている。
片足は地面から浮かび上がり、もう片方の足もわずかにつま先だけが地面に触れている状態だ。普通なら絶対に静止できない、まるきり重力を無視した体勢だった。
そばにいるおじいさんもそうだ。小石につまづいたのだろうか、少しよろけた姿勢になり片足だけで立っている。手にしたリードがピンと張られ、その先の黒い柴犬が今にも駆け出しそうに前足を持ち上げている。視線の先には茶色い柴犬が女性に連れられ散歩をしていた。もちろん女性も他の皆と同じように完全に静止していた。
ドッキリなんかじゃない。
こんなこと普通出来るはずはないのだ。
よく見れば、飛ぶ鳥でさえもぴったりと空中に張り付いているじゃないか。
間違いなく……時間が止まっている。
まさかこんなことが実際に起こるなんて!
どうしよう。
いや、落ち着け俺。とりあえず一旦家に入ろう。そしてソファに座ってゆっくり考えよう。
家に戻り、リビングのソファに深くこしかける。
ふう……。
……でも考えるって、何を?
ダメだ。何も解決しない! これは困ったぞ。
というか時間が止まるなんてこと、本当に起こるのか?
もしかして夢? やたらリアルな夢を明晰夢とか言うらしいが、これがそうなんじゃないのか? だとすればどうやって目覚めればいい?
寝るか。
そうだ! もう一度ベッドに入って眠ろう。それがスイッチで目覚めるかもしれない。よし善は急げだ。さっそく二階に向かう俺。ゴートゥーザ・ベッド!
階段を上ろうと手すりを掴んだとき、ふいに視界の中に何かが映り込む。
ブン、という音を出して、まるでゲームのステータスウィンドウみたいなのが浮かび上がった。何だこれ?
首を振るとステータスウィンドウも一緒についてくる。俺の視界と完全にリンクしているらしい。視野の半分くらいが塞がってしまったが、半透明なおかげで後ろの景色が完全に隠れるわけじゃない。
まったく訳が分からん。開かれたウィンドウは、……地図か? 近所のものらしい。小学生のとき課題でこの辺の地図を作ったのを覚えているが、あれと同じ形だ。
でもどうやって消すんだコレ? 邪魔でしょうがないんだけど。
首を振ったり目を閉じたり試しているうちに、地図の中に赤い点滅があることに気が付いた。
チカチカと、まるで俺にそこへ行けと示しているみたいに。
ちょっと目障りだな。ベッドで眠ろうにも地図はまぶたの裏側にまでついてくる。
はあ仕方ない……点滅の場所に行ってみるか。
何かが分かるかも知れないし、現実世界に目覚めることも出来るかもしれない。
渋々、靴をはき玄関を出ると、地図の中に新たな点が加わった。それは緑色の点で、点滅はしていない。場所は俺の家……。もしかしてコレ、俺の現在地か?
知らない間にGPSでも体に埋め込まれたんだろうか。勘弁してくれよ。
……まあいい、どうせ夢だし。とにかく点滅の場所に行こう。
点滅があるのは近所とはいえ滅多に通らない道だ。
それこそ小学生のとき地図作りをした以来か。
川沿いの狭い道を通らないと行けない場所で、何棟か並んだマンションの裏手にある。
朝の少しの時間しか日が当たらず、そのせいか暗い雰囲気がいつも漂っている場所だ。目的がなければ散歩でも近寄らない。
15分程歩き、地図上の赤い点滅と緑の点がほぼ重なる。
どうやらここが目的地のようだ。
あるのは、お世辞にもきれいとは言えない古い平屋建ての家だ。
外壁はひび割れ、黒くカビのようなものが張り付いてる。玄関横にはバケツやさびた自転車が転がり、狭い庭には夏草がうっそうと茂っていた。
足元には泥で汚れた靴が散乱している。一体どんな人間が住んでいるんだろう。そもそもこんな所に何があるのか……。
そっと玄関の戸を開ける。
「おじゃましまーす……」
誰も聞いているはずはないけど、まあ一応。
すると、ここでもおかしなことが起こった。
朝だというのに家の中がずいぶん暗い。けど窓が塞がっているわけではないのだ。 むしろ正面の部屋の窓は開いていて、そこから赤い夕空が見えている。
一度外へ出て空を確かめたあと、もう一度家の中を覗く。
やはり家の中だけは夕方だ。
どうやら外と室内の時間軸がズレているらしい。
時間が止まっているくらいだ。そいうことが起きても不思議はないのだが……やっぱりすぐには受け入れがたい。
ともかく再度室内に入る。何も時間軸の違いだけを教えるために点滅していた訳じゃないだろうし。
玄関で靴を脱ぐ。入ってすぐの部屋には誰もおらず、吸い殻のたまった灰皿と日本酒の空き瓶が置いてあった。畳はボロボロで、ふすまもあちこち破れている。
廊下を進み、突き当たりの戸をそっと開けた。
そこで見た光景は、信じられないものだった。
最初に一人の男に視線が向いた。
30歳前後だろうか。大柄で毛深く、上はランニングシャツ、下は薄汚れたトランクスだけを履いていた。顔は高揚したように赤い。
そしてもうひとり。男に押さえつけられている女がいた。男は四つん這いのような格好で女の口元を押さえ、片方の手ではアイロンを振り上げている。
女は男より少し若い。化粧気がなく下着しか着ていない。鼻から血を流し、懇願する目で男を見ていた。顔は赤く腫れ上がり、涙でぐちゃぐちゃに濡れている。
誰が見ても明らかだ。
彼女は男から執拗な暴力を受け、そして今、振りかざされたアイロンによって致命傷を負わされようとしているのだ。
ニュースで聞いたことはある。DVという言葉も知っている。
でも現実を見たのは初めてだ。
あまりの衝撃にしばらくその光景を呆然と眺めることしか出来ない。
一体なぜ? こんなにも恐ろしいことが誰にも知られずひっそりと行われているなんて。
どうしようもない怒りと恐怖が胸に渦巻く。
俺はどうすれば良いんだ?
この状況を放置するなんてもちろん出来ない。
とにかく男から凶器を取り上げないと。
男が手に持ったアイロンを引っ張る。だが指は固く閉じられており、こじ開けることが出来ない。
うーん。時間が止まっているせいなのか? だったら体ごと移動させるか。
男の体を力一杯押してみる。
ズズっと少しだけ動いた。
良かった、時間の外からでも力は加えられるようだ。
このまま男を押して外まで追いやるか。そしてその後は……。どうする?
ちょっとくらい遠くに追いやったところで状況が好転するわけじゃない。
時間が戻れば男はまた暴力の続きをしに戻ってくる。それどころか、混乱してますますひどい暴力を彼女に振るうかもしれない。
いっそ川にでも沈めるか……。いや、それじゃ俺まで犯罪者だ。感情のまま人を殺せばこの男と同じになってしまう。
困ったな。
そのとき地図の赤い点が黄色く変わった。点滅もしなくなり、代わりに波紋のように大きくなったり縮んだりしている。
「はあ。説明書くらい付いてないのかよ……」
思わず一人つぶやく。この地図、性能が良いのは認めるが、いちいち察しろというんじゃ不親切すぎる。
結局よく分からないので男を外に出す作業へと戻る。
男の体にもう一度手を触れたとき、ふいに「捕捉シマシタ」という機械的な音が辺りに響いた。
次の瞬間、男の体が光り、パシュッという音と共に空中に消えてしまったのだ。
「え? え?」 一人パニクる俺。いや、もう本当訳が分からないんだけど……。
いつの間にか、夕焼けだった空が青く染まっていた。外と同じ時間軸に戻ったのだろう。
地図上には赤い点も黄色い点もなくなり、緑の点だけがポツンと光っている。
何だったんだ? もしかして……この女性を助けるためだけに俺の時間が止まっていたのか?
女性は相変わらずだ。恐怖すべき存在が去ったことを知らず、その目に悲しみを浮かべたままでいる。会ったこともない女性だ。
近くにあった毛布を彼女にかけた。
下着姿の彼女と二人きりになった今、なぜだか俺の罪悪感が半端ない。悪いことなんて別にしていないんだけども……。
とにかく役目は終わったんだ。さっさと家に帰ろう。夢にせよ何にせよ、これで元の世界に戻るはずだ。時間の流れるいつもの世界へ。
去り際にもう一度彼女を見る。そして、
「もう大丈夫だよ。おやすみ」と声をかけた。
いや、つうか朝だし。言ったあとで思うが、まあいいさ。聞こえちゃいない。
家路につきながらふと思う。
せっかく時間が止まってるんだ。どうせなら何か、今しか出来ないことをしてみるのも面白いんじゃないだろうか。
例えば何だろう……。やっぱ男の夢と言えば……女風呂ですか!
……いやでもこの時間じゃ銭湯は営業してないか……。
そもそもさっきの光景が強烈すぎて、とてもそんな気分になれない……。スケベなことを考えるだけで、先程の女性への罪悪感がなぜか湧き上がってくる……。
何かめんどくさいな。やっぱりもう家に帰ろう。
ひと仕事終えてもまだ朝の8時半だなんて、何だか得した気分だし?
そうして俺は愛しの我が家へ軽い足取りで向かう。
時間の止まった世界から、実はまだまだ抜け出せないなんてこともまるで知らずに……。
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