08 ≪サギソウを心に抱いて歩む、夏の日≫
ずっと、忘れられない過去が私にまとわりつく。
それは私を許してはくれず。
きっとそれには、悪意なんてない。
「私はね……こんな私の事を好きになってくれた人の事が好きなの」
忘れてしまいたいかと聞かれたら、きっと私は「忘れたくない」と、そう答えてしまう。
だって、忘れてしまったら。
「だから、私はね……」
今の私を否定してしまいそうだから。
今こうして生きている私を拒んでしまいそうだから。
踏切の音、セミの声、遠くに浮かぶ夕焼け空。
また明日の声も、おはようの声も、おやすみなさいの声も。
全てがあの日の中に閉じ込められていて。
「そうだ、楓は……」
返してなんて言わない。
「楓は、私の分も私以上に幸せになってね。私よりも愛してもらうんだよ。約束だよ」
誰も悪くない話。
「じゃあ。またね、楓」
だから、どうか、どうか。
「お姉ちゃんはね、幸せになりたいの」
私を置いていかないで。
「あっ……」
翌朝、休日。
どこか霧がかったうすぼんやりとした空気は薄く、冷たい世界の中で先に目を覚ましたのは楓だった。
「ふぁ……」
楓は退屈で憂鬱で夢現な朝を、体内時計が鳴らすアラームとほんのりと体に残った眠気と共に目を覚ます。
時刻は、午前六時を少し過ぎた頃。
空は既に明るく、けれど自室からはユリの可愛らしい寝言と寝息が聞こえてくる。
コーヒーでも飲もうか、そう思ってマグカップを手に取った時、珍しく携帯が鳴る。
「あっ……」
電話に出ると聞きなれた声がした。
「うん……うん……そう」
軽い近況報告がしたくなったらしい。
こんな早朝に?
あぁ、でもそわそわして中々寝付けないのも、寝ても嫌な夢を見るのは同じか。
だからこんな時間、なのかな。
「こっちは大丈夫だよ……そんな気にしないで、叔父様や叔母様。それにお母さんのご兄弟みなさまのおかげで、私は今日も元気ですから……それにまだ朝も早いですし」
何度も何度も繰り返される謝罪。
「ええ、ええ。ですからまぁ、今更気に病まないでくださいよ。それに、貴方達は何も悪くないじゃないですか……悪いのは全部……」
全部。
全部。
全部。
悪いのは。
全部。
全部。
全部。
「全部……」
誰の。
せい?
「あぁ、いえ……はい。お体に気を付けてくださいね……ええ、はい……ではまた。はい。ええ、また帰りますので……ええ、では……」
ただでさえ憂鬱だった朝が、一本の電話により、憂鬱のその先へと突き飛ばされた。
「こんな早朝でなくてもいいのに……明らかに眠れていない声だったし」
心配なんてしなくていい、何も気にしなくてもいい。
大丈夫だから、大丈夫だから、もう何も。
何も。
お湯が沸く、湯気が頬に触れる。
「コーヒー、飲もう」
温かいコーヒーをもって、少しだけ空気が冷たく、風が涼しい朝のバルコニーに出る。
そして、手すりに体重をかける様に寄り添って、遠くの方にあるビル群とネオンが消えた街を眺める。
「こんな街で中学生の女の子と一緒に暮らす。なんて、思いもしなかったな」
温かいコーヒーが喉を通る。
遠い昔、砂糖を入れずに飲めたらカッコいいとか、ブラックコーヒーは大人の飲み物だとか、そんな事を言っていた子供時代を思い出す。
「美味しい」
あの人達が私を心配しているのは分かる。
私の母親の、お父さんとお母さん。
私の母親の兄弟や友人。
みんなが私の事を心配して、気にかけてくれているのも、勿論分かる。
でも、わざわざ電話をしてきて、あの時の話をしないでほしい。
もし私が必死にはぐらかさなかったら、私はきっと、昔の事を……。
「楓さん?」
「あぁ、おはよう、ユリ」
そうだよ、だって今日は……。
「おはようございます……」
今日は私の。
「珍しいですね、こんな早くに」
「ユリこそ、毎日こんな朝早くに起きてしんどくない?」
私の、姉の。
「そんなことは、お弁当を作ったり朝ごはんを作ったり、わたしそういうのが好きですから」
「へぇ、家庭的なんだ。ユリって」
今日は私の姉の、命日だ。
「わたしは家庭的ですよ? 意外ってほどでもないでしょう?」
「まぁ、そうだね。意外ではないかも?」
あの日から、何日が経ったのだろう。
あの苦しみから。
あの悲しみから。
あのやるせなさから。
あの、全ての始まりの日から。
あの、私の人生が狂い始めた日から。
どれだけの月日が流れていって、それは手の届かない場所に行ってしまったのだろう。
「ほら、ユリ。支度して、今日は出かけるから」
「でも、こんな早くに家を出てもお店はまだ空いていないでしょうし、先に朝ごはんを食べません?」
「あぁ、そうだね。その前にシャワー浴びて来る」
「はい。ではその間に朝食の準備をしておきますね」
飛行機雲も朝顔も、セミの声も波の音も、全てが憎い。
全てが嫌いだ。
でも、あの夏があったから。
あの夏からの全てが、私をこうしたから。
「ユリと出会えた……」
なんて、そんな訳ないか。
「なにか?」
「ううん。何も」
楓はどこか空虚な瞳をもって、そのコップを流し台に置くと、脱衣所の方へと速足で行き、消えてしまった。
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