第7話 陽気な下戸
ハリウッドセレブ、ジェーンが、奈々子たちの会社、メルローズ社でプロデュースする香水について、広報担当として、奈々子は特設ウェブページを、太一はプレスリリース関係を、美香は来日するジェーンの記者会見の準備に追われていた。
その合間にルーティンワークをこなさければならない。社外からメルローズ社が販売している商品についての問い合わせに答えるのはもちろん、ジェーンの香水以外の情報も発信しなければならない。会社の“口”として必要なことを言い、“顔”としてイメージも作っていく。もちろん、いいイメージでなければならないのは言うまでもない。
そうしたルーティーンワークの合間にジェーンの香水の広報活動の準備をするので、自然と奈々子は残業することが多くなっていった。
マンションに戻って寝る時間をのぞけば、奈々子は1日のうち、ほとんどの時間を太一と過ごしていた。
一緒に過ごす時間が長くなると、仕事のリズムまで似てくるのか、ふたりそろって残業することも多く、帰宅時間も同じ時間に重なる。奈々子がばたばたと帰り仕度を始めると、太一もPCをシャットダウンしている。互いに声をかけあわなくても、近所同士、帰る道のりは一緒だった。
渋谷のオフィスからずっと仕事の話をし続け、奈々子のマンションの前でふたりは別れる。
太一がマンションの先の曲がり角に消えたのを確認すると、奈々子は急いで近所のコンビニにかけこむのが日課だった。
太一と一緒にいると、カップ麺だのコンビニの弁当などが買いづらい。一人暮らしの女のさもしい食生活はすでに垣間見られてしまっていたが、あれは例外だと言わんばかりに、奈々子は頑固として太一の前ではカップ麺やスナック菓子に手を出そうとしなかった。とはいえ、残業したあとでは、自分で何か作って食べようという気力は残っていない。太一に見られやしないかとスリリングな気持ちで、奈々子はコンビニ詣出を毎晩のように繰り返すのだった。
その日、奈々子は突然、おでんが食べたくなった。秋風が冷たさを増してきたせいだ。渋谷のオフィスを出たときから口の中がおでんモードになってしまい、太一との仕事の話にも身が入らない。頭の中でおでんの具がぐつぐつ煮立っている。
(また、コンビニにダッシュだなー)
そんなことを思いながら駅からの道をマンションへとむかって歩いていると、
「おでん食わねえ?」
と、太一が足を止めた。その視線の先におでんの屋台があった。屋根の陰から、ほくほくの湯気がたちのぼっている。奈々子はごくりと唾を飲み込んだ。
「おでんー?」
奈々子は気乗りのしないふりをした。テレビをはじめとしたマスコミと華やかにわたりあう広報部で働く女性として、地味なおでんは似合わないだろうというアピールのつもりだった。少なくとも、メルローズ社の広報の顔、美香とおでんは似合わない。もしかしたら、美香はおでんを食べたことすらないかもしれない。
「なんだよ、うまいんだぞ、おでんは。特に寒い時期の屋台のおでんは最高なんだぞ」
太一は、必死に女の子ぶった演技をしている奈々子をほったらかしに、ひとりさっさと屋台へとむかっていった。
「さっきの話、まだ途中だったしね」
ろくに聞いてもいなかった仕事の話の続きをするための言い訳をし、奈々子は太一の横に腰を下ろした。
「おじさん、俺、がんもとちくわと、あと、たまごね」
「はいよー」
威勢のいい声とともに、たちまち太一の前に湯気のたつ皿が置かれた。
「そちらのお客さんは?」
「あ、はい、えっと、じゃあ、大根と―」
「俺、熱燗も」
コップの縁にもりあがった日本酒を、太一は目を細めてすすった。
「お酒、好きだったっけ?」
新人歓迎の飲み会以来はじめて太一と酒の席にいる奈々子だが、奈々子の記憶が確かであれば、太一は歓迎会だというのに、酒には手をつけていなかった。
「弱くてさー。すぐ顔赤くなるんだよ。でも、飲めないと男は仕事にならないからなぁ」
そう言っているそばから太一の顔は、みるみる耳まで赤くなっていった。
「ちょっと! 弱いのになに飲んでんのよ!」
「酒、好きなんだよ。いいじゃんか、飲ましてくれたって」
「酔っ払ってもしらないわよ。鈴木くんみたいな大男、かついで家までおくるってわけにはいかないんだから!」
小さな奈々子が大男の太一を重そうにひきずる場面を想像したのか、屋台の主人はくっくと声を殺して笑った。
「心配すんなって。酔っ払ったら、お前んちに泊めてもらうから」
「冗談でしょ! 泊めないわよ。ここに置いてきぼりにするから!」
「ひでぇ」
口ではそう言いながら、太一の目は笑っていた。酔うと機嫌がよくなるたちらしい。悪い酒を飲む人ではないようだった。
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