第6話 秘密
午後2時からのミーティングに、太一はなかなか姿を現さなかった。会議室に、広告・宣伝部や開発・企画部のメンバーが集まり始めるなか、太一だけがやってこない。
奈々子はひとごとながら、内心ひやひやしていた。美香は、世間話をしながら太一を待っていたが、5分、10分とたつうちにその表情がけわしくなっていった。
「はじめましょうか」
時間は1分でも惜しい。10分すぎたところで美香はミーティングの資料を配り始めた。
「すいません……」
大きな背中を丸めた太一が会議室のドアを開けて入ってきたのは、2時を20分すぎてからだった。美香の刺すような視線を躱し、太一は奈々子の隣に座った。奈々子は、太一のために取っておいた資料をすっと渡し、小声でそれまでのミーティングの様子を簡単に説明した。
「鈴木くん、ちょっといい?」
1時間のミーティングが終わり、関係者たちが次々と会議室を出ていくなか、美香が太一を呼び止めた。太一の少し前を歩いていた奈々子がちらっと後ろを振り返ったときには、会議室のドアは閉められてしまっていた。
「鮎川さんに怒られた?」
「まあな……」
5分ほどすると、太一だけがワークステーションに戻ってきた。
「20分も遅刻したら怒られて当然ね。ミーティングがあるの、忘れてた? アラーム鳴ったよね?」
社内にしろ、社外の人間と会うにしろ、時間を守るのは社会人としての基本だ。社内の人間同士だとつい気がゆるみがちになるが、1時間のミーティングで20分も遅れたら、自己管理がなってないとみなされても仕方ない。
「なんだよ、お前まで、鮎川さんみたいな口のきき方すんだな」
「20分も遅れたら、誰だって、どうしたの?っておもうけど」
社会人としてのいろいろな基本を奈々子に叩き込んだのは美香だった。仕事をてきぱきとこなす美香は、奈々子の目標でもあった。
「ちょっと、腹の調子が悪くてさー。俺、緊張するとダメなんだ」
太一はどうやらプロジェクトの大きさに緊張して、体調を崩してしまったらしい。
もしかして、二浪したのも、試験前に緊張したせいかな、と、ふと奈々子はそんなことを思った。太一は、体の大きさに似合わず、案外と繊細な神経の持ち主なのかもしれない。
「鮎川さんには黙っててくれよな。昼に食ったもんが悪くて腹壊したってことになってっから」
「なんで? 正直に言えばいいじゃん」
「“緊張すると腹下すんです”なんてこと、鮎川さんに言えっかよ」
美香には、太一は男として見栄を張りたいのだろう。
美香と太一は同い年だが、美香と話すときには太一は敬語を使う。奈々子も、美香ほど仕事はできないにしても経験からしたら先輩には違いないのに、太一は奈々子に敬語を使ったことがない。異性にはしにくいはずの下の話も、太一は奈々子には平気に話せて、美香には言い訳めいたウソをついている。美香を異性として意識しているのだろう。じゃあ、私は女として意識しない存在なのかと憤慨しつつも、奈々子は
「まあ、そういうんだったら……」
と黙っていることを約束した。
大きなプロジェクトごとに緊張して体調を崩すようでは、この先、プロジェクトをまかせてもらえなくなるかもしれない。キャリアを積んでいくつもりなら、致命的な欠点とみられかねない太一の秘密を、奈々子は守ることにした。
「鈴木くん、体調悪いなら、今日は早く帰っていいわよ」
会議室から遅れて戻ってきた美香の声に、太一の背中がぴんとまっすぐにのびた。
「大丈夫です!」
“頼むよ”と目で言い、太一は自分のワークステーションへと戻っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます