第2話 せいたかのっぽ

 クレーンのような長い手の持ち主は鈴木太一、広報部の後輩だ。後輩とはいえ、二浪して入った大学で二年留年しているので年は二十九歳と、奈々子よりも四つ上だ。


 奈々子の働く広報部に太一が配属されてくる前から奈々子は太一の顔だけは知っていた。太一は新入社員ながら社内で一番の有名人だった。


 何しろ背が高いから目立つ。一九五センチだと、太一は新人歓迎会の飲み会で申告した。


 飲み会での話題は当然、太一の背の高さに集中した。


 何かスポーツをしていたかという質問にはじまって、親や兄弟も背が高いのかという話になった。


「親父は一八〇ちょっとで、兄貴もやっぱりデカいですね。兄貴も一九〇ちょいはあるんじゃないですかね。でもお袋は小さいんですよ。一六〇ないんじゃないのかな?」


 太一は奈々子を意識して言ったわけではないのに、身長一五五センチの奈々子は自分が小さいと言われたような気がして内心むっとした。


 同僚として働くようになってからというもの、奈々子は太一を避け続けた。


 見上げて話さないといけない太一といると自分の背の低さを強調されるようでイヤだったし、何より上から見下ろされている感覚がイヤだった。見下されているような気がするのだ。


年下のせいか、背が低いせいか、太一は奈々子を先輩扱いしなかった。


(社会人経験なら私のほうがあるのに!)


 入社して半年、奈々子と同期入社の他の社員には敬語を用いるのに、太一は奈々子にだけは対等な口をきくようになった。太一のなれなれしさが奈々子は気にくわない。


 太一にだけ特に親しく接した覚えはない。仕事をする仲間としての距離感を奈々子は保っている。年下の後輩に気を遣う他の社員と太一の距離が遠いせいで、相対的に奈々子と太一の距離が近く感じられてしまっているのかもしれない。


 ある時、メールボックスに入っていたメール便を太一が軽々と手にとって奈々子に渡してくれたことがあった。メールボックスは、五センチのパンプスを履いていても奈々子にはほんの少し高い位置にある。奈々子が苦労しているのを見かねて太一は手を伸ばしたのだろうが、それがかえって奈々子の気にさわった。


「何よ、背が高いとおもって」


 “ありがとう”のかわりに口をついて出た言葉は、とげとげしかった。


「高いところにあるものを取れるから取っただけだろ」

「自分で取れたのに」と言う奈々子の手の中に、太一はメール便をおしこんだ。


「俺、背が高いんだから、頼ってくれたっていいんだよ」

「メール便を取ってくださいなんてくだらないこと、頼めるわけないじゃない」

「『くだらないこと』だからこそ、頼んでもいいんじゃないのか」

「そういう考えが、女子社員にお茶を持ってこさせる行為につながるんだと思う」

「なんでそうなる」

「自分で出来ることなのに、めんどくさがって人にやらせるってこと」

「『自分で出来る』っていうけど、メールボックスに手が届かなかっただろうが」



 この日も、太一は奈々子がどうしても取れないで苦労していたカップ麺を易々と取ってみせた。


「低カロリーって。ダイエットの必要ないのに」


 ラベルを見て太一はそう言い、前のめりになってカップ麺を奈々子の目の前に差し出した。


 ダイエットに関して男の太一から指図を受けたくはない。むっとしたせいで礼を言おうとした気持ちがシャボン玉のように弾け飛んでしまった。またしても“ありがとう”という言葉を口に出来ずに奈々子はあからさまに不機嫌な様子で立ち尽くしていた。


 奈々子が受け取ろうとしないので、太一は大きな背中を丸め、奈々子の足元にあるレジかごにカップ麺を入れようとした。かごの中には他に、ポテトチップス、クッキー、チョコレート、他のカップ麺が入っていた。


「晩飯? 体に悪そうだなぁ」

「何だっていいじゃない。人の食べたいものにケチつけないでよ!」


 奈々子は太一の手からカップ麺をひったくり、かごに投げ入れると、すたすたとその場を後にした。


(私だって、その気になったら料理ぐらい!)


 野菜の入った太一のレジかごの緑の山が目にやきついている。


 奈々子は、ポテトチップスやチョコレートをもとあった棚にひとつずつ戻していった。かわりに、フルーツやヨーグルト、レタス、トマト、キュウリをレジかごに投げ込んでいく。レタスをむき、トマトやキュウリは適当に切るだけのサラダは手間をかけた料理ではないが、スナック菓子よりは健康的な食事だ。


 人口着色料を投げこんだようだった派手な色合いのレジかごが落ち着いたナチュラルなものに変わった。今ならレジかごを見られても恥ずかしくない、いや、むしろ見てもらいたいくらいだと、奈々子は太一を探した。


 頭ひとつ飛びぬけている太一はすぐに見つかった。太一は鮮魚売り場で魚を品定めしていた。


 そういえば、魚を最近食べていない。サバの味噌煮が食べたいとふと思った奈々子の喉がごくりとなった。自分で作るとなると手間だが、惣菜売り場にいけば出来合いのものが手に入る。惣菜売り場は鮮魚売り場のすぐ隣だ。


 出来合いのものなんかを買ったりしたら、太一に料理のできない女というレッテルを貼られる。ただでさえ、カップ麺を大量に買い込もうとしたところを見られてしまっている。


 太一が鮮魚売り場を立ち去った頃をみはからって、惣菜売り場に戻ってこよう。奈々子はスーパー内をあてどもなく歩き回った。


 もういないだろうと惣菜売り場に戻ると、太一はまだ鮮魚売り場でねばっていた。


「夕飯、魚にするんだ」


 太一がめざとく奈々子を見つけ、声をかけてきた。


 魚選びに夢中だろうから、総菜売り場にいる自分には気づかないだろうという奈々子の希望は打ち砕かれた。


「週末だし、時間があるから、サバの味噌煮でも作ろうかなと思って」


 引っ込みがつかなくなった奈々子は、サバの切り身を手に取った。


「サバの味噌煮もいいなあ。白飯がすすむ」

「そうそう」


 一粒の白米も家にはないのに、奈々子はうなずいてみせる。


「サバか」

 太一はサバの切り身を手に取った。

「しかし、白飯にはアジフライも捨てがたい」


 太一はアジのパックにも手をのばした。右手にサバ、左手にアジを持ち、しきりに悩み始めた。サバは切り身だが、アジは頭から尾まで揃った身が二匹入ったパックだ。


「アジ、おろすの?」

「おろさないと食えないだろうが」


 頭のネジがゆるんでいるのかとでも言っているかのような太一の表情に、奈々子はムッとした。


「頭からしっぽまでついた状態でお皿に載って出てくる料理、あるよね。タイの尾頭付きとか、サンマの塩焼きとか」

「『しっぽ』? しっぽは猫とか犬とかに使う言葉で、魚の場合は尾ひれって言わないか?」

「意味はわかるでしょ」

「しっぽって……」


 フサフサした尾のついた魚の姿を想像したらしい。声に出して笑いたいが、尾ひれをしっぽと表現した奈々子をバカにすることになるからといわんばかりに太一は笑いをかみ殺している。太一の下手な気遣いは奈々子の気を逆なでた。


「魚、さばけるんだ」


 奈々子はあからさまに話題を変えた。


「釣りするんだ。忙しくて、最近は海に行けてないけど」

「おじさんの趣味だよね、釣りって」


 奈々子の反撃を受け、太一の表情が固くなった。


「塩焼きにする。知らないだろうから言っておくと、さばかないにしても、魚を丸ごと一匹食べるにはそれなりの下処理が必要なんだからな」


 太一はサバの切り身を売り場に戻し、アジの身の入ったパックをレジかごに入れた。


 奈々子はアジのパックに目をやった。サバの味噌煮からアジフライに舌が心変わりをし始めていた。


「頼めば、おろしてもらえるぞ」


 アジフライに振れた奈々子の食欲を見透かしたように、太一が言った。奈々子は惣菜売り場でアジフライを買うつもりでいたが、奈々子に魚をさばけるはずがないと決めつけた太一の言葉がしゃくに障った。


「私、魚、さばけるけど」

「へえ」


 太一はあからさまに驚いていた。本当にさばけるのかと疑るような太一の視線を横目に、奈々子はアジのパックをかごに入れ、鮮魚売り場を後にした。


 魚をさばいた経験など一度もない。母もさばけないはずだ。魚料理はよく食卓にのぼったが、母は買ってきた切り身を料理していた。


 魚をさばけるという嘘をついてしまった手前、アジをレジかごに入れてしまった奈々子は、再びスーパー内を歩き回った。レジを待つ列に頭ひとつとびぬけた太一の姿を確認し、奈々子は急いで鮮魚売り場に戻った。アジを売り場に戻し、惣菜売り場へむかう。アジフライをかごに入れようとして、奈々子はカップ麺だけがかごに残っていると気づいた。


 低カロリーをうたっているだけあってスナック菓子ほどには派手な外装ではないものの、レタスやトマトの合間にあるプラスチック容器は異色を放っていた。


 奈々子はカップ麺の売り場に引き返した。目の高さにある棚にカップ麺を戻す。カップ麺が元々置かれてあった上の棚は奈々子には高すぎて戻せない。


 ふいに太一の顔を思い出した。


 カップ麺を奈々子に渡そうと間近に迫った太一とは、まともに目があった。切れ長の涼しい目もとだった。目もとがはっきりわかるほど、男性の顔を間近に見る機会はあまりない。


 人の顔にぐっと近づけるとしたら、メガネ店のスタッフか、美容師、歯医者ぐらいだ。奈々子はそのどれでもない。


 男性の顔が目と鼻の先にある場合があるとしたら、プライベートで恋人とキスをする時ぐらいなものだろう。


 カップ麺を取り、奈々子の目の前に差し出してきた時の太一は、まるで奈々子にキスを迫るかのように顔を近づけてきた。


 ドギマギするのと同時に、「あっ」と奈々子は声にならない声をあげて額をおさえた。


 週末だし、近所に買い物に出かけるくらいだからとメイクはしていない。眉毛のない顔を、よりによって太一に見られてしまった。


(見られた、かなあ……)


 太一の眉は黒々として立派だった。


(見られたよねえ……)


 奈々子は前髪をはたき、今さらながら、ない眉を隠した。

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