あと5センチ

あじろ けい

第1話 ヒールは5センチ

 ヒールは五センチ。


 パンプスを買う時、上原奈々子はそう決めている。六センチでもなく三センチでもなく、五センチ。身長一五五センチの奈々子がちょうど一六〇センチになる高さ。


 「小さく産んで大きく育てる」つもりだったのにと母に文句を言われる奈々子は、大きく生まれた。


 女の子にしては大きな三八〇〇グラムで生まれ、幼稚園、小学校と、いつも誰かの後頭部を見続けてきた。自分の後頭部に視線を感じるようになりだしたのは中学に入ってからだ。高校生になってからは、低いほうから数えたほうがはやくなった。


 クラスメートたちがぐんぐん成長していくので列の前へ前へと押し出されていく奈々子は、小さくなる薬を飲んでしまったアリスの気分だった。急いで大きくならなくては。


 大きくなる薬――牛乳が奈々子は苦手だった。飲むとお腹を下してしまう。寝る子は育つというので、早寝を心がけた。目覚めても背は伸びていなかった。ストレッチをしてみても、縮んだ筋肉を伸ばしただけの結果に終わった。世界は奈々子を置き去りにして拡大し続けた。


 奈々子の身長は一五五センチでとまった。高くも低くもない。二十歳から二十四歳の女性の平均身長約一五九センチをほんの少しだけ下回る中途半端な身長が奈々子は不満で仕方ない。


 不満をぶちまける相手の母親は、高すぎず低すぎず、ちょうどいい背の高さではないかと言う。


「女の子はちょっと小さいぐらいが可愛げがあっていいじゃないの」


 そういう母は一五〇センチあるかないかぐらいだ。


「どんなに小生意気でも、背が小さいと可愛いもんだですんじゃうわよ」


 母は暗に、勝気なところのある奈々子の性格を非難していた。


 いっそ一五〇センチを大きく下回るというのなら小動物のような可愛い女の子のアピールができただろう。モデルになれるほどの美貌は持ち合わせていないので高すぎても困っただろうが、せめて一六〇センチは突破したかった。


 身長一六〇センチは奈々子の目標でもあり、こだわりでもあった。


 一六〇という数字はきりがいい。一の位がゼロというのは清々しく、そこから何かが新しく始まるような期待感に満ちている。成長過程の一五〇センチ台は少女時代のもの。新たにゼロから始まる一六〇センチとは大人の女性となる出発地点。素敵な大人の女性の身長は一六〇センチ以上あるべきだ。少女だった奈々子はそんな妙なこだわりをもった。


 そのこだわりは、大ファンだったアイドルの結婚をきっかけに強くなった。彼の結婚相手は一般人だという理由で写真も名前も公開されていなかった。結婚報道記事にはただ一文、「身長一六五センチのすらりとした美人」とだけあった。世間一般の考えでも、一六〇センチが女の子と女の人の分岐点なのだと奈々子は確信した。高校二年の時だった。しかし、身長は一五五センチでとどまったまま、奈々子は成人式をむかえてしまった。


 二十歳を過ぎて世間一般には大人の女性になったとされるわけだが、奈々子自身は脱皮しかけた途中でさなぎの殻にひっかかってしまったような、中途半端な感覚がぬぐえない。


 見た目の小ささが幼さとリンクし、奈々子はよく子供扱いされた。幼く見えることと若く見られることは違う。あえて可愛げを求められることも気にくわなかった。


 軽くあしらわれないよう、見た目だけでも大人になる。


 二十歳を過ぎてすぐの頃から奈々子はヒールのある靴を履くようになった。ヒールの高さは五センチ。足元が不安定にならずに済み、背が高くなりすぎもしないちょうどいい高さ。


 少しふらつく足元でおそるおそる町へ繰り出した奈々子の世界が変わった。


 それまで知っていた世界には続きがあった。奈々子には見えないように折り返されていた世界。五センチのヒールは、折り返してあった部分をほどいてみせてくれた。


 人に頼らずに高い所にあるものに手が届く。望むものを自分が望む時に手にすることができる。見上げるのでもなく、見下ろすでもない視線の高さ。対等な目線でのやりとり。大人の世界が開けて見えた。


 他の人はこの世界にずっといたんだ――。奈々子は自分だけが損をしてきたと感じた。


 大学生活のファッションは足元から決まった。まずはヒールのある靴を選ぶ。次にヒールのある靴に似合う服だ。


 飲食店でバイトしていた時は動きやすさを考えてフラットな靴を履いていたが、仕事が終わるとヒールのある靴に履き替えた。仕事を終えてゆったりしたいだろうに、わざわざヒールのある靴に履きかえる奈々子をバイト仲間は不思議がっていた。


 就職活動中はパンプスのヒールでアスファルトを踏み鳴らした。カツン、カツンと小気味よい靴音はまるでメトロノームのように奈々子の自信のリズムを調節した。おごらず、へりくだらず、卑屈にならず。自信満々、大股で歩いてむかった面接では相手を見くびりすぎて落ちた。地面をこするようにして歩いていった先の面接では自信のなさから失敗した。


 化粧品会社「メルローズ」のフロアは踊っているかのような心地よいリズムで歩けた。カッカッカッ。この会社で、働くことに、なる。踊るような人生を送る期待で胸が躍った。


 ヒールの予言は的中した。奈々子は面接にうかり、メルローズに就職した。就職戦線を共に戦い抜いたパンプスには別れを告げた。新たな相棒のヒールも五センチ。広報部のフロアを鳴らすようになって三年が経とうとしている。


 奈々子は時々、背の高さを計る。脱衣所の壁には赤いテープが貼られている。ちょうど一六〇センチの高さの位置だ。かかとをぴたりと壁につけ、手で頭を抑える。人差し指の腹は決して赤いテープを越すことはない。


 体重計の数値は五十キロ前後を行ったり来たりする。食べたものは脂肪になるのに、なぜ骨にはならないのだろう。


 二十歳過ぎて身長が伸びるはずもない。身長一五五センチ。パンプスを脱ぐと突きつけられる現実。


 たかが五センチ、されど五センチ。この五センチが奈々子にとっては大きな壁だ。


 平均身長を大きく下回るのなら諦めだってつく。初めから手の届かないものを望みはしない。手の届かないとわかっているアイドルなら憧れるだけ。


 もう少し、あと少し。ジャンプすれば越えられそうなのに越えられない壁。


 右利きの人間の都合のいいようにできている世の中で左利きの人間が不自由を強いられるように、平均身長よりほんの少し背の低い奈々子は日常生活で不便を感じることが多かった。


 奈々子は、ワンルームマンションで一人暮らしをしている。トイレもバスルームも難なく使えるが、キッチンだけは別だ。カウンターの高さがほんの少しだけ使いづらい。野菜や果物を切る時に、包丁を持つ手がカウンターと平行にならないのだ。ほんのわずかに肘がカウンターの下にくるため、包丁を上から振り下ろすような格好で野菜やフルーツを切るはめになる。果物を切り分けるぐらいならいいが、タマネギやネギのみじん切りとなるとたどたどしい動きになってしまう。


 カウンターが高いのではない。奈々子が低いのだ。手が届かないというのなら台を用意するところだが、そこまで低いわけでもない。ほんの少しの不便さだ。我慢しようと思えば出来ないこともない。そのほんの少しの不自由さが奈々子を苛立たせる。


 そんな時、奈々子はいつも思う。


 あと五センチ、背が高ければ……。




 土曜日の夕方、買い物客でごった返すスーパーで、奈々子は「あと五センチ」と思った。 


 ここのところ、気に入って食べ続けているカップ麺がある。低カロリーをうたった商品で、いつもは奈々子の目線の高さの棚に置かれている。


 その日はセール価格の札がかけられ、棚は空っぽだった。棚は空っぽだったが、その上の棚にひとつ残っていた。本来は別の商品の棚だが、気の変わった誰かが間違えて上の棚に戻してしまったというところだろうか。


 奈々子は棚を見上げた。カップ麺は棚の縁近くにあった。思い切り背伸びをして、腕を伸ばせば指先がつくかもしれない位置だ。


 もしかしたら届くかもしれない。望みを指先にこめ、奈々子は爪先立ってこれでもかと腕を伸ばした。


 手がこわばるほどに指先をぴんと伸ばす。人差し指の腹が容器のフタに微かに触れた。手前に転がして棚から落としてしまおう。


 あと少し。もう少し。


 転がそうとして指先をくの字に曲げたその時だった。無情にもカップ麺は向こう側に倒れ、棚の奥へと転がっていってしまった。あとはいくら背伸びをしても、手を伸ばしても届かない。


 恨みがましい目で奈々子は棚を睨みつけた。


 あと五センチ背が高かったら、棚に手が届いていた。


 あと五センチ背が高かったら、棚の奥に転がってしまったカップ麺にだって手が届いていたかもしれない。


 土曜日とあって、奈々子はスニーカーを履いていた。五センチの相棒はあいにくと今日は週末の休暇中だ。


 仕方がない。夕食は他のもので我慢するか。


 後ろ髪引かれる思いで奈々子は売り場を後にした。スニーカーのかかとはスーパーの床をかき鳴らさない。足裏がしっかりと着地する歩き方で、一歩、二歩、三歩。


 四歩目が出なかった。


 奈々子は来た道を振り返った。空っぽの棚を見やる。ぱっと見には何もないように見える棚だが、奥にカップ麺が転がっていると奈々子は知っている。


 欲しいものはそこにあるのだ。手が届かないというだけで諦めるのは悔しい。手に入らないとわかったとたん、何が何でもカップ麺が欲しくなった。


 奈々子はきょろきょろと周囲を見渡した。店員に頼んで取ってもらおう。店員でなくても、背の高い誰かがいないだろうか。


 その時だった。


 背後から長い腕がぬっと伸びてきた。たくましい肉付きのその腕は奈々子の頭上を通過し、棚の奥へと吸い込まれていった。はきだされた腕の先――手にはカップ麺があった。棚の奥に転がったカップ麺をつかんだ腕は、クレーンのように奈々子の目の前におりてきた。


 見上げた顔と、見下ろす顔とが見合って「あっ」と同時に声があがった。

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