第3話 もうひとつの足音

 つるべ落としの秋の夜はあっという間に訪れる。レジでの清算を済ませ、スーパー「横綱」を出た時にはあたりはすっかり暗くなっていた。商店街の灯りを頼りに奈々子は家路を急いだ。


 商店街は駅へと続く。奈々子の利用する駅はもうひとつ先にある。駅までは歩いて十分ほどで、奈々子が利用する駅までは電車で五分。マンションまでは駅から歩いて十五分かかる。


 わざわざ「横綱」まで足をのばして買い物をする理由は、マンション近くの他のスーパーに比べて断トツで品物の値段が安いからだ。「横綱」では、採算あうのだろうかと心配になるほど、食料品から日用雑貨にいたるさまざまな物が安く売られている。


 電車を利用すると三十分近くかかってしまうが、歩いていけば十五分程度の道のりだ。商店街の途中に住宅街へと抜ける近道があり、道なりに歩いていくと奈々子の住むマンションへとたどり着く。


 金物屋と乾物屋の間にある近道の入り口で奈々子は足を止めた。大人二人がやっとすれ違えるぐらいの細い道だ。商店街裏の住宅街を抜けていくその近道に明かりはない。入り口付近には商店街の灯りが漏れ入っているが、行く先は暗い。住宅の明かりは高い塀にさえぎられてしまっている。昼間はどうということのない小道だが、日がすっかり沈んでしまった今の時間にはさびしく感じられる。暗いうえに人気もない。ためらったものの、奈々子は近道へと足を踏み入れていった。


 さっさと買い物を済ませ、日が暮れる前には帰るはずだった。思いがけなく太一に出くわして帰りが遅くなってしまったのだ。


(あいつにさえ、会わなかったらなあ)


 太一がレジで精算し終えるのを確認し、奈々子は売り場に引き返した。太一の手前、見栄を張って「不健康食品」を一度は棚に戻したものの、かえって恋しさが募ってしまった。ポテトチップス、チョコレートをこれでもかとレジかごに投げ込んだ。


 インスタント食品の売り場にも足を向けた。棚にひとつだけ残るカップ麺は燦然と輝いていた。最後のひとつだ。次はいつ入荷するかわからない。入荷しても、買いに来ることができるかどうか。


 奈々子はカップ麺を棚からひったくった。


 自分と同じスーパーを太一が利用しているとは思いもしなかった。たぶん近所に住んでいるのだろう。太一も常連客なら、もう「横綱」では買い物できない。


 できないということはないが、今までのようにカジュアルな格好ですっぴんでというわけにはいかない。買う物にも気をつかう。インスタント食品やスナック菓子を大量に買い込んでいるところを太一に見られたくはない。


 いつどこで太一に出くわすか分からないと思うと、奈々子は気が抜けない。オフィス以外の場所では同僚に会いたくない。自分の生活圏内の場所ではなおさらだ。スーパーで出くわすとは、自分の冷蔵庫を勝手に開けられたような感覚がする。


(でもねえ……)


 「横綱」のある商店街は奈々子の生活圏ではない。普段の買い物は最寄り駅近くで済ますことができる。むしろ、奈々子の方が太一の生活圏に侵入しているといっていい。


 太一の冷蔵庫を漁っているかのようで、「横綱」には行きにくくなってしまった。レジかごに投げ込まれていたアイテムから想像してみると、太一の冷蔵庫には、新鮮な野菜や肉、魚がつまっているのだろう。


(一人暮らしなのかな)


 ふと、奈々子はそんなことを思った。


 太一は魚をさばけるとは知った。だからといって、自炊しているとは限らない。太一は魚をさばくだけで、料理は別の人間――彼女がしているのかもしれない。


(でも……)と奈々子の思考は踏みとどまる。


(彼女がいたら、二人で買い物に来るよね)


 奈々子だったら、週末の買い物はそろってする。むしろ、したい。体調が悪くなければの話だが。


 考え事をしながら歩く奈々子は、もうひとつの足音を聞いていた。


 奈々子とは別の足音だ。誰かが近道を歩いている。その人物は奈々子の後ろを歩いている。


 奈々子専用の近道ではないのだから、誰かが利用していても構わない。実際、近道を通る時には、同じく近道を歩いてくる人間とすれ違ったり、追い越されたり、追い越したりもする。


 昼間なら気にならない背後の足音が何デシベルもの騒音ほどにも奈々子の耳に響いた。ひたひたひたと、足音はリズミカルだ。ヒールがアスファルトを打つ音ではないから、女性か男性かの判別がつかない。


 奈々子は立ち止まった。時間をかけて、レジ袋を持つ手を変える。「偶然」にも奈々子の後ろを歩いているだけなら、奈々子が立ち止っている間に追い越していくはずだ。


 背後の足音はピタリと途絶えた。近道は一本道だ。途中で別の道に逸れたということはない。


 奈々子は再び歩き始めた。心もち、歩くスピードをあげてみる。もうひとつの足音も少しテンポをあげて奈々子を追ってきた。


(まさか、ちかん!?)


 日が暮れる時間が早くなってきてからというもの、奈々子は夜道の一人歩きを避けてきた。暗くならないうちに近道を通って帰るつもりでいたのだ。予定がずれ、人通りのない近道を歩くはめになったのは太一のせいだ。思いがけなく太一に出会ってしまい、スーパー内で思わぬ時間をくってしまった。


 奈々子はさらに歩くスピードをあげた。もう一つの足音もスピードをあげる。


 勘違いなどではない。もうひとつの足音の主は確実に奈々子をつけている。相手とはどれほどの距離があるのか。奈々子は後ろを振り返りたい衝動に駆られながらも先を急いだ。


 近道は全長約二百メートルほどで、商店街と住宅街を結んでいる。商店街から入っていった先は住宅街にある広い通りに出る。街灯もあり、少ないながらも人通りはある。声を上げれば近隣に住む誰かに聞こえるはずだ。


 奈々子は、目指す先に小さくみえてきた街灯の明かりを目指して早足で歩いた。奈々子を見失うまいとして背後の足音のペースもあがる。


 近道の最後の数メートルを、奈々子は息を止めて駆け抜けた。街灯の投げかける丸い光の輪に飛び込んでいく。アスファルトの海に漂う浮輪のような明かりに助けられ、奈々子は生きた心地を取り戻した。ほっとしたのも束の間、息せき切ってきた興奮が血を頭におしあげた。逃げ回っているばかりでは、しゃくにさわる。一言、何か言ってやらないと気がすまない。


 街灯の明るさを味方に、足を止めた奈々子は後ろを振り返った。


「ちょっと!」


 暗い夜道で女をつけまわすなんて卑劣だと続けようとした言葉が喉もとで立ち止まった。


 住宅街への出口付近に男が立っていた。走ってきたようで、荒い息で肩が波打っている。背の高い男だ。


「鈴木……くん?」


 奈々子は暗闇の中、必死に目を凝らした。近くの家の外灯の助けを得て、ようやく男が太一だと確認できた。


 途中、奈々子を追い越していった人間はいなかった。だとすると、太一が足音の主、奈々子をつけてきた男なのだが?


「近道、歩いてきたんだ?」

「ああ……」

「ずっと、私の後ろを歩いていたんだ?」

「ああ……」


 息を整えながら、太一はうなずき続けた。


「もしかして、私のこと、つけてきた?」

「はあ?」


 太一は呆れていた。


「何で、俺がお前をつけるんだ」

「それを聞きたいのはこっちよ。夜道を歩く女の後をつけてくるなんて、なんだって、ちかんみたいな真似したのよ」

「ちかんって、わけわからんことを。俺んち、こっち方面なんだって」


 太一のその言葉を聞いた瞬間、奈々子はアスファルトの上にへたり込んでしまった。


「おいっ!」


 レジ袋を投げ出し、太一が奈々子のもとに駆け寄ってきた。太一の逞しい腕につかまり、奈々子はようやく立ち上がった。奈々子の手は、血の気を失って冷たく、小刻みに震えていた。


「びっくりさせないでよ。こっちはちかんかストーカーかとおもったんだから……」


 つけてきた男が太一だとわかって、ほっとしたのと同時に、別の怒りがこみあげてきた。


「家が同じ方向なら、どうして声かけてくれなかったの? 女が夜道をひとりで歩いていて、後ろから足音が聞こえたら怖い思いをするって思わなかった?」

「思わなかった」


 太一は率直に驚いていた。男には本当にわからないのだと奈々子の憤る気持ちは一気にしぼんでいった。


 辺りには、トマト、ヨーグルト、惣菜のアジフライ、スナック菓子やインスタント食品が散乱していた。奈々子が買った商品だ。全身から力が抜け、道路に座り込んでしまった拍子に奈々子の手からずり落ちていったレジ袋の中身だ。トマトはひしゃげ、ヨーグルトはふたが開いて中身がこぼれ落ちている。アジフライはパックから半身が出ていた。


「悪いけど、トマトとヨーグルトはあきらめな。アジフライもやめておいたほうがいいな」


 太一はスナック菓子やインスタント食品をレジ袋へと戻し始めた。


「いいって。自分でやるから」


 太一の手からポテトチップスとレジ袋をもぎとり、奈々子は素早い動きで辺りに散る買った物たちをかき集めた。アジフライは惣菜を買ったと太一に知られてしまい、恥ずかしさで顔があげられない。


「ほれ」


 アスファルトの地面をはいつくばっているような奈々子の目の前にカップ麺が差し出された。太一の手からカップ麺を奪い取るなり、奈々子はレジ袋に無造作に放り込んだ。


 街灯の下ではいつくばっている奈々子と、そのそばに突っ立っている太一の脇を、男が通りすぎていった。近道を利用してきたのだろう。奈々子と太一に顔を向けるなり、歩くスピードを落とし、通り過ぎて元のスピードで歩き去っていった。野球帽にサングラス、顔半分を覆うかのような大きなマスクをしていた。


「鈴木くん、たぶん、ちかんに間違えられたよ」

 膝頭のちりを払いながら、奈々子は立ち上がった。


「ん? ああ?」

 男の背中をじっと見送っていた太一が我にかえって奈々子を見下ろした。

「誰がちかんだって?」


「さっき通りすぎていった男の人。私が鈴木くんに襲われたところに出くわしたと思ってるよ」

「なんでそうなるよ」


 憤慨する太一にむかって、奈々子は辺りを指し示した。つぶれたトマト、中身をぶちまけられたヨーグルトの容器、中身の散るアジフライのパック。買い物帰りを襲われ、レジ袋の中身が飛び散った惨状と見えなくもない。


「誰がちかんだよ。誤解もいいとこだっての」


 男の去った先を睨みつけながら、太一は口をとがらせていた。

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