⑦アカウント名:匿名記者ガメ蔵

 匿名記者ガメ蔵@gamezoukisya

 批判覚悟で言います。結婚して、子供産んで、働くことがそんなに偉いのでしょうか?原稿は週に一本しか書かない。時短勤務。給料は俺より高い。なのに「若い子は時間があって良いね」って、よく言えると思います。こっちだって、命を削ってやってんだよ!

 10:32 2022/08/19 Twitter for iPhone


 県警キャップの江藤健司えとう・けんじはその日、珍しく感情を爆発させていた。その矛先は総キャップの戸丸八重とまる・やえに対してだ。

 きっかけは、この日の朝刊の県版紙面のトップ記事で起きた訂正案件。県警担当の若手記者、尾崎海斗おざき・かいとが「鬼怒通り」を「鬼怒川通り」と打ち間違えたまま紙面化した。

「何でそんな簡単なミスをするかなぁ。記者同士で読み合わせしなかったの?」

 娘二人の送迎を終えて、十時にいつも通り支局に出社した戸丸が呆れ顔で放った一言に、江藤が猛然と噛み付いた。

「読み合わせ⁉︎ そんな時間あるかいボケェ!」

「な、なっ……」

 驚愕に目を見開いた戸丸に、江藤はさらに言葉の弾丸を浴びせる。

「ただでさえ、ここ数年、現場の兵隊は減らされてんねん! なのに、東京本社の連中は『宇都宮発の特ダネがない』だのと、抜かしおる。例のオリオン通りの放火の件だってな、いつ動くか分からねぇ状況なんだよ。こっちは寝る間も惜しんで、神経すり減らして、本部長や副署長、刑事部長の動きに目を光らせとるんや! なのに、あんたときたら……本社の連中の打診を何でも素直に『はいはい』と受け入れやがって! 尾崎がえらい大変な状況も理解せんで、昨日は『暇ネタでトップ張れ』と言いよった。尾崎はな今、東京本社にわざわざ上がらされて、見せしめの謝罪行脚をさせられとんねん! 訂正以上の地獄の苦しみを味わっとるんや!」

 尾崎はこの日の始発で、始末書を提出するためだけに、東京本社に向かっていた。江藤は声を震わせて、鼻息荒く続ける。

「最近のあんたさ、一体何様だよ? 総キャップの仕事だか、何だか知んねーけどよ、何でもかんでも、下の兵隊に振るのが、総キャップの仕事だと思っているだろ? あんたさ、産休がもう使えなくなるから、ロンドンに旦那置いて帰ってきたんだよな? わざわざ働く場所を実家がある宇都宮にしてもらっとるのだって、育児を両親に手伝ってもらうためだよな? 自分がこの会社に残りたいがために、あんたがした選択だろうよ!」

 そうだ。戸丸は産休が使えなくなるギリギリのタイミングで、娘二人を連れて帰国した。

だが次の瞬間、江藤の顔が「しまった」という表情に変わった。

 戸丸が震えていた。鼻を啜り、泣いていた。

「私だって……悪いとは思っていたよ……でも……」

 そう言って、それ以上言葉を発することが出来なくなった。

 静寂。支局全体が水を打ったように静まる。戸丸の嗚咽おえつだけが響いていた。そこに居合わせた全員が、小動物の如く、顔を遠慮気味に上げて、事態を見守っていた。

 その静止した世界からいち早く動き始めたのは江藤だ。

「言い過ぎました。戸丸さん、ホンマすみません」

 深々と頭を下げてから声のトーンを何段階か落として続ける。

「俺だって、三十二にもなって結婚もしていないです。ですけど、岡山の父親の介護やらあって大変なんです。あなただけが、大変なわけではないです。それは理解してください。若い連中は頑張っています。だから、せめて『若手は時間があっていい』という言葉だけは、もう口にしないでください」

 そう言って、頭を深々と下げる。靴音を鳴らして、支局のドアから出ていった。

 キュッ。江藤は非常階段で森藤と鉢合わせになり、踵を鳴らして止まる。ハッとした表情をした後に、バツが悪そうに頭頂部を掻きながら江藤は言う。

「森藤、今の聞いとったんか? 今朝の尾崎のことを思い出したら、収拾しゅうしゅうがつかなくなっちまってな……」

 それだけ言うと、江藤はポンと森藤の肩を叩いて非常階段を降りていった。


 匿名記者ガメ蔵@gamezoukisya

 業務過多で誰もが大変だ。それは分かる。だけど、記者云々である前に、まずは他人の気持ちを理解できないと。そうじゃなきゃ、今朝、電話で泣きながら、俺に何度も謝ってきたあいつが浮かばれねぇじゃないか。

 10:45 2022/08/19 Twitter for iPhone

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