第3話

ずっと違和感があった。

 これか。

 血だらけの額を抑えたときに、一瞬「ビオラート」の記憶が流れ込んできた。

 以前、この目の上の傷を受けたときに、ビオラートが踏ん張ってこらえてきた何かが足元から崩れた。

 家族に期待も希望も見つけられなかった。

「いちいち口答えするんじゃねえ!」

 ビオラの父親はカップを持ったまま怒鳴った。

 また、酔っぱらっているのか。

 こうやっていつもビオラートに当たり散らしていたのか。

 今は私が渦巻人とわかっていても、殴らずにはいられないのか。

 本当に馬鹿な男だな。

「外で洗ってきます」

 暗い外へ出た。

 月はない。星だけだ。

 誰かと交代したいほどの絶望がすみれの魂を呼んだのね。


 傷口を血で洗って戻ると夕飯は片づけてあり、誰も食堂にいなかった。

 ビオラは部屋に戻り、真っ暗な部屋に入った。

 窓を開け、床に座る。

 お祈りにも見えるその姿をトーマスは扉からそっと覗いた。

「お祈りしているよ」

「けっ、善人ぶりやがって。いつも見下した目をしていやがる。気に入らねえ」

 寝室で父親はワインを浴びるように飲んでいる。かなり出来上がっているようだ。

「薄気味悪い表情していて。あんた、町の酒場も全部支払ってあったわよ。おかみさんに嫌味言われたわ。支度金があるはずなのに、なんでビオラから払ってもらうわけって。お金をどうしてるのかって」

 母親が、末の子に寝間着を着せながら言った。

「俺がもらったんだ、どう使おうが俺の勝手だ」

 母親が、あちこちの支払いを済ませてあったと知った。

 隣の畑の夫婦にも支払ってあったらしい。

「俺に金を貸すから悪いんだ。返さないとは言ってないのに、どいつも俺が踏み倒すみたいなことを言いやがって」

 がばあっとワインを飲んだ。

「でも島主様に知られたら困るんじゃ?」

 寝室に家族全員が集まっていた。

 トーマスは、ジョージ様に見つかることを心配していた。

「監視人なんていないじゃないか。学校でもいたか?」

 シャーロットとトーマスは首を振った。

「最近は授業に出ないで、ジョージ様やヘンリー様と一緒だし。教会の寄付もしてあったって。この前司祭さまに言われた」

「今日なんて竜騎士の人と一緒だったのよ!信じられない!」

「竜騎士!?」

 めったにお目にかかれない竜騎士になぜ。

「渦巻人だからかっ」

 島主なんて貴族の偉い人間から、ヘンリー卿といったら、中央貴族だぞ?そんな人間と普通に話して、しまいには竜騎士だと?

「俺の娘のはずなのに!ふざけんな!」


 ビオラは、窓に向かって祈るように心の中へ問いかけた。

 以前、ヘンリー様に借りた昔の本に、以前の渦巻人のことが書いてあった。

 心を落ち着かせれば、女神より授かった力が発揮できるだろう。と。

 明かりもつけず、窓からも明かりもなく、暗い部屋で膝をつき、心を開放した。


<< ビオラート、聞こえる?あなた、ものすごく頑張ったじゃないの?ここまで凄いわ。

 すうっと部屋の中へ、少女の形をした光のもやができていた。

<< ごめんなさい。あなたを呼んでしまった。

<< いいのよ、ちょうど死んだところだったし。

 ウインクをして、ビオラは光の少女に話をした。

<< それよりも、明日にはここを出るわ。何か持っていくものある?

<< …いいえ、何も。この部屋は姉さんの部屋だし。

<< やっぱりね。しぶしぶ部屋を譲ってくれたわけか。

<< 渦巻人はお金になるって有名だったから。

<< だから、隣のおばさんが面倒見るって言ってたの?


 お隣の畑の家にもきっと何か借り物をしているだろうと、ビオラは聞いてみたのだ。

 案の定、お金や畑道具やら色々借りて返していないらしかった。

 謝りながら、お金を渡すと、隣の奥さんはこういった。

 ―もっと早くにビオラートを引き取ればよかった。でも、スコットリア夫妻にもの凄く反対されてね。

 ―あの子はもういないのね。最後までかわいそうなことをしたわ。


<< ううん、それは私がいつもボロボロでおなかを空かせていて、小屋で寝ていたから。かわいそうにって。

<< …そうか。親切な人はいたのね。よかった、ちょっと心配だった。よく頑張ったね。

 そっとビオラは、光の自分を抱きしめた。

<< うん、うん。

 光のビオラートは涙をふくこともせず、ビオラに抱き着いて大泣きした。

 8才の子供が一番頼りたい親に虐げられ、姉や兄にも見放されていた。

 特別なものなんて求めていない。

 ただ、抱きしめてほしかっただけ。

 ただ、頑張ったと褒めてほしかっただけ。

 ただ、やさしく頭を撫でてほしかっただけ。

<< 痛かったね。さみしかったね。もう大丈夫だよ。

<< うん。

 光のビオラートの両手を握り、ビオラは聞いた。

<< とても大切なことを聞くわ。ビオラートはこれからどうしたい?私と一緒に生きる?私と入れ替わる?それとも…

 最後の提案はしなかった。だが。

<< つかれちゃった。ゆっくり眠りたい。

<< …わかった。

 ビオラートは窓に向かって座りなおして、もう一度祈りの形に手を組んだ。

『天空の女神よ、どうかこの小さな魂をその御手に』

<< あたたかい…

<< さようなら、ビオラート。残りの人生を無駄なく使わせていただきますね。

<< うん。さよなら。

 ビオラの手から光が消えてなくったときに、ビオラートもこの世界から心安らかに旅立っていった。


 翌朝、両親は末の子を連れて畑へ出ていた。

 子供たちは学校へ行く前の朝食をとるところだった。

 ビオラの額の血は止まっていた。

「なんで血が止まっているの?」

「なんか特別な呪文でも知ってるのか?」

 姉と兄は少しでも知識のおこぼれをもらおうと必死だった。

「別に」

 といって、テーブルのパンに手を伸ばした。

 パン!とシャーロットが手をはたく。

「あんたが食べるパンなんてないわ!」

「今日は支度を手伝っていないですものね」

 にこっと笑った。

 その笑顔を見て、頭にきたシャーロットは、ビオラの頬を叩いた。

 はたかれたビオラはじろりと姉をにらんだ。

「何よ、何か文句あるわけ?何が渦巻人よ!また家畜小屋で寝泊まりすればいいんだわ」

「姉さんに謝れよ、ビオラ」

 ふうとため息をついて、急に小指に歯をたてた。

「ひっ!」

 鮮血がダラダラとしたたる。

 額に巻いていた布切れに何やら血文字で書くと、外に出た。

「テト!」

 トーマスのコウノトリの名を叫んだ。

 足に先ほどの布をくくりつけた。

「いい?ジョージ様のお屋敷に行って?知ってるわね?ヘンリー様でもいいわ。わかった?」

 血だらけの手でテトのくちばしと首をつかんで、目を合わせてビオラは伝えた。いや、脅したといった方がいいかもしれない。

 テトは砂埃をあげて急いで飛んで行った。

「な、何を伝えたわけ?出ていけば?」

「出ていきますよ、言われなくても。迎えがくるまで待つだけです」

 くるくると器用に指に布を巻くと、外への戸を開けて、振り返った。

 ダイニングセットに暖炉。キッチンがあって、階段があって小さな部屋があって。

 ビオラート、お別れね。

 さようなら、新しい人生を送るわね。

 何が待つかわからないけど、この世界に呼ばれた理由を探しにいくわ。

 ばたんと背で閉めた。


「行くのか」

 庭にトトがいた。

「王島にいってどうなるんだよ、貴族どもにいいようにつかわれるぜ。教会だってそうだ」

「でも行くわ。色々やりたいことがあるし。少しでも私の知恵が役に立つならね」

「そんなの教会が利用したいだけだ。行くんじゃねえよ」

「なぜ肥料のことを話した?」

 声のトーンが先ほどと違って、低くなった。

 怒っている?

「お前だな。ジョージ様のところしかなかった試作品を父親に話したのは」

「お、おれは」

「あれは効果が出るまで時間がかかる。結果が出なければ何もならないから、成功したら王島に言う予定だった。それ用に記録もしていたのに」

「ち、違う、俺はただ」

「なぜしゃべった?後先考えずに」

「そうじゃない、俺は」

 肥料のことは後々王島に知らせるつもりだったからいい。

「ビオラートに対してもだ。食事も着るものもろくに与えない、ケガをさせても手当せずそのまま。前の傷もそうだな?」

 ビオラは前髪をあげた。

 痛々しい昨夜の傷とは別の、目の上の傷。

 トトは目をそらした。

「見ているだけは同じ罪だ、トト」

「…」

「私の目を見ろ。そらすことは許さない」

「!」

 トトは震えはじめた。

 目をそらせない。

 体がこわばっている。

 初めて人から恐怖を感じた。

 こ、殺される…


「お前だけは違うと思ったのに」


 ああ、俺は。

 怖いのはこの人に捨てられることだ。

 嫌なのはこの人に嫌われることだ。


「ビオラ、聞いてくれ、俺は」

 トトが弁解をしようとした時に、トーマスに連れられてビオラの両親が畑から戻ってきた。

「何をしているんだ!」

「ご迷惑なようなので、出ていくところです」

「迷惑だなんて、あなたは私たちの娘なのよ?」

 猫なで声で母親が手を取る。

 血だらけの手じゃない方を取るのね。

 普通の母親なら、ケガを心配するでしょう?

「本当に毒の親だ」

「何だと!?」

 ビオラの胸倉をつかんで、右頬をぶった。

 勢いよくビオラの体が吹っ飛ぶ。

「一晩倉庫につるしてやる。お仕置きだ」

 髪の毛をつかんで、ビオラを引きずるように立ち上がらせた。

 くすっとビオラが笑った。

 あはは、あははと声を出して笑った。

 気持ち悪い、とビオラの家族はみな寒気がした。

「ああ、もう本当に」

 髪の毛をかきあげて、口の中の唾をぺっと吐いた。血が飛び散る。

「ビオラート、あんたは本当にがんばってきたんだね」

「はあ?何言ってんだ」

 もう一度父親が殴ろうとしたのだが、その腕をつかんで、倉庫に投げ飛ばした。

「わあ!」

「お前さん!」

 兄のトーマスが怒ってビオラに飛び掛かったが、そのまま後ろに投げられた。背中から地面に打ち付けられる。

「うぶっ!」

 ビオラはそのままつかつかと姉のシャーロットに近寄った。

「さっき私をなぐりましたよね?」

「あ、あっ…」

 びしっと、ビオラは右手でシャーロットの頬をはたいた。

「さっきの分です。これは、手の分。これは…」

 パン!バシン!と頬を打つ音が響いた。

 ビオラの手の布が取れる。

「痛いですよね?ビオラートは痛いも言えなかった。だからあなたはまだ良いほうなんですよ?」

 痛さのあまり、座り込んでしまったシャーロットの目はうつろだ。

「聞いてます??」

 胸倉をつかんでビオラは目を合わせた。

「ひい!」

「や、やめてビオラ!」

 母親が、シャーロットをかばった。

 ビオラの中のビオラートが残っていたのかはわからない。けれど、チリチリと冷たい炎が燃えたのがわかった。

「ええ、「やめて、シャーロット」ですよ。先に殴ったのはシャーロット。お母さん、名前が間違っていますよ?ね?」

 血だらけの手で、母親の頬を撫でた。

 べったりと頬にビオラの血が付く。

 母親は、音がするくらいに歯を鳴らして震えていた。

 目が、怖い。何を見ているの?なんで笑っているの?

 この子、本当にビオラートじゃない!

 そこへ大きな影ができた。

「ビオラっ!」

 竜騎士ルークだった。

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