不良学生をやっている煌司こうじ廉史れんじだが、案外その生活は規則正しい。


 朝は基本的に煌司が六時に起床。おおむね六時半までに身支度と朝食の準備を整え、爆睡している廉史を叩き起こす。七時までには二人揃って朝食を食べ始め、テレビを眺めつつ、のんべんだらりと朝食を終える。その後、真面目に学校に行くかどうかは気分次第だ。


 そしてこのルーティーンは休みの日でも変わらない。むしろ、休みの日の方が二人揃ってもっとキビキビと行動している。


 なぜなら休日の朝一に入れられているのが、大概錬対の剣術指導……二人が唯一言うことを聞かざるを得ない師匠である、三好みよし室長が直々に出張ってくる体錬であるからだ。


 ──とはいえ、この状況で予定通りに体錬が行われるっつーことに、疑問を抱く大人はいねぇわけ?


 煌司が意識を取り戻してから二日後。すなわち、埠頭ふとうが焼き払われてから初めての週末の朝。


 稽古着に身を包んだ煌司と廉史は、道場の板間に正座していた。対面にはこちらも稽古着を纏った三好が、煌司達と同じように座している。


 道場に他の人間の姿はない。それどころか、煌司が感知できる範囲内に人の気配はひとつもなかった。いつもは何だかんだと他にも鍛錬に励む人間の姿があるから、恐らくわざわざ人払いがされているのだろう。


 ──ツラを見るのは、クーデター参加者捕縛の報告をした時以来だな。


 時間だけで言えば、割と間を開けずに顔を合わせている。だがその間に自分達は色々とやらかしすぎた。


 煌司はどんな顔をすればいいのか分からず、背筋を正したまま視線を三好の膝先に向けていた。隣に座す廉史は三好の圧に今の時点で負けてしまっているのか、分かりやすくうつむいて全身を縮こまらせている。


 そんな状況で、すでに数分が経過していた。ちなみにその『数分』というのは三好が入室してきてからの時間である。『明日の体錬は通常通りに行うって話だけど……』と昨日顔馴染みの捜査官から伝えられていた二人は、いつもと同じように先にこの場に待機していた。つまりその分、三好よりも長くここで正座していることになる。


 ──気まずいっつーのもあるけど、足がそろそろ痛ぇんだっつの。


 そんな煌司の胸中の不満が聞こえたわけではないだろうが。


 不意に、ふぅ、と三好が深く息をついた。その音に煌司と廉史の肩がビクリと跳ねる。


「……話は、村井むらい経由で【Nacchi.ナッチ】から聞いた」


 その言葉に、廉史の膝頭に置かれていた指先がキュッと袴の布地を握り込んだ。それを視界の端で捉えた煌司は、ありったけの気力を振り絞って視線を三好に据える。


 対する三好は、最初から煌司を真っ直ぐに見つめていた。その視線の中に常にはない感情が宿っていることに気付いた煌司は、思わずハタハタと目をしばたたかせる。


「テメェら、そんなに錬対俺達が信用できねぇのか」


 常と同じ、低い声音。ともすれば恫喝どうかつしているのかとも思える、威圧感のある雰囲気。


 だが三好が煌司に据える瞳には、一抹の寂しさとも受け取れる、静謐な光が宿っていた。


 ──怒って、ない?


 煌司と廉史はあれだけのことをやらかした。今までの反抗なんて物の数にも入らないような大失態で、違反行為で、取り返しのつかない暴走行為だったと、誰に言われなくても分かっている。


 未来を誰かに勝手に決めつけられるのが、嫌だった。


『特殊な能力を持って生まれてきたから』という理由だけで、親友の将来を勝手に決められてしまったのが不愉快だった。誰よりも大事な相棒が、色々な理不尽を押し付けられて泣いているというのに、ただ黙って見ていることしかできない現状が腹立たしかった。


 煌司が廉史を巻き込んで周囲に反発したのは、そういう感情があったからだ。


 ──逆を返せば、


 ただ、それだけのこと。


 それ以上に暴力的な感情があったわけではない。周囲を引っ掻き回したかったわけでもなければ、誰かに迷惑をかけたかったわけでもない。ましてや世界や社会をグチャグチャにしたかったわけでもない。


 今回の自分達の行動は、あまりにも考えなしに周囲を振り回しすぎた。敵側とはいえ死人が確実に出ていて、多くの物的損害も出した。自分が巻き起こした事件が、今後どれだけの範囲でどれだけの規模の揉め事を起こすかも分からない。


 叱責を受けるだけでは済まない。だがどう責任を取ればいいのかも分からない。


 とにかく、第一声ではド叱られるだろうし、それが当たり前であると覚悟もしてきた。


 だと、いうのに。


「俺達が、そんなに簡単に黒浜を見殺しにすると思ってんのか」

「……ああ」


 そんな風に、厳しくも対話をしてくれる前提で、問いを振ってくるから。


「ああ、思ってる」


 煌司の口からは、腹をくくるよりも早く、長年押し殺してきた本音が滑り落ちていた。そんな煌司の物言いに、息を飲んだ廉史が顔を跳ね上げる。


「シラ?」

「昔っからずっと思ってた。あんたらは、自分達に都合が悪くなった瞬間、レンを壊すんじゃねぇかって」


 煌司の容赦のない物言いに、息を飲んだままの廉史が反射的に手を伸ばす。煌司を引き止めるかのように袴の布地を摘んだ指先は、隠しきれないくらい大きく震えていた。


 だが煌司はそんな廉史をあえて視界から締め出す。


「あんたらが守りたいのは、結局は『歩く物リビング・的証拠エビデンス』であって黒浜くろはま廉史じゃない。あんたらは『歩く物的証拠リビング・エビデンス』をするためならば、黒浜廉史を壊す。俺の目にはそう見える」


 こんなことを正面から言えるチャンスは、もう二度と巡ってこないかもしれないと思ったから。


「俺が守りたいのは、黒浜廉史だ。特殊錬力だの、特殊能力だの、心底どうでもいい。大事な親友ダチを守るためなら、俺はたとえ相手があんたらであっても迦楼羅カルラを抜く」


 煌司の表情が変わったことに、三好は気付いているのだろう。変わらず煌司を真っ直ぐに見つめた三好は、何かを推し量ろうとするかのように静かな視線を煌司に注ぎ続ける。


 その瞳を真正面から受け止めて、煌司ははっきりと言い切った。


「その覚悟とともに、俺はずっとやってきた。これからだって、ずっとそうだ」


 そんな煌司の物言いに、廉史は煌司の袴の布地を摘んだまま息を飲んだようだった。もはや廉史の意識から三好の存在は抜け落ち、煌司だけがその意識を占めているのが分かる。


 ──んだよ、お前。今更『知らなかった』とか言わせねぇからな。


「お前はなぜ、錬対が黒浜を壊す可能性があると考えるに至った?」


 煌司がここまではっきりと錬対に楯突いたのは初めてだ。日頃の態度で薄々とは伝わっていただろうが、明言はしてこなかった。


 犯人確保の時と同じだ。自白が取れなければ、黒と判断することはできない。


 その『自白』にあたる発言を今まさしく煌司が口にしたというのに、三好の眼差しは変わらず静かなままだった。その上で三好は、さらに煌司と対話を重ねようとしてくれている。


 ──思えば、こんな風に正面から斬り込んでくるのは、初めてだよな。


 だからこそ、煌司も腹を括る。


 事態がどう転ぶかは分からない。だがどう転ぶにせよ、この好機を見逃す手はない。


 この問答に『黒浜廉史』の今後の人生がかかっているというならば、ここで引くことなど煌司にはできないのだから。


「今までだって、錬対はレンを都合がいいようにしか使ってこなかっただろ」

「シラ」

「『研究』って言って、レンが同意してねぇのにプライベートにまで踏み込んで色々調べ回って。レンを便利に使うための情報は詰め込むくせに、捜査の肝になるような情報は寄越してこない。あげく『敵対組織に捕まったら、情報を抜かれる前にこれで頭吹っ飛ばして死ね』って中坊に大口径の拳銃押し付けてんだぞ? この扱いでなぜ、錬対はレンを壊さないって思うことができる?」

「シラっ!」

「レン、お前はちょっと黙ってろ」


 視界から締め出していても、煌司の物言いに廉史が顔から血の気を失っていることは雰囲気で分かる。当事者でありながら、廉史を会話から締め出していることに違和感も覚えている。


 それでも、煌司は己の口から、己がずっと思い続けてきたことを三好に叩きつけたかった。


「今回、俺達は、捕まえ損ねた人間は三好恒継ツネツグなんじゃねぇかって目星をつけた。俺達を襲撃してきた首謀者も同じだと思ってる」


 その衝動のままに、煌司は言葉を続けた。


「三好恒継はあんたの弟だろ。あんたが弟の肩を持ったら、レンは真っ先に消される。レンの記憶さえなけりゃ、三好恒継に辿り着ける情報はねぇんだから」


 鬱々と、苛々イライラと、ずっとくすぶり続けてきた。


 それは親友ダチが理不尽に扱われることへの怒りであり、それ以上に自分自身への怒りでもあった。一番間近で親友が置かれた状況を見ていながら、何も変えることができない無力な自分への怒りだった。


 今だって自分は、ただ苛立ちを三好にぶち撒けることしかできない、無力なガキではあるけれど。それでも。


 ──それでも。


「『守るため』って展開されてる防壁は、守るベクトルをいつだって真逆に変えられる。防壁はあんたらの一存で、いつだって檻に変えられる」


 それでもきっと廉史は、この状況でも、押し殺した本音をぶち撒けることなんて、できないだろうから。


 だから代わりに全部ぶち撒けて、いざとなったら叱責を全て引き受けることくらいは、したいと思った。


 怒り方を忘れた廉史の代わりに怒ることくらいなら、今の煌司にだってできるから。


「お綺麗なツラを取り繕われたまま、『大義』のためにレンを殺されてなんかやるもんか」


 その覚悟とともに、煌司はえる。


「レンの人生は、レンのモンだ。テメェらの勝手にされるなんざ、死んでもゴメンなんだよっ!!」


 圧の籠もった声に、ワンッと場の空気が震えた。その圧に払われて、いつになく深い静寂が場を満たす。


「シラ……」


 その静寂の中に、ポツリと廉史の声が落ちた。いまだに廉史の指先は煌司の袴を握っているが、いつの間にかその指からは震えが消えている。


 自分に一心に視線を注ぐ廉史の存在を感じながらも、煌司はただひたすらに三好へ視線を据えていた。


 静かに視線を注ぐ三好の表情には、相変わらず変化らしい変化はない。これが剣術試合であったならば、感情を露わにした時点で煌司が負けている。


 変わることのない『凪』を前に、煌司はグッと奥歯に力を込めた。


 全身が細かく震えている。視線を逸らさないのも、この場に留まっているのも、もはや意地だ。本心では、今すぐ廉史の腕を取って、この場から逃げ出したくてたまらない。三好が醸す圧は、それくらい煌司にプレッシャーを与えている。


 そんな、ピンと張り詰めた静寂の中。


 先に視線を逸らしたのは、意外なことに三好の方だった。


「……


 緩くまぶたを落とした三好は、溜め息の中に混ぜるように煌司の名を呼んだ。



 さらに目を開いて、廉史の名も。


 その呼び方に、煌司と廉史は思わず息を詰める。


「お前らが言いたいことは、よく分かった」


 ──その、呼び方……


 普段、三好は煌司と廉史のことを『白浜しらはま、黒浜』と名字で呼ぶ。それが一種の職務上での線引であるのだということは、歳を経るごとに何となく理解していった。


 三好が二人を名前で呼ぶのは、職務を外れた時だけだ。


『錬力犯罪対策室室長』としてではなく、『三好剛三ゴウゾウ』という一個人として……煌司達の第二の保護者として口を開く時にだけ、三好は二人を下の名前で呼ぶ。


花宮はなみやと村井に叱られた。第二の親父を自認しているなら、ガキどもに言葉を惜しむなと」

「え」


 思わぬ言葉に、煌司の口から気が抜けた声がこぼれた。妙に声が響いたなと思って隣に視線を流せば、三好に顔を向けた廉史もポカリと間抜けな顔をさらしている。


「俺ぁ、言葉にして伝えんのが、苦手だからよ。……オメェらが問題なくやれてんなら、勘違いされたままでもいいと思ってた。怖がられて、嫌われてるくらいの距離感の方が、ベタベタ距離が近ぇより、お前らも安全だろうとよ」


 煌司達に視線を戻した三好は、ひとつひとつ、言葉を選びながら喋るかのように、ゆったりとした口調で言葉を紡いだ。


 その言葉ひとつひとつを体全体で聞くかのように、煌司の意識は三好の声に引きつけられていく。


「だが、それは間違いだと、花宮にド叱られた。あいつらはもう、俺が思ってるほどガキじゃねぇんだと。事情をキッチリ説明して、いざとなったらお前らの意思できちんと動けるように状況を整えてやんのが、今のお前らを真実『守る』ってことになるんじゃねぇかってな」


 ──守る? 俺達を?


 思わぬ言葉に、煌司は息を詰めた。


 これが常のやり取りの中で出た言葉であったならば、煌司はすでに噛みつくような反論をまくし立てていたことだろう。今それができないのは、三好が煌司達を対等の相手とみなし、真摯に言葉を紡いでいると分かるからだ。


「お前らに最低限の情報しか与えてこなかったのは、お前らを必要以上に巻き込まねぇためだ」


 錬対の捜査に関わっているとはいえ、煌司と廉史の身分はまだ『高校生』だ。いくら煌司が高校生離れした戦闘力を備えていようとも、危害を加えようと思えば本職捜査官達を害するよりも簡単に手を出すことができる。


 そんな煌司達に錬対が必要以上に情報を与えてしまえば、良からぬ輩に目を付けられやすくなる。そんな事態を防ぐためにも、『あの二人は錬対に便利に使われているだけで、肝の部分は何も分かっていない』と周囲に印象付けた方が安全に繋がると考えた。


「廉史に拳銃を自害用と称して支給したのは、いざという時に『自力で死ねる』という手札を与えておきたかったからだ。拷問にかけられて無闇に苦しい時間を過ごす前に、死を選ぶ自由がお前にはあるのだと、教えておきたかったからだ」


 貴重な情報を握る捜査官ほど、その身柄を敵対勢力に狙われる。そしてその全員が己の身を守りきり、円満に錬対を退職できるわけではない。


 錬力犯罪に長く向き合ってきた三好は、そのことを嫌になるほど知っている。上官が、同僚が、後輩が、凄惨な事件に巻き込まれて無惨に死んでいく様も、敵対勢力に捉えられて死よりもなおむごい拷問にかけられた後の有り様も見てきた。


 歴代の捜査官の中に、廉史に似た錬力を持つ捜査官がいなかったわけではない。だが廉史はその中で比較しても特異な存在だ。いずれ必ずその身は『錬対のデータベース』として狙われる。敵方の手に落ちれば、廉史に課される拷問は熾烈を極めるだろう。


 だからこそ、完全に敵方の手に落ちるか、その前に最終手段として死を選ぶか。せめてその二択を迷うくらいの自由は、あってもいいだろうと考えた。


「錬力学研究所の調査に関しては、俺の方からも度々苦情と改善提案を入れている。……だが、中々聞き入れてもらえないのは、俺達の力不足に他ならない。プライバシーに関わる情報は、なるべく触れないようにと、こっち側の人間には徹底させている」


 すまなかったな、と言葉を締めくくった三好は、膝に両手を置いたまま深々と廉史に頭を下げた。まさか三好がそこまでしてくるとは廉史も思っていなかったのか、息を飲んだ廉史がワタワタワタッと意味もなく片手を宙に遊ばせる。ちなみに反対側の手は、煌司にすがるかのように煌司の袴の布地を摘んだままだ。


 ──いや、すがられても、俺もどう反応したらいいのか分っかんねぇって、こんなの……っ!!


「俺からの説明は以上だ。他にいておきてぇことはねぇか」

「そ……っ」


 頭を下げた時と同じ速度でゆっくりと頭を上げた三好は、静かな表情のまま再び煌司と廉史を見やる。その表情も声音も常になく穏やかだというのに、煌司と廉史は思わず体をビクつかせていた。


 そんな二人の様子をどう捉えたのか、三好はわずかに眉を上げながら言葉を重ねる。


「お前らが抱えてきたわだかまりがすぐに溶けるたぁ思っちゃいねぇ。ただ、このままじゃ良くねぇと思ったから、こっちが勝手に腹を割ってみたってだけだ。テメェらに何かを求めてるわけじゃねぇから、安心しろ」

「いっや、そ……」


『そういうことが気になっているわけではなく!』という主張が胸中を勢いよく跳ね回っていたが、なぜか言葉にならなかった。もどかしさに思わず廉史に視線を向けるが、廉史は廉史で目を白黒させながら煌司を見上げていて言葉が出そうな雰囲気ではない。


 ──あ、これ、レンはアテになんねぇな。


「みっ、三好恒継に関してはっ!?」


 やはり自分がどうにかするしかないとすぐに意識を切り替えた煌司は、とっさに口をついた言葉をそのまま叫んでいた。そんな煌司の言葉に、三好がさらに片眉を跳ね上げる。


「師匠の弟が本当に黒幕だったとしたら、師匠はどうすんだよっ!?」

「どうするもこうするもねぇ。法にのっとりしょっくだけだ」

「でっ、でも!」

「『でも』も『だって』もクソもあるか。そもそも俺ぁ、最初からあいつをクロと踏んでたから、お前ら二人をあの現場に投入してんだぞ」

「え?」


 予想していなかった言葉に、今度こそ煌司は言葉を失った。煌司にすがりついた廉史など、パカリと開いた口が閉じる気配すら見えない。


 そんな二人を静かに見据えたまま、三好は呆れたような響きの声で言葉を重ねる。


「あいつは前々から錬力クーデターへの関与が疑われていたが、証拠が出なくてな。錬力庁高官という身分とあいつに繋がってるツテを考慮するならば、バシッと言い逃れができねぇ状況でお縄にしたい。だからこそ俺はお前らをあの場に投入したんだよ」

「え……罰則って話は……」

「罰則がなくても、キッチリ正面から頼みに行く予定だった」


『その前にオメェらがバカやらかしたんだろうがよ』と続けられた言葉に、煌司は何だか肩の力が抜けてしまった。


 ──いや、……何だよ、それ。


 自分達が掴んだ情報は、予期せぬ形で知ってしまったとんでもない事実ではなく、錬対からしれみれば予想の範囲内の、むしろ一番狙っていた成果だった。煌司と廉史の二人ならばその情報を引き出せると期待されていて、自分達はその期待に見事に応えていた。


 ──伝えられてなかっただけで、俺達、錬対にメッチャ期待されてんじゃん。


「煌司、お前が焼き払った埠頭だが」


 何だか気が抜けてしまった。


 煌司が思わずへニャリと姿勢を崩した瞬間、まるでその隙に斬り込むかのように三好は話題を変じた。とっさに意識を切り替えられなかった煌司に対し、今度は廉史の方が緊張に肩を強張らせる。


「しっ、師匠! あれは、シラが俺を助けるために……っ!」

錬対こっちとしては、何らかのイチャモンを吹っかけてでも焼き払いたくてウズウズしていた場所だ」

「……え」

「よくやった」


 今度こそ煌司は言葉を失った。


 自分達が三好にこうもストレートに褒められることなど滅多にない。その珍しいお褒めの言葉を、どう足掻いても責任など取れっこない大失態で賜ったのだ。いかに煌司といえども、思考回路が止まりもするというものだろう。


「オメェらの行動は手放しに褒められたモンじゃねぇが、上げてきた成果は絶大だ。これからも励め」


 煌司が腑抜けた顔のまま固まっている間に、三好はスッと立ち上がった。ずっと正座で相対していたとは思えない機敏な動きで立ち上がった三好は、上から二人を見下ろし、常と変わらない声音で告げる。


「今日の13時から捜査会議が開かれる。お前らも来い。こっちが掴んだ情報を全部開示する。今後はお前らの身の安全のためにも、こっちの情報をふまえて行動しろ。こっちで進展があれば、それも逐一お前らに伝達するようにする」


『俺からは以上だ』と言葉を締め括った三好は、そのまま煌司と廉史を放置して身を翻した。いまだに言葉を失っている二人は、三好の背中を呆然と見送るしかない。


 そんな二人の視線の先で、不意に足を止めた三好が振り返った。


「ケガすんなよ」

「お……押忍オス!」


 反射的に口にできたのは、その一言だけだった。だがその短い返事に三好は微かな笑みをこぼす。


 結局三好はそのまま道場を後にしてしまった。人気ひとけが消えた道場の中に、ポツンと煌司と廉史だけが残される。


「……えぇ?」


 二人して随分と長く三好が消えた扉を見つめた後、廉史が小さく声をこぼした。煌司に至っては、いまだにうめき声ひとつこぼすことさえできない。


「いや、それ……ほーれんそぉ?」


 傍から聞いたら意味不明なその言葉が『そういう事情があったならば、最初からきちんと伝えといてほしかったんですが?』という三好への苦言であることを理解できるのは、恐らく世界で煌司だけだろう。その煌司だって、廉史と同じことを思っているからその意味が分かるだけである。


「……」


 思わず煌司は無言のまま廉史へ指を伸ばすと、廉史の頬を思いっきり引っ張った。予期せぬ場所から予期せぬ奇襲をくらった廉史は、頬をつねられたままホニャホニャと抗議の声を上げる。


 最後に煌司がパチンッと指を離すと、廉史は引っ張られていた頬を片手で押さえながらキッと煌司を睨みつけた。


「シラっ!? イッテェんだけどっ!?」

イテぇなら、こりゃ夢じゃねぇな」

「確認なら自分のほっぺでやってくれませんっ!?」

「いや、……何か今は、全部信じられそうになくて」

「はいはいどうも! 俺を信頼してくれてありがとねっ!?」


 ギャンギャンわめく廉史を片手で押さえながら、煌司はノロノロと今あった流れを整理し始める。それでも何だか、心の整理はつきそうになかった。


 ──いや……言葉を惜しむにも程があんだろ、クソジジイ。


 しばらくぼんやりと考え込んでみた煌司だったが、結局うまく頭が回っていないことを再確認しただけで考えが止まってしまう。


 どう足掻いてもこれ以上考えが進みそうにないことを覚ってしまった煌司は、傍らに置きっぱなしになっていた竹刀を片手に立ち上がると、廉史に視線を落とした。


 煌司が反応を示さない間も元気よくギャンギャン騒いでいた廉史は、煌司の視線に身構えるかのように口を閉じる。両の拳を固めて煌司を見上げる廉史は、若干腰が引けつつも『や、やんのかコラ』という顔を煌司に向けていた。


 ──ま、戦う気概を見せてるだけ、上々じゃねぇの?


 しょぼくれてうつむいている顔を見ているよりは、自力で立ち上がって戦おうとしている気概が見える顔をしていてくれた方が、煌司も前向きな気分でいられるのだから。


「レン、一本立ち合え」


 煌司は手にした竹刀の先で廉史の傍らに転がっている竹刀をつついた。


「頭の整理が追いつかねぇ時は、とりあえず体を動かすに限る」

「んぇ」

「んだよ、カエルが潰れるような声出しやがって」


 竹刀を握る前から降参を示すかのようにホールドアップした廉史に、煌司は眉を跳ね上げる。煌司としては建設的な提案をしたつもりだったのに、なぜ廉史がここまで分かりやすく顔を引きらせているのか意味が分からない。


 その不満を跳ね上げた眉だけで示す煌司に、廉史は表情同様に引き攣った声を上げた。


「いや、だって……俺とシラでやんの? マジで?」

「この場に他に誰がいるってんだよ」

「いやいやいやいや。……シラ、自分の実力って、ちゃんと正確に分かってます?」


 さらに重ねられた問いに、煌司は眉を跳ね上げただけではなく、眉間に深めのシワも刻んだ。聞きようによっては『侮られている』とも解釈できる言葉に、無意識のうちに竹刀の先は廉史の胸元に向けられている。


「あ? お前と組んでも問題なんかねぇだろ」

「いーや、あるね!」


 だが廉史はその程度では引かなかった。


 むしろより一層声には熱がこもり、握りしめられた拳には力が込められる。


「普段の鍛錬で師匠おっしょさんと互角にやりあってるシラと、あくまで高校生基準で『ちょいできる』くらいの俺が立ち合ったら、俺がボコされるに決まってる!」


 ──は?


 侮っているわけではなく、むしろ煌司の腕を高くかっているからこその辞退表明。


 しかしこの言葉に煌司の眉間にはさらに深いシワが刻まれた。


「互角なわけねぇだろ。ありゃ遊ばれてるっつーんだ」

「その差が分かるシラと分からねぇ俺って時点でもう詰んでんだっての!!」


 今度は別の文句をギャイギャイと騒ぎ出した廉史に煌司は小さく溜め息をつく。何だかもう、自分が何に頭を悩ませているのかさえ分からなくなってきた。


「はいはい。んじゃそれが少しでも分かるように修練に励みましょーね」

「ンギィィィ! 棒読みヤメェェェッ!!」

「多少でも腕を上げといた方が、お前のためにもなるだろ」

「ド正論んんんっ!!」

「はい、分かったら構える」

「ぬぇぇ……頑張ったご褒美に、今日の昼にはシラ特製のパスタが食いたいぃぃ……」

「昼は食堂」

「ぬっぐぅぅぅっ!!」


 せっせと文句を口にしながらも、廉史はノロノロと支度を始めた。何だかんだと言いつつ、廉史も廉史で煌司との鍛錬は嫌いではないから、最終的にきちんと竹刀を握ってくるだろうという流れは読めていた。


 ──あとで廉史の方が得意な射撃訓練にも付き合ってやるかね。


『レンも剣術の筋は悪くねぇんだから、もっとやる気出しゃ強くなれんだろうに』と内心で呟きながら、煌司も煌司で本格的に立ち合うための支度を始めたのだった。

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